5.いろは
熊田と仕事の打ち合わせをするのはいつもここだ。
転々と寝座を変える熊田。ほとんど住所不定のライフスタイルで、用がある時だけ直哉の前に現れる。彼がそんな生活をしているのは、日常の行動パターンを固定しない為だ。
中東から帰って十年近く経つが、ずっとそんな生活を続けている。身近な俗世間と距離を取ることで、安心を得られるらしい。いわゆるPTSD、心的外傷後ストレス障害と診断された者の一人だ。
しかし、本人は少しも重く受け止めていない。「無理に克服しようとすれば、余計に苦しくなるだけ。その時、一番楽な生き方をすればいいのさ。背負ったものは一生降ろすことができないんだから」などと、案外冷静に分析してみせる。
2003年3月、米軍の空爆で始まったイラク戦争。直哉と熊田は、その後の数年間をバグダードで過ごした。お互い会社は違ったが、当時で言うところのPMCで要人警護や治安維持といった支援を行った。
社会が変化するように、戦争という行為も様変わりしていた。2000年代に入ってからPMCに対する需要は拡大する。業務は戦闘行為から、ゴミ処理まで多岐に渡る。要は戦争のアウトソーシングである。国と企業の利害が一致した結果だが、その歪はいろいろなところに影を落とすこととなる。
直哉と熊田もまたしかりだった。特殊な環境を経験したことで、専門家としての知識とスキルは得た。しかし、開戦から混乱が続いたバグダート。イラク正規軍は倒れたが、残党となった武装勢力の抵抗は占領軍の予想に反して大きくなっていった。民間人に紛れて、ゲリラ的な攻撃を仕掛けてくる武装勢力。当然、PMCもその対象となった。敵味方の判別がつき難い相手を前にしての業務は、想像を超えるストレスを伴った。
非現実的な世界に身を置くと何かが変わってしまう。熊田は一時期、自分を見失ってしまった。誰にでもありうる事である。直哉といえば、友子がいたから今があるだけだった。人それぞれだが、単純なことだ。
理屈や道理だけで、彼らの世界は生き抜けない。
直哉の家の近所にある喫茶店“いろは”。店内の壁は米松材の腰板が張られ、床はレンガ調のタイルが敷き詰められていた。落ち着きのある内装だが、昭和の香りがする佇まいという見方もあるかもしれない。いつも落ち着いた趣のジャズが流れていた。
「クマ、早く見せろ」
一番奥のテーブル。コーヒーカップが二つ置かれている。直哉は正面に座っている男を急かした。
坊主頭に近い短髪、焼けた肌。190センチはあろうかという大柄な体躯もさることながら、太い頸と筋肉が隆起した肩は熊を連想させるに難しくない。一見して荒々しく見えるが、目尻に皺を寄せる顔は意外にも可愛らしい。風貌と吊り合わないことの意外性で、得をするタイプの人間かもしれない。
「慌てないで下さいよ」
もったいぶる熊田。おもむろにショルダーバックから、A4サイズのタブレット端末を取り出した。指先でアプリケーションを選択すると直哉に渡す。
「どう思います?」
それを覗き込む直哉。映った静止画を指先で流しながら確認する。いくつもの画像が続いていた。
横浜の海上防災基地であろう港の岸壁に接岸している海上保安庁の大型船。巡視船“あきつしま”と考えられた。その乗船タラップから、下船している黒い戦闘服姿の集団。人数は十人ほどか。薄暗闇の中撮られたと思われる画像は、色合いこそほとんど無いが画質は高く鮮明だった。高感度の望遠レンズを用いて撮影されているようだ。
画像は途中から、乗船タラップから降り立った戦闘服集団の動きを追っていた。埠頭には待機していたようなハイエースなどのワンボックスが並んでおり、集団がそれに乗り込んで行く。想像するまでもないが、何らかの仕事を終えて撤収する様だ。体躯のよい屈強そうな男達が、それぞれ黒い大きなダッフルバックを担いでいる。大量の個人装備を詰め込んでいるのであろう、バックはパンパンに膨らんでいた。
男達は精悍な顔つきをしており、異種独特な雰囲気が感じられる。直哉は画像を動かしつつ、ズームを繰り返す。背中には“海上保安庁”の白抜き文字が確認できた。
直哉は少し黙考した後、熊田を一瞥した。
「なるほど、タイミングからしてSSTだろうな。で……さっき言ってた、それだけじゃないとはどういうことだ?」
「それは、ですね……」
熊田は不自然に言葉を切って、タブレット端末を直哉の手から取った。液晶パネルに指を滑らせ、別のファイルを開く。熊田が半眼で直哉を見遣りながらほくそ笑む。直哉の反応を期待している感がありありと出ている。やはり、学生の様なガキのノリだった。
「さっきのに続いて、こいつらも“あきつしま”から出てきたんです。篠崎さんは、どう見ます?」
熊田が顎を突き出し意気揚々としてみせる。
「こいつら……」
再びタブレット端末を渡された直哉は表情を強張らせた。瞠目し生唾を呑む。
映っていたのは6人の男達だった。同じように黒い戦闘服姿で身を包んではいるが、背中に“海上保安庁”の白抜き文字は無かった。そして、男達の風貌は明らかに日本人ではなかった。
ブロンドと思える白人。暗闇に溶け込んでしまいそうなスキンヘッドの黒人。ヒスパニック系の顔立ちの者もいる。先ほどの海保隊員よりも、皆体躯が一回りも二回りも大きかった。こちらも同じく大きなバックを抱えていた。
押し黙るようにして手を止めた直哉。それを見た熊田はタブレット端末に指を伸ばし、これ見よがしに滑らせた。
「極めつけは、これです!」
