6.内調
永田町にある内閣府の関連施設。
ビルの正面入り口に立つ制服姿の警備員。その横をすり抜けたアンバーカラーのエルグランドは、地下へと続くスロープに消えて行った。
その空間は都下の喧騒から遮断され、夜のような静けさを保っていた。エルグランドは地下駐車場入り口のゲートをくぐると奥へ進み、建物内に通じる大きな通用口の前で停車した。薄暗い中にあっても、そこだけは煌々と照らし出されている。
エルグランドの後部スライドドアが開き、紺色のスーツを着た男が降り立つ。年齢は五十くらいか。整えられた髪、口髭を蓄えた端正な顔立ちは独特の風格を漂わせている。手元には使い込んだ鞄を携えていた。
スーツの襟元を正しながら前方を注視する男。視線は通用口の端に横付けしてある黒塗りのセダンに向けられていた。後部座席がスモークガラスで覆われたクラウン。かろうじて運転席に人影が確認できた。
視線を戻した男は通用口に向かって歩き出す。僅かだが歩き方にぎこちなさがある。左足を庇っているようだ。
通用口の自動ドアが開く。中に立っていたのは制服の警察官だった。セキュリティレベルが上がったことを感じさせる。
入って来た男を見咎め、敬礼する制服警官。男は挨拶ともとれる目配せを返す。奥のカウンターにも制服警官が控えており、その横にはセキュリティゲートが並んでいる。男は頸から下げていたIDカードをゲートの認証装置にかざした。軽い電子音と共に、透明なポリカーボネートのパネルが開く。男はゲートを抜けた。
エレベーターのドアが開く。中から先ほどの男が顔を出した。
到着したフロアの通路には採光の窓などは見当たらず、そこが上階なのか地下なのかは判別できなかった。男は殺風景な通路を進むと、アイボリーに塗られた鉄製のドアの前で立ち止まった。
天井にあるドーム型の監視カメラが、その様子を窺っている。男は横の壁にある液晶パネルに掌を押し当てた。《――認証されました》機械的なアナウンスが流れ、ドアのロックが解除された。
中はオフィスになっていた。所々に置かれているプランターの緑。部屋は木調をベースとした温かみのあるインテリアでコーディネートされていて、先ほどまでの光景とは対照的だった。
中央に並べられたデスク。職員と思われる数名の男女がPCに向かっていた。入って来た男に気が付くと、それぞれが順に頭を垂れた。皆スーツを着ている。事務仕事をこなしている、何処の会社にでもあるような風景だった。男はオフィスを見渡すように視線を走らせてから奥へと進んだ。
「分析官!」
男を呼び止める声が上がる。両手でファイルを抱え、パンプスを鳴らしながら駆け寄るワンレンショートヘアの女。ストライプの入ったダークグレイのスカートスーツ。ちょっと個性的なスクエアフレームの眼鏡。鷹野クレアは朝から戸惑した表情を浮かべていた。しかし、男がその様子を気に留めることは無かった。
「官房副長官が、お見えです!」
「ああ、分かっている。車を見た」
「何か問題が?」
「大丈夫だ、予想はついている」
男はあくまでも穏やかな表情を崩さない。
「……それなら、いいのですけどぉ」
語尾を上げた鷹野。安堵したのか、表情を和ませると男の後を追った。
彼女は南米生まれの日系四世。ラテン系らしく楽観的で陽気だ。若い頃に苦労しているようだが、その影を見せることは無い。現地の血が少し混じってはいるものの、外見も会話の受け答えも日本人と変わらない。
但し、「日本文化は漫画で学びました」と言っている彼女。もちろん、それが全てではないことを知っているだろうが、感覚のズレが生じてしまっていることは否めない。最近は自分も近づいている三十路という言葉にやたらと執着している。彼女の中で、それは日本的に大変重要な節目だと考えているようだ。間違ってはいない。
オフィスから繋がる廊下を進む二人。すると、唐突に一つの部屋のドアを開けた男。その想定外な足取りに驚く鷹野。
「あの、副長官は――」
「分かっている、待たせておけばいい。あの人の場合、その方が話を進めやすくなる」
振り向きながら軽く言い放った男。目をしばたたかせた鷹野だったが、妙に納得したように肩をすぼめた。
「……なるほど」
二人が入った部屋はデジタル機器の発する雑音が籠っている場所だった。今までの静寂なオフィスからすると、ある意味異質な空間となっていた。
壁に設置された複数の大型モニターが、薄暗い部屋に浮かび上がっている。大きなデスクには様々な機器が整然と並び、その中を十数人の職員が動き回っていた。PCを操作する者やインカムを付け通話を行っている者。又、モニターの前ではミーティングらしきことも行われていた。男は順番に歩き回り声を掛け始める。
