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ポルタトーリ  作者: Vapor cone
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2.ニュース

 朝靄を抜けた柔らかな日差しが注ぐ。都心から少し離れた郊外の住宅街。

 まだ人通りの少ない道路を猫が我が物顔で歩いている。それを見付けたのか、近所の犬が勢い良く吠えたてた。猫は軽く振り返ったが、動じることなくフェンスをくぐる。入った先は小さな公園だった。

 何処からか、微かなアラーム音が聞こえる。それは、公園を取り囲んで並ぶ戸建ての一軒からだった。ちょっとモダンな三階建てのコンクリート住宅。音はその三階から漏れ聞こえてきていた。三階建てといっても、二階建ての屋上に一部屋だけ増築したような、少し変わった造りだった。窓には花柄のカーテンが掛かっている。


 けたたましい電子音が室内で鳴り続けていた。音の主である目覚まし時計は、ベッド脇の飾り棚に置かれている。丸くて可愛い外見に似合わない音量だ。

 すると、ベッドの中からもぞもぞと伸び出る腕。手探りで時計を鷲摑みにすると、そのまま引き込んだ。アラームはすぐに止まったが、暫くして、くぐもった声がベッドの中から響く。

「ぎゃーっ!」

 フリルの付いた寝具を跳ねよけ現れたのはパジャマ姿の少女だった。しかし、何故か一旦動きが止まる。ベッドにぺたんと座ったまま、目覚まし時計を両手で掴んでガン見する。だが、どれだけ見ても時計の針は現実を指し示していた。

「よし!」

 何に納得したのか分からないが、少女はベッドから勢いよく飛び出した。女子の寝起きとは思えない、軍隊の起床顔負けの勢いで支度が始まった。乱れた長い黒髪を整え、クローゼットを開ける。

 時折、繰り返されてしまうこの光景。本日、篠崎友子(しのざきともこ)の一日は大変まずい状況で始まった。


 着替えを済ませた友子は二階のリビングに駆け下りた。

 そこには男が一人。キッチンカウンターに寄せられた大きなダイニングテーブルでコーヒーを啜っていた。テーブルに広げられた新聞。その横のバスケットにはクロワッサンが積まれていた。

 男はさっぱりとしたヘアスタイルで、顎のラインに沿って短い髭を生やしている。一見して何処にでもいる普通の中年だが、ラフなシャツを着ていてもわかる体躯の良さが際立っていた。

 友子は男を横目で一瞥する。制服のブレザーをテーブルの椅子に掛け、カバンをソファーに放った。

「ちょっと、起こしてよね! 目覚まし時計、ずっと鳴ってたでしょ?」

 不躾な顔つきのまま、慣れた手つきでスクールシャツにネクタイを結ぶ。男は新聞の記事から目を離さず答える。

「……まだ余裕あるだろ? 早く起きてもダラダラしてて、結局家を飛び出す時間はいつも同じじゃないか」

 苦笑交じりであげつらう言いように、眉尻を吊り上げた友子。

「女子の朝はいろいろやることがあるの! まったく、やさしさというものが感じられないし!」

「そうか? 十分やさしいと思うがな」

 男はカップ片手に新聞を覗き込んだままだ。友子は目を見張る。

「何処が? ……って、もういい!」

 虚勢を張ったものの尻込みする友子。チェック柄のスカートを揺らし、じたんだを踏む。この状況でやりあっている余裕は友子に無かった。膨れっ面のままテーブルのクロワッサンを掴み取る。

 しかし、口に運んだ途端、友子の顔がほころんだ。予想外にサクサクと小気味好い音を立てるクロワッサン。

「なにこれ、美味しいじゃん!」

 味に瞠目した友子だったが、すぐに視線は部屋の端に置いてあるテレビに留まってしまった。

「どうだ、美味いだろ? それがやさしさだよ、分かる? なんてったって……」

 得意げに訴えた男だったが、その言葉は友子の耳に届いていなかった。友子の視線の先では、朝の情報番組が何かを忙しなく伝えていた。

《――これは昨夜、相模湾沖で行われた海上保安庁のSSTによるPSI臨検を想定した訓練の様子です――SSTとは海上保安庁に所属する特殊警備隊のことで、1985年に発足した――今回の訓練は大型巡視船“あきつしま”を中心に展開され――》

