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ポルタトーリ  作者: Vapor cone
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37.始まりのブカレスト

 友子の母親、エヴァ・メチニコフはルーマニアで生まれた。ロシア系フランス人の父、トルコ系ルーマニア人の母という血筋を持つ。

 首都ブカレスト。市内を流れる大きな川。かつての王室ゆかりの植物園や公園が随所に点在し、石造りの建物が建ち並んでいる。歴史ある美しいヨーロッパの街並み。彼女はその片隅で幼少期を過ごした。

 共産党の独裁政権時、ルーマニアは東欧にありながらソビエト連邦と距離をおくという奇知に富んだ政策をとった。東西冷戦の最中、東側と西側を天秤に掛けるという危ういものではあったが、それは功を奏し西側諸国から多くの支援を獲得するかたちとなった。

 支援は主に経済的なものであったが、一部学術的なものも含まれていた。その一環としてフランスからルーマニアに渡り、生物の研究を開始したのがユーリ・メチニコフであった。エヴァの父親である。当時、新しい研究のための受け入れ先を求めていたユーリ。フランス政府が仲介となりルーマニア政府に紹介したのが経緯である。

 彼の学術支援は短期的なものであったが、生物学の分野において大きな成果を上げた。それは学術的にも高く評価されることになる。ルーマニア政府もこれを見逃さず、一時的な支援者の枠を超えて研究の継続を彼に打診する。フランスに戻るよりもルーマニアに残った方が好待遇で研究ができるのは明らかだった。

 ユーリは改めて国立大学の教授として迎え入れられることになる。半ばルーマニア政府に囲われるような形態での研究であったが、独裁政権とは言ってもそこそこ自由はあり不満はなかった。

 当時、エヴァの母親となるイゼルは国立大学の職員として働いていた。幼いころから体操選手として将来を嘱望されていた彼女。後にナディア・コマネチを輩出する名門体操クラブに所属していたが、その選手生命は十代半ばにして怪我により絶たれていた。

 そんな彼女が新しく選んだのは生物学という道だった。今までとは全く違う世界であったが、体操と同じようにのめり込んだ。生き物に興味があるという理由で入った道だが、そこでも才能は開花する。体操の為に遅れていた学業もあっという間に取り戻し、難関の国立大学へと進んだ。努力あっての賜物なのだが、やはり周囲はその秀才ぶりに驚いた。

 在学中は、さらに生物学の道に傾倒していく。卒業後は何の迷いもなく研究室に残った。既に生物学が生きがいとなっていた彼女。そんな中、突如大学に現れた鳴り物入りの学者ユーリ。エヴァが興味津々となるのは当然だった。

 大学に入り新しい研究室を立ち上げていたユーリ。人手を確保する為、広く共同研究者を募る。イゼルは真っ先に手を上げた。有名教授と高度な研究ができる機会などそうそうない。複数の応募があった中、誰もが認める優秀さと猛烈アピールの甲斐もありイゼルはその座を獲得した。

 共同研究を始めて、すぐに意気投合する二人。同じ目標に向かって切磋琢磨しながら研究に没頭した。頭脳明晰でありながら、控えめで温厚なユーリ。有能で健康的な美貌を持つイゼル。お互いを認め尊敬し合う中で、その気持ちは徐々に変わり始める。二人の距離が縮まるのに、さほど時間は掛からなかった。ユーリとイゼルは恋人として結ばれた。

 四十代のユーリと二十代のイゼル。歳は離れていたが、周囲でそれを気に留める者はいなかった。それほどお似合いだった。やがて、二人は大学の仲間や友人に祝福され結婚する。間もなくしてエヴァが誕生した。

 イゼルとエヴァの為にルーマニアに定住することを決意したユーリ。だが、夫婦でおこなっていた研究は政権の独裁色が強まる中、意図しない方向へと向かい始める。その状況に気が付き後悔した頃には、既に抜け出せなくなっていた。いつの間にか一家は政府の監視下に置かれ、研究内容に関しても政府の関与を拒否できなくなっていたのだ。

 実情、捕らわれの身になったメチニコフ一家。エヴァの身を案じるばかりの夫婦は、倫理上問題がある研究にも手を染め始める。政府に求められるまま、人の遺伝子操作の研究に着手する。そんな生活は長きに亘って続いた。