男のポジションは内閣情報調査室の内閣情報分析官。いわゆる内調と呼ばれる機関で、特定の地域や分野に特化した情報分析を行なう事を職務としている。ここは彼の最前線。越谷隆太郎のオペレーションルーム。
ここを拠点として、さまざまなルートを通じて入手した情報を精査分析し、必要なソースを抽出する。普段より内閣に対して助言を行い、事案発生に際しては対策の立案までを行っている。
越谷は職員に一通り指示を出すと、オペレーションルームを後にした。鷹野もそれに続く。向かったのは越谷の執務室だった。廊下を曲がると、執務室のドアの傍らに誰かが直立不動で立っていた。
ダークスーツに身を包んだ体躯の良い男だった。耳から頸へと繋がる透明なコイルチューブが目に付いた。スーツの襟元にはSPバッチが窺える。男は越谷を視認するとジャケットの袖に何か呟き、エスコートするように執務室のドアを開けた。そして、中へと促す。当然の如く、越谷の後に続いた鷹野だったが、男の太い腕が行く手を遮った。
つんのめるように止まった鷹野。怪訝な表情で男の顔を見上げたが譲る気配は無く、さっさとドアを閉めてしまった。目をぱちくりさせる鷹野。それが警護課の仕事なのだろうが、断りも無く締め出す態度が気に入らなかった。
鷹野はこれ見よがしに咳払いをすると、口角を吊り上げ歯をむき出した。威嚇のつもりなのだが、彼女は少しばかり幼顔である。加えて片眉を吊り上げて見せるが、迫力が増すことはなかった。男は無表情なまま、視線どころか眉すら動かさない。
「……」
「……」
寸秒の硬直状態があるも、何も変わらず。
諦めた鷹野はどうともならない腹いせをぶつけるべく、相手を睨んだまま「ふん!」と鼻を鳴らして踵を返した。これでもかとパンプスを激しく鳴らして。
執務室で越谷を待ち構えていたのは年配の男だった。
髪はフサフサしているが、ほとんどが白髪だ。黒のブロウフレームの眼鏡をかけている。痩せてはいるが、仕立ての良さそうなスーツが様になっていた。見かけの年齢にそぐわない凛とした姿勢で、部屋の中央に置かれた応接セットのソファーに座っている。
越谷からの挨拶もままならないうちに話を始める年配の男。
「必要以上に私を待たせたのは、あれかね。私が短気だというところを逆手に取ろうという心理戦かね」
「……まさか」
苦笑するも、それを聞き流すように足を止めない越谷。一番奥に鎮座している重厚な机まで行くと、その上に鞄を置いた。
「呼んでいただければ、こちらから出向きましたのに」
「悠長にしている場合ではないのでね」
平然と答えた越谷だが、相手も決して苛立ちを見せることは無かった。
「では、昨夜の件について、話を聞かせてくれ」
越谷を向かいのソファーへと促した年配の男。その眼光は佇まい以上の鋭さを帯びていた。
大神尚蔵内閣官房副長官。事務方として官僚のトップに上り詰めた、そのキャリアもさることながら、永田町や霞が関でも一目置かれている存在である。俗に言う切れ者だが策士と称されることもあり、国内外問わず煮え湯を飲まされた者も少なくないという噂だ。当然、敵も多くなる訳で、通常は警護対象外である副長官にSPが付いているあたりが、その点を物語っている。しかし、その手腕は高く評価されており、総理や官房長官の信頼も得ているという。
越谷としては良くも悪くもその実力を認めているのだが、同じ警察官僚出身である為、手の内を見透かされやすく、やり難い相手である。但し、古臭い言い方ではあるが、未だに公僕として国への忠誠心が高い様は尊敬に値すると考えていた。
越谷はゆっくりとソファーに腰を下ろした。
「船内を隈なく捜索しても見つからなかったそうですね。海保から一応の報告は受けています」
「そんなことは、私も知っている」
大神の表情が曇り、眼鏡の奥の細い目が更に細くなった。
「私が知りたいのは、実際の状況がどうなっているのか、というところだよ」
「どういう意味でしょうか?」
気持ち頸を傾げて見せた越谷に大神が苦笑する。
「もちろん海保を所管する国交省からの正式な報告は受けている。加えて外務省と向こうの政府筋からのコメントも貰っているよ」
「……それ以上に、何を知りたいと?」
「君の知っている全てだよ」
今度は越谷が苦笑して吐息を吐いた。
「副長官は私を買被り過ぎです。私にそんな能力はありませんよ」
「そうかな? 今回の案件に関して、君が先頭に立って調整したことは誰でも知っている。故に、その後に関して無関心でいられるはずはなかろう? 違うか?」