 テレビに映し出されているのは、船内を捜索する黒づくめの隊員達の映像だった。全て隊員が身に着けたウェアラブルカメラアングルで撮られている。十分すぎるほどの迫力を臨場感たっぷりに伝えていた。

《――PSI、拡散に対する安全保障構想は、国際社会の平和と安定に対する脅威である大量破壊兵器、ミサイル及びそれらの関連物資の拡散を阻止する為の――》

「……海保のSST……PSI……あん?」

 友子は訝しむ顔でテレビを凝視したまま、途切れ途切れに呟いた。

 その様子に何かを感じた男だったが、それとは別に友子の行いに唖然とする。眉間に大きな皴を寄せた男はカップをテーブルにゴツンと置いた。

「こら! そんな食べ方ないだろ!」

 友子はテレビを見詰めたままクロワッサンを口に押し込み、コップに注いだ牛乳でガツガツと流し込んでいた。

「朝から並んで買って来た、焼きたてだぞ。それじゃ味が分からんだろうが! もっと味わえよ!」

 不満を露わにして声を荒げた男だったが、友子はテレビをじっと見詰めたままだった。

 男は「まったく……」と嘆きながらも、一呼吸してから解説口調で呟いた。

「SSTは海保の精鋭部隊だ……」 

「そんなこと知ってる」

 間髪入れず反射的に答えた友子だったが、はっとして自分のおでこに拳を当てた。「知ってる」はもちろん失言だが、この報道の内容について考え始めていた自分に愕然とした。痛恨の極みに顔をしかめる。

「――って、そんなことはどうでもいいのよ!」

 慌てて全否定する友子の声は動揺を隠し切れていなかった。

 その様子を見て、嬉々とした表情になる男。墓穴を掘った感を否めない友子は妙な間を空ける。しかし、男は更に追い討ちを掛けるように、やさしく語り掛けた。

「別にいいじゃないか。そういう知識があっても」

 男の諭すような口調に友子は冷静さを失った。

「だっ、誰のせいでこんなになったと思ってんのよ! お父さんのせいでしょ!」

 鼻息荒く捲くし立てる友子。しかし、男は平然と微笑みながら優しい眼差しを送る。

「俺のせい? ……だけど、それで何か問題あるのか?」

「はあ? 問題? 大ありよ!」

 友子は仁王立ちになり男を指差した。

「大体こんなイタイ知識、女子高生にはまったく必要ないでしょ!」

 男は不満ありげだが、頸をすくめた。

「別に、無理やり教えた訳でもないだろ?」

「なに言ってんの! こんなのが家中に溢れていれば、自然とそうなっちゃうでしょ!」

 友子が手を伸ばして訴える先には、大きなリビングの壁一面を占有する棚があった。中を埋め尽くしているのは軍事研究の専門書や銃器関連の雑誌など、要はミリタリー分野のコアな書籍や資料だった。


 父親と二人暮らしという環境。ほんの少し前まで、それらは友子の愛読書でもあった。どの家庭にもあって当然の物。父親との会話も自然とそんな話で盛り上がるのが常だったし、二人のコミュニケーションの手段でもあった。友達に「それって変だよ」と言われるまでは……。

 確かに、気付かない方がおかしいかもしれない。しかし、現実的な問題はそこではなかった。如何ともし難いのは彼女の前頭葉の一部が、既にミリオタ的な知識で形成されてしまっていたことだ。加えて、父親の格闘技の稽古にずっとつき合わされてきた結果、それは身体的なところにも及んでいた。歯がゆくも、時すでに遅しという状態だった。

 友子に言わせれば、昔から女の子らしいカワイイ物にも十分興味はあった。お人形遊びだって、おままごとだって普通にしてきたのだ。それなのに、思春期の途中から発生したこの環境が道を狂わせてしまった。実際、弊害も出ている。

 現在、正統派女子へ軌道修正すべく奮闘中なのだが、やはり出遅れた感は否めない。それに、実際のところ父親に豪語しているほどうまくいっていないのが現実だった。


「まあ、もっと女の子らしいこともあったんだろうけど、お前も楽しそうにしてたし……それに、仕事なんだから仕方ないじゃないか」

 娘の反発に、何処か同情口調で訴える男。友子は顎をしゃくってそっぽを向き、挑発的に口を尖らせた。

「そんなことは分かってますぅ。ただ、いつまでもお父さんとマニアックな会話はしません~。カナみたいなカワイイ女子になりますぅ」

 友子も意地を見せる。ため息を漏らした男だったが、呆れ顔をしながらも何処と無く微笑んでいた。


 友子の父親。篠崎直哉(しのざきなおや)は危機管理コンサルタント会社を経営している。会社と言っても個人経営で、時々臨時で人を雇う程度の規模だ。業務の大半は大手セキュリティ会社の下請け的なものが多い。