 両親の苦悩を知る由もないエヴァ。つくられた幸せの日々を何の疑いもなく受け入れていた。十分な愛情を注がれ、恵まれた環境で何ひとつ不自由がない生活。それは幼女から少女へと成長しても変わらなかった。元々何でも起用にこなす彼女だったが、学生となってからは父と母の遺伝子が顕著に表れる。成績優秀、スポーツ万能。それでいて母親譲りの美貌。才色兼備。彼女の周りにはいつも人が溢れていた。

 しかし、誰もが羨む人生は脆かった。それは、革命によって終わりを告げる。

 1989年、長らく続いた独裁政権の圧政に対して国民の間で民主化運動が巻き起こる。大統領だったニコラエ・チャウセスクは大統領直属の治安部隊でこれを鎮圧。しかし、国軍がそれに反発した。大統領に反旗を翻し民主化勢力に加担。これを機に治安部隊と国軍との間で武力衝突が勃発。結果的に見れば民衆を後押しした国軍が勝利。後に、大統領は拘束され処刑されることになる。

 突如として勃発した内戦。メチニコフ一家は途方に暮れた。予想以上に革命機運の高まりは早く、騒乱はルーマニア全土に広がった。当局の目は疎かになっていたが、父親の故郷であるフランスに逃れる術は無くなっていた。ブカレストに取り残された一家。民主化勢力が、独裁政権から恩恵を受けていた者達を手当たり次第に標的にしているとの噂が伝わってくる。革命に熱狂した民衆が街を埋め尽くす中、身の危険を感じた三人は自宅から逃げ出す。だが、ブカレスト市内は既に戦場と化していた。

 それは一発の銃弾だった。

 放ったのが治安部隊なのか国軍なのかもわからない。橋を渡ろうとしていたメチニコフ一家を襲う。父親と手を繋いでいたエヴァが引き摺られるように倒れ込んだ。彼女は目撃する。父親の胸から石畳に流れ出す鮮血と、その躰を揺さぶり泣き叫ぶ母親の姿。目の前で起きた非情な現実。エヴァは石畳に膝を付きながら悲しみと恐怖に打ち震えた。


 動乱は一週間程で治まった。ルーマニアは多くの犠牲と引き換えにを民主化を成し遂げた。しかし、エヴァにとっては辛い人生の始まりでもあった。

 事態が鎮静化を見せ始めたブカレスト。イゼルとエヴァの姿は在フランス大使館にあった。ユーリの亡骸を傍らに悲しみに沈む二人。イゼルは混乱するルーマニアを離れる決意をする。行き先はフランスだった。

 ユーリの故郷でもあるパリに移った母と娘。ユーリの親類の援助もあり、裕福とは言えないまでも生活に不便は無かった。落ち着いた生活を取り戻せた二人だが、エヴァはずっと塞ぎ込んだままだった。突然起こった父親の死。十代前半の少女には辛すぎる現実。ユーリの親類達は皆、そんなエヴァに気を使い優しく接してくれたが、彼女にとってはそれが逆に悲しみを増す結果となっていた。

 明るく快活だった娘が部屋に引き籠るようになっていく。それを見守ることしかできないイゼルも辛かったが、その症状は日を増すごとに悪化していくばかりだった。

 そんな時、イゼルの前に一人の人物が現れる。男はアメリカの生物研究機関に属しているという。ビクター・ヒルと名乗った。何処から聞きつけてきたのか分からなかったが、ユーリ・メチニコフのことを良く知っていた。警戒するイゼル。予想通りその男が望んでいるのは、ルーマニアの大学でユーリとイゼルがおこなっていた遺伝子研究についての情報だった。

 独裁政権の下でおこなっていたそれは倫理的に許されるものではなく、使い方によっては悪用される可能性もあった。決して公にはできない研究。世の中にその噂が流れていたことも知っている。ビクターのような人間が現れる可能性があることは予想していた。向こうでの研究について、一切を封印するつもりでいたイゼルはビクター・ヒルを拒絶する。