「確かに各所を繋ぎプランニングはしましたが、私は国際的な案件の分析官です。率先して仕事をするのは当然でしょう。それに事が始まってからは、私の手を離れていますよ。副長官もご存知でしょう」
「……」
沈黙してみせる大神。人の心を見透かしたような雰囲気を醸し出すのがうまい。越谷は少し黙考した後、口を開いた。駆け引きは、まだ先でもいいと考えた。
「では、まず副長官の受けた報告を聞かせて頂けませんか? 私も分析官としての助言はできます」
「……よかろう」
ニヤリと笑う大神。情報は交換するのが基本だ。そのセオリーを、よく理解している人は少ない。大神は浮かない表情で話を始めた。
「ペンタゴンの海軍省が国交省に伝えてきたことと言えば、情報を整理精査してから今後の対応を協議する為の連絡を入れる。と、それだけだ。ホワイトハウスの担当補佐官とも直接やり取りしたが同じ内容だった。情報に関して、かなり渋っていることが感じられたよ」
越谷の予想通りだった。朝になっても状況が掴めず、米国側の反応も読み切れなかった大神。それで、ここに至ったということだ。国家安全保障局のポストも兼任している立場としては、苛立ちを覚えても当然だ。但し、焦って、というよりは自分の考えを確かめに来た、ということだろう。
「……それで、何か問題が?」
「無い。だから、それが問題だ」
越谷があえて訊き返した言葉に反応し、大神の眉間に皺が寄った。
「あれだけの案件後に何もないのは不自然だろう。政府としてもかなりの無理をして、向こうの要請に応じたのだからな。それなのに、この静けさは異常だよ」
本能なのか元官僚としての能力なのかは分からないが、大神の感覚は正しい。問題が無ければそれでよし、という他の連中とは違っている。この歳になっても求心力が衰えない理由はこういったところにもあるのだろう。越谷も敵にはしたくない相手だと常々考えている。
「つまりは単純に、これで幕引きにしたいのでしょう。海軍省が表に出ていますが、中身はCIAの案件ですよ」
「だろうな」
当然の如く、大神が頷く。
「日本の協力を得てまで拘束しようとしたことを考えると、向こうはかなり焦っていますね。事は重大だと予測できます。慎重になるもの当然です。ここは、もう少しアメリカの出方を待った方が得策と考えます。中国絡みではなおさらでしょう」
「そうだな」
相槌を打つ大神。
「とはいえ、こちらにとっては貸しが出来た訳です。政府としての目的も一番はそれでしょう。これは大きな価値がありますよ」
「ああ、総理の決断は評価している。だが、肝心の対象者はどうする? ……やはり海に逃げたということか?」
「そのようです」
「陸までたどり着いた可能性は?」
「それは無いでしょう。あの海域から陸までは相当離れています。泳ぎ切れる距離ではありません。逃亡を手助けするような船でもあれば別ですが……周辺の海域を朝まで捜索した海保の話では、そのような怪しい船舶は捕捉されていません。漂流していたとしても……春の海は、まだまだ冷たい」
大神は顎を引いて、微かに安堵した様子を見せる。
「追い詰められて死のダイブ、ということか……」
「そうですね」
大神は虚ろな微笑を浮かべたが、疑念を全て払拭するように話を続けた。
「……後で遺体が見付かったら、どうする?」
「身元不明の遺体として処理されるでしょう」
気安に答える越谷に、大神は怪訝な表情を浮かべた。越谷は続ける。
「対象者は諜報的な活動を行っていた人間ですよ」
越谷は淡々と答えた。大神は「うむ」と頷いた。
「身元が分かるようなものは持たない……か」
「そうです。ただ、念の為に相模湾の海流から漂着する可能性がある海岸線を割り出し、管轄する所轄の警察には事前情報を入れておく必要があるかと」
「分かった」
そう答えた大神だったが、まだ言うべきことがある様子だった。
「最後にもう一つ訊かせてくれ。今回のプランは正解だったのかね?」
「ええ……もちろん。今のところはということですが」
越谷は目を細めて、大きく頷いた。
「何かしらの訓練という筋書きを希望したのは海軍省側です。尚且つ、向こうの精鋭部隊が動くとなっては、一番都合のよい相方と方法を選んだだけですよ。実際、SSTとNavySEALsはうまくやったと思います。結果的に目的は達成できませんでしたがね。PSI臨検訓練としたものその為です。世間はPSIについて詳しく知らないですし、感心も少ないからです。まあ、相方がNavySEALsでしたので、頻繁に共同訓練を行っている海自のSBUという手もありましたが、自衛隊を使うとなると騒ぐ人も大勢いますからね……」
越谷の説明は筋が通っていると考えたのか、大神は黙って聞いていた。