 日本でセキュリティ会社といえば警備員を連想するが、それは比較的浅い部分に過ぎない。では、深い部分とは何か。それは大企業や官庁の国内外におけるテロ対策支援であるとか、それに関する情報収集などとなる。だから高度な危機管理となると、大きな後ろ盾なしでは何もできない。突き詰めれば、国家レベルの安全保障に繋がることさえあるからだ。

 直哉への依頼は後者の案件が多い。陸上自衛隊を経て渡米し、向こうで軍事関連の仕事に長らく従事してきた。その経験と能力を買われている。しかし、最近は海外に出向かなければならないような危険な仕事はなるべく避けている。やっと築き上げた娘との生活を壊す訳にはいかないからだ。その為、稼ぎの足しに専門誌のライター的なことや、いわゆるギョーカイ関係の仕事もしている。

 とはいえ、その筋の仲間達と一般にはあまり知られていない世界で生計を立てている事には変わりはない。


「で、時間はいいのか?」

 そう言われ、腕時計に目を落とす友子。目を丸くする。

「げっ! いいわけないじゃん!」

 弾かれたようにリビングを駆け回り出す。

 そのドタバタを見守る直哉。片親ではあったが、立派に成長してくれてことを感謝していた。年頃だから心配するところもあるが、一応は彼女の意見を尊重しているつもりだ。本人がどう思っているかは分からないが……。

 ただ、その気質については少々気掛かりなところがある。



 友子が食べ散らかしたテーブルは、すっかりきれいに片付いていた。

 テレビの情報番組もキャスターから、お天気お姉さんに変わっている。つぶらな瞳の女性がアヒル口で本日の降水確率を伝えていた。

 軽い電子音が部屋に鳴り響く。ソファーに座りノートPCを開いていた直哉は、おもむろに携帯電話を取り上げた。液晶に表示された名前を見ると眉根を上げる。

 朝のゆったりとした空気とは対照的に相手の声は息巻いていた。

『篠崎さん! 朝のニュース見ました!?』

「ん? おはようクマ」

『……と、おはようございます……じゃなくて、相模湾での一件ですよ!』

「……ああ……あれね」

 気のない返事をした直哉。携帯を頬に当てたまま、リモコンでテレビの音声を消す。


 熊田聡(くまださとる)は直哉の仕事仲間で、臨時で人を雇う時には真っ先に声をかける男だ。信頼がおけて腕も立つ。その筋の仕事なら何でもこなすフリーランスだ。知り合ったのは中東だが、同じ陸上自衛官だった経緯もあり二人は意気投合した。

 今の仕事の立場としては対等なのだが、後輩的な態度を決して崩さない。八つ年下ということもあるのだろうが、陸自での上下関係が染みついているのだろう。


 熊田は高いテンションテンを保ったまま話を続けた。

『それ、それ。海保がやったPSI臨検の訓練!』

「それが、どうかしたのか?」

『どう思います?』

「……どうって、海保のああいった訓練は、珍しくないだろう?」

『でも、今回の訓練に関して事前の通知は一切無かったんですよ。そのくせ、海保の広報が各メディアに素材を持ち込んで放送を依頼したとか』

 熊田の言葉には、明らかにこの件を訝しんでいるニュアンスが含まれていた。だが、直哉は安穏とした態度のまま答える。

「そういう事もあるだろう。たまたま、良い()が撮れたので提供したんじゃないのか? いつもの抑止的な効果を狙っての宣伝だろう? 海保のSSTがメディアに出る時は、それしかないだろう……もちろん、他になにか政治的な思惑があるのかもしれないけどね」