 しかし、彼からのコンタクトは執拗に続いた。イゼルに対しアメリカの研究機関への入所を強く勧めるビクター。彼女の決意が固いと見るや否や、持ち出してきたのはエヴァのことだった。既に重度の鬱病で深刻な状態となっていたエヴァ。しかも、度々自傷的な行動に走るまで容態は悪化していた。ビクターはエヴァを取引に使いイゼルを揺さぶった。親子でアメリカに来れば、娘に最高の治療を約束すると言って。

 イゼルは悩んだ。治療の件もそうだが、父親の歴史があるパリを離れることで、エヴァの気持ちに変化を期待することはできる。新天地のアメリカで新しい生活を始めることは悪い話しではない。それに、いつまでもユーリの親類の世話になり続ける訳にもいかない。いずれ自活を迫られる。

 イゼルはこの機会を前向きに捉えることにした。倫理的に問題ある部分を伏せたままでも、ビクターの誘う研究機関に貢献できることは多い。彼も自分達がおこなってきた研究の全てを把握している訳ではないのだから。

 イゼルは渡米という道を受け入れる。全ては最愛なる娘の為の選択だった。


 ――数年後。

 渡米を境にしてエヴァの容態は大きく改善していた。新しい生活環境と全米でも名の通った精神科医による治療が功を奏した。ハイスクールに通うようになると、ほとんど学校を休むことは無くなった。昔の姿を取り戻したような彼女。その表情は見違えるほど明るくなった。

 イゼルもそれを喜んだが、そこはかとなく不安な要素も感じていた。それは、自分と同じ血統を持つ娘に対しての憂い。それは当事者にしか分からない、決して拭えない感情だった。ルーマニアでの研究によって偶然判明したことだが、娘にその事実は伝えていない。この先話すつもりもなかった。決して他人に知られてはいけない事実。

 ニューヨーク州郊外の緑豊かな住宅地。そこにマンハッタンの喧騒は無い。前庭の芝はきれいに刈り取られている。白い壁にレンガ色の平瓦屋根。アメリカのホームドラマに出てきそうな一般的な戸建住宅だった。

 時は正午を回ったところ。

「(ママ。できたわ! 早く来て!)」

 キッチンでイゼルを呼ぶエヴァの姿があった。後ろでまとめた栗毛色の長髪を揺らしながら、食器棚から器を取り出している。ゆったりしたTシャツにデニムのパンツ。長くしなやかな手足は体操選手だった母親の躯体を受け継いでいた。

「(はい。今、行くわよ)」

 リビングから返事をしたイゼル。会話はルーマニア語だった。外ではもちろん英語だが、二人の時は母国語で話すことが多かった。

 キッチンに置かれた小ぶりなテーブルに配膳するエヴァ。休日である今日、イゼルに習ったばかりの料理を一人で作ると言って午前中から奮闘していたのだ。メニューはルーマニアの伝統的な煮込み料理チョルバ。その鶏肉バージョン、チョルバ・デ・プイ。野菜たっぷりなのがイゼル伝承だが、その味を再現できるかが見せどころであった。

「(――さあて、どんな出来かしら)」

 キッチンに現れたイゼル。少し茶化すように言って椅子に座る。肘をテーブルに着き、含み笑いでエヴァを見上げる。それに対し、エヴァはエプロンを脱ぎながら挑戦的に言い放つ。

「(何言っているの? 完璧に決まっているでしょう)」

「……」

 一瞬瞠目したが、目を伏せ失笑するイゼル。エヴァはその態度には反応せず、チョルバが入ったスープ皿をイゼルの前に置いた。自分も座る。料理を挟み対峙する二人。スプーンを持ったイゼル。エヴァの表情を窺うようにして、チョルバを口へと運んだ。固唾を飲んで、それを見届けるエヴァ。

 並んでいると二人は良く似ていた。長いまつ毛にグリーンの瞳。すっと通った鼻筋と顎のライン。そして、品のある口元。エヴァは母親の優美さを受け継いでいる。ふくよかな頬に幼さは残るが、とても美しい女性になっていた。