「確かに“あきつしま”を尖閣から離すことにリスクはありました。しかし、中国当局も“あきつしま”の動向には関心を持ったはずですから、効果はあったと思います。こちらの報道を見た中国側は、必然的にPSI臨検訓練の本当の意味を察したはずです。訓練が中国と繋がりのある人間の乗った船に行われたとなればね」
越谷はソファーで前かがみになり、大神に顔を寄せた。
「その証として、CPCのスポークスマンは、この件に関して一切触れてきていない。エチオピア船籍とはいえ、中国の港を出航した船ですよ。それに対して直接PSI臨検訓練を行ったのです。兵器密輸の摘発訓練ですよ。抗議があって当然ですが、それが無い。つまり、痛い腹は探られたくない。そういうことでしょう」
大神も顔を寄せる。
「対象者の拘束はできなかったが、中国へのけん制という意味で米国の思惑は、ある程度実を成したわけか」
「そうですね。貨物船の海運会社、それに船籍国との交渉にはアメリカも関わっていますから、その辺の裏取りをするであろう中国は、いやでもアメリカの存在を意識するはずです」
「なるほど」
鼻から大きく息を吐いた大神。白髪を撫でつけるように手を動かした。
「で、結局のところ、対象者は何者だったのだ? 中共の沈黙具合から見ても、相応な機密に関わっていたことは想像できるがな」
「さあ、どうなのでしょう。ともかく、潜入させていた諜報員が、中国側へ寝返ってしまった。アメリカ側は詳しく話したがりませんでしたが、そういうことでしょう」
「そうだな。寝返ったことに気付いていないふりをして、表向きは保護するという理由か何かで中国から出国させたというところか……」
「ええ。そこは見抜かれてしまっていたようですがね」
「ああ……」
頷いて見せた大神だが言葉を切らす。そして、意味ありげな表情で一呼吸置いた。
「しかしだ。それにしても大掛かりな芝居になったものだな……これには、君としても何かの思惑があったのではないか?」
眼鏡の奥の鋭い視線が越谷に向けられる。
「それが何かは、私には解からんがね……」
冷めた表情で口角を上げる大神。試しているのか本当に疑っているのか判らないが、まだ疑念を持っていることは確かだった。常に気が抜けない男である。困惑した表情で苦笑する越谷。
「まさか、なにもありませんよ」
「……そうか、まあいい」
大神は渋い顔で吐息を漏らした後、あえて釘を刺すように言った。
「で、情報管理は大丈夫だろうな?」
「問題ないでしょう。この件に関して本当の目的を知っている者は極一部です。国交省では海保の担当官。海保自体では直接作戦に参加したSSTの隊員と指揮官だけです。それ以外の海保保安官は、PSI臨検の画期的な日米共同オペレーションだったと思っています」
「そうか……で、閣内は?」
「……それは、基本的に総理寄りの人間だけとなっています」
曖昧な表現でくくった越谷の言葉。それを聞いて大神は苦笑した。
「なるほど。そう言われると、あえて心配が必要なのは身内かもしれんな」
「……」
大神は目を細めて、肯定も否定もしない越谷を一瞥した。
「やはり情報通というのは本当だな。ここの室長だけでなく、総理の取り巻きも頼りにするはずだ」
それは、褒め言葉とも嫌味とも取れた。
越谷は形骸化していた内閣情報調査室の改革を行ってきた。持ち前のコネクションは短期間で強みを発揮した。警察庁の公安警察、法務省の公安調査庁、防衛省の情報本部、もちろん外務省にも太いパイプを持っている。加えて外郭団体や国内外の大手セキュリティ会社にも顔が効いた。世間から見えない部分ではあるが、越谷チームの実績は誰もが評価するところとなり、特別予算が当てられるまでになっていた。だが、最終的に目指すところはまだ先にあった。
「煙草を吸ってもよいかね?」
大神はスーツの内ポケットを弄りながら言った。
「どうぞ」
越谷が手を差し伸べると、大神はテーブルにあった灰皿を引き寄せた。
「しかし、その対象者は女だったと聞くが」
顔色を良くした大神が、煙草に火をつけながら訊いた。
「ええ、そのようです」
「大した女だな」
「そうですね。ですが、世界では我々の想像を超えたことが常に起こっていますよ。日本にいては分からないような事が……」
そう言った越谷は部屋の壁を見遣る。額に入った写真がいくつか飾られていた。その一つに、青空の下砂漠を背景にラクダと一緒に写っている越谷の姿があった。今より随分若い感じだ。越谷は写真を見詰めたまま佇む。何かの記憶に思いを巡らせているようだった。
大神が吹かした紫煙が、その横でゆっくり渦を巻いていた。