 つれなく応える直哉に熊田は一呼吸置いた。

『そう……それなんですよ』

 熊田の言葉に直哉は目をしばたたかせた。

「何かあるのか?」

『ええ、思惑、あると思いますよ。この訓練の為に、わざわざ東シナ海で警備に当たっていた巡視船を呼び戻していたんですから』

「そうなのか!?」

 思わず頬をぴくりとさせた直哉。携帯を持つ手に力に入った。

『ええ、確認しています。今回訓練に投入された巡視船“あきつしま”は、海保の最新鋭艦です。先週まで尖閣での警備に当たっていました。俺の情報ではスケジュールを変更しての行動です。当然、巡視船とパッケージングしているSSTの部隊も一緒に戻ったと考えます。代わりの巡視船を派遣したという情報も聞いてませんから、現在、尖閣周辺の警備が手薄になっていることは確かです』

「やけに詳しいな……そうか、海保に張り付くって言ってたな」

『ええ。専門誌の特集です』

「SSTの実戦部隊を戻してまでの訓練か……」

 話に食い付いた直哉は黙考する。熊田が電話の向こうで大きな躰を丸めながら、得意げな表情をしているのは間違いないだろう。

 言わずと知れた尖閣諸島。緊張が高まっているその海域において、主力となる巡視船とSSTを切り離すことのリスクを海保は十分理解しているはずだ。あくまでも海保が行っているのは領海警備であるが、現実は相手とのパワーバランスをどう保つかが重要である。つまり、そのセオリーを考えるならば正しい行動ではない。無論、連携している海自の潜水艦などが、その肩代わりをしているのは想像するに難しくはない。だが、海上の見える抑止力と海面下の見えない抑止力では、そのもつ意味が違うのも確かだ。

「確かに、妙な違和感があるな……面白いよ」

『やはり。そうですよね……』

 狙っていたかのように、熊田の口から出たのは先ほど以上に思わせぶりな台詞だった。

「あん?」

 怪訝な表情で眉間に皺を寄せた直哉だが、すぐにその意図を推し量る。鼻から息を吐き舌打ちする。

「やけに、言い切ると思ったよ。何か他にも掴んだってことか? ……いいから、早く言えよ」

『えっ、分かりました!?』

 まるで学生の様なガキのノリに呆れる直哉。


 クマという渾名は熊田という苗字からきているのだが、本当に表しているのは野生の熊のことだ。イラクで出会った頃はまさにそうだった。勇猛果敢な逸話は別会社にいた直哉の耳にも届いていたくらいだ。「(あそこのチームにはグリズリーがいるらしいぜ。凄いタフな奴だそうだ)」「(お前と同じ日本人で、クマダっていう奴さ。クマってそういう意味なんだろ? 名前のまんまだってさ……)」グリズリーは日本の熊とは違うのだが、と直哉は思ったが、それほど凄かったということだ。

 まあ、昔話ではある。それがこの有様だ。今や、米国の有名なくまのキャラクターと同等のゆるさだ。もちろん、それが悪い事だとは直哉も思っていない。熊田が患っていた心の傷も、だいぶ癒えたように思えるからだ。日本は平和ボケしていると言われるが、それはそれで幸せであることに間違いはなさそうだ。


 熊田は更にもったいぶった口調で続ける。

『実は、たまたま昨夜から横浜の海上防災基地に出張ってたんですよ。そう、その海保特集の為にね。海保にはアポなし、単なる遠巻きの撮りですよ。天気良かったから、夜景と朝日を交えた巡視船のいい画が撮れるかなと思って……』

「それで?」

 直哉は眉間に皴を寄せて急かした。

『ええ……するとですね。明け方に“あきつしま”が寄港して来たんです。驚きましたよ、尖閣にいるはずが何で此処にってね。しかも、何やら怪しげな奴らが下船して来るじゃないですか』

「それが、SSTだったんだな?」

『ええ。だけど……それだけじゃなかったんですよ……これが。で、今朝のニュース見て、更にピンときましたよ』

 そのじらしっぷりは徹底していた。吐息まじりで天を仰ぐ直哉。

「分かった、分かった。もちろん画は撮ったんだろう? 見せてくれ……で、会えるのか? 今何処にいる?」

『“いろは”ですよ』

 待ってましたとばかりに即答する熊田。当惑するばかりの直哉は頭を掻いた。

「なんだ、来てたのか? ……待ってろ、今すぐ行くから!」

 携帯を切りソファーから立ち上がった直哉。ダイニングチェアに掛けてあったジャケットを羽織ると、リモコンでテレビの電源を落とし呟いた。

「まったく、めんどうな奴だ。何処かのくまの様に、本当に頭の中が綿になっちまったみたいだ」

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