「(……どう?)」

 神妙な表情でイゼルの顔を覗き込むエヴァ。皿に置いたスプーンの柄を指で撫でながら頸を傾げるイゼル。四十代とは思えない美貌ではにかんでみせる。

「(うーん……Dマイナスかな)」

「(えっ! なによ、それ。辛口過ぎるわよ)」

 地団駄を踏むエヴァ。不満を露わにするも、下された評価は正しかった。

「(ボルシュを入れ過ぎね。酸味が強いわ。隠し味のワインビネガーで味を調えるの忘れていない?)」

「(あ……)」

「(ほらね。それと、サワークリームはもっと入れた方が、私好み)」

「……」

 恨めしそうにイゼルを見据えるエヴァ。器用なのだが、料理のセンスは今一つのようだ。しかし、負けず嫌いは一人前、執念は二人前。

「(悔しい。絶対ものにしてみせるんだから!)」

 エヴァはチョルバを自分の皿に並々入れると、ガツガツと流し込むように食べ始めた。

「(エヴァ、行儀悪いわよ! もうすぐ大学生になるのだから、エレガントに振舞える大人にならないとダメよ!)」

 釘を刺されたエヴァは過敏に肩をすくめた。打って変わって反省の色を見せ背筋を正す。

「(……はい)」

 イゼルは行儀作法については厳しい人だった。上品な舞いは女性にとっての美徳であり、基本として身に着けておくものだと常々言っている。それだけに、ここは譲歩しておく必要があった。そうしないと後が怖いからだ。

「(料理もいいけど、大学の準備は良いの?)」

 さりげなく訊いたイゼル。今、本当に大事なのはそのことだった。料理の腕前より優先されるべき事柄。しかし、エヴァは心外そうにしてイゼルを見遣る。

「(大丈夫、問題ないわ。成績平均値(GPA)は一年生の時からオールAを維持しているし、大学進学適性試験(SAT)の点も良かった。後は自己アピール(パーソナル・)エッセイ(ステートメント)の内容を詰めればいいだけよ)」

「(そう……なら、いいけど)」

 こくりこくりと黙って頷き、自信満々に胸を張るエヴァ。イゼルは複雑な表情で苦笑する。ジュニアハイスクールの時は殆ど学校に通えていなかったのに、今やアイビーリーグの大学が狙えるまでの秀才。先生方のお墨付きも貰っている。

 母親としては鼻が高いのだが、どことなく不安に駆られる。あの血が影響しているとはいえないが、何かにつけ突出してしまう彼女の才能。病気だったのが嘘のように、今は自信に溢れ大胆なまでになっている。親なら誰でもそう思うのだろうが、エヴァは本当に特別だった。幼い頃もそうだが、成長するに従い顕著さは増大してきている。

 取り越し苦労なら良いと思っているが、その特別に翻弄される人生は遅らせたくない。しかし、胸騒ぎは治まらない。母親としては人並みの人生を歩んで欲しいだけなのに。


 その年の秋。エヴァは名門プリンストン大学に入学し、隣のニュージャージー州へと移った。大学寮に入り新たな生活が始まる。母親と離れたことは寂しかったが、ルームメイトともすぐに仲良くなり環境に順応していく。

 一心に学業に励むエヴァ。専攻は地政学。

 彼女の中にはある思いがあった。大学での目的は最初から決まっている。母親にも話していない心情。それは、ルーマニア革命で自分が受けた境遇からくるもの。父親のショックから立ち直ってからは、ずっとあの革命について自分なりに考えてきた。

 心の病に掛かった者の治療法としては、その原因から遠ざけることでケアをはかる。エヴァも最初はそうだったのだが、ある時を境に自分自身でその原因と向き合うことを決める。原因を探求することで、自分の心に決着を付けようと考えたのだ。何故あの革命は起こり、何故父は死ななければならなかったのだろうかと。自分が感じた理不尽さを払拭っする為にはどうすればよいのだろうかと。

 すると、早い段階でルーマニア革命にまつわる話を知る。それは、革命を工作したのはCIAだったというものだ。事新しい内容ではないし、ずっとそんな噂はあった。しかし、事実は未だに判明しない。今後もきっと答えは出てこないことも分かっている。だが、エヴァはその良く分からないものに強い興味を持った。そうやって世界は変わっていくのだと。誰かの人生とは関係なく起こるのが現実。

 その感情は自分の境遇を越えてどんどん膨らんだ。合わせて視野も広がった。常にこの世界で起きている何かを知りたくなったのだ。とことん深みを見てやろうと決意した。この大学はその足掛かりだった。


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