熊田が示した画像は、外国人と思われる男達がアメ車のフルサイズバンに乗り込むところだった。海保隊員が乗り込んでいたのとは違う車両。画像はそのナンバーも鮮明に捉えていた。
それを見た直哉。ゆっくり視線を熊田に合わせる。だが、沈黙は破らなかった。
「……あれっ?」
前のめりになっていた熊田が、直哉の反応が稀有なことに拍子抜けして、テーブルからガクッと肘を落とした。直哉が仰天する様を想像していたようだ。
期待を裏切られた熊田だったが、再び直哉と視線を合わせてほっとする。直哉の表情が明らかに変わっていたのだ。熊田はご満悦気味に微笑むと椅子に深く座り直した。
再びタブレット端末に視線を落とす直哉。苦笑とも取れる地味な微笑みをする。
「お前の言いたいことは分かったよ……」
熊田は続いてその口から出る言葉を待った。自分の考えが正しいという自信はあるが、そこは直哉のお墨付きが欲しいところだった。
「厳つくて怪しい連中が乗り込んだ、このGMCのバン。在日米軍のナンバーだな」
「ええ」
「しかも、厚木」
「そうです」
大きく相槌を入れえる熊田。
「米海軍か……」
直哉はそう言うと、額を指でコツコツと叩きながら熊田を一瞥する。厚木基地が米海軍の日本における拠点の一つであることは誰でも知っている。導き出される答えも自ずと狭まる。
「つまり、クマはこいつらがあれだって言いたいんだろ?」
「ですね」
熊田は目を細めた。二人の考えが合致したようだ。直哉は一呼吸を鼻から抜いてから、はばかられることなく言った。
「SEALか?」
熊田が大きく頷く。
「ええ、そう言ってくれると思ってましたよ!」
椅子をガタつかせて燥ぐ熊田。大きな躰に似つかわしくない滑稽な動きだ。しかし、直哉はもう一度確かめるようにタブレット端末に視線を落とした後、渋い表情で問い掛けた。
「確かに、こいつらが海軍であることは間違いないだろうが、本当にそうだと思うか?」
「いやいや、篠崎さんなら雰囲気でわかるでしょ? イラクでも多少は見かけたことあるんじゃないですか?」
「ああ。確かに、その雰囲気はある……普通じゃない連中だからな」
「そうでしょ」
「だけど、ここは中東じゃない。日本だ」
「ええ。でも、SSTと一緒に行動してるんですよ。可能性は否定できないでしょ?」
返す言葉を探しつつも唸る直哉。
熊田の言うことはもっともだ。彼も承知の上で話しているのだが、発足当時のSSTを訓練指導したのは米海軍特殊部隊のNavySEALsだ。今でも繋がりがあることは十分考えられる。
「ほら、ほら」
黙する直哉を見て、熊田は嬉しそうに言った。額に手を当て俯いた直哉。そして、下から熊田を見上げる。
「なるほど。たしかに面白いネタで、その可能性はあると俺も思う……では、米海軍の精鋭部隊が、PSI臨検の訓練を終えた“あきつしま”にSSTと同乗していたとして……つまるところ、何の為に?」
「もちろん、それが知りたいんですよ。だから、ここに来てるんじゃないですか!」
妙なテンションで返された直哉は、熊田の本当の目的を知った。
「篠崎さんも興味が湧いてきたでしょ?」
そして、いつもの常套句。
「……そういうことか」
呆れ顔で苦笑する直哉。つまりは、この面白そうな案件に加わって一緒に楽しもう、ということらしい。熊田に視線を送りつつ、暫し黙考する直哉。
今回、相模湾沖で実施されたPSI臨検の訓練。拡散に対する安全保障構想PSIに基づき、ミサイルや化学兵器などの大量破壊兵器の拡散を防ぐ為、協定を結んだ各国が兵器の密輸と疑われる船舶などに強制立ち入り検査を行うものだ。
目標が見つかれば、それを押収し乗組員を拘束する。一見すると自衛隊が行うような案件であるが、基本的に日本領海内であれば海上保安庁が担当し、要請があればSSTがその任務に当たる。海上保安庁の特殊警備隊SSTは自衛隊に近い装備を持ち、その能力も極めて高い。今回のような訓練に参加するのは通常であるし、報道でもそうなっている。
しかし、そこにSEALがいたとなると話は簡単に納まらない。状況を見る限りでは、戦術顧問やアドバイザー的な役割を果たしていたと考える事はできる。だが、直哉は違うと考えていた。熊田も同様だろう。
つまり、巡視船“あきつしま”の通常警備を外してまで参加させた価値が、今回の訓練にあったとは思えないし、そうなると、PSI臨検訓練の報道自体も後から取って付けたような印象を受ける。
両手で頭をかき上げながら天井を仰ぎ見た直哉。その挙動に注目する熊田に呟くように言った。
「……で、クマ。このネタどうするつもりだ?」
「そんなこと、まだ何も考えてないですよ。取り敢えずの興味本位ってやつです」
熊田は直哉の顔を懇願するような表情で覗き込んだ。苦笑する直哉。
「……分かったよ」
「え、えっ?」
少しわざとらしいリアクションで応えた熊田。
「今、抱えている重要案件はないから手伝ってやるよ。お前の言う通り、俺も興味出てきたからな」
「やった、やった。そうこなくちゃ」
鼻息を荒くした熊田は、満足そうな表情で帰り支度を始めた。
直哉もそうだが、この手の話となると頸を突っ込みたくなる性分は変わらない。中東での仕事と比べると、単なる知りたがりのオタクみたいだが、このギャップが今の日本のリアルさだと直哉は考えている。それに、政府からの軍事情報がなかなか出てこない日本においては、こういった情報収集も意外と重要となる。多くはないが、それらを欲しがるシンクタンクも存在するのだ。