23.決意の逃走
大通りに面した内閣府庁舎ビルの一階。正面ロビーの自動ドアが開き、足早に出て来たのは越谷隆太郎だった。通りの歩道で立ち止まると周辺に視線を走らせる。すると、見計らったかのようにブルー・パールのスポーツセダンが現れ越谷の前で停車した。
オーバーフェンダーのボディに大型リヤスポイラー。マフラーからは、ボクサーエンジン特有の低い排気音を響かせている。助手席の窓から中を覗いた越谷。運転席に座る鷹野クレアに一瞥をくれると、ドアノブを引き乗り込んだ。
ウインカーを点滅させ、軽くタイヤを鳴らして発進するWRX。官庁街に軽快なエキゾーストノートが共鳴する。滑らかなトルクある加速で躰がタイトなシートに張り付く。越谷は平然としている。鷹野の運転には慣れている。最も凄い(酷い)ドライブをメキシコで経験済みだ。
ステアリングを操る鷹野に状況の説明を始める越谷。
「野々村教授の後、SIMSのメンテナンスを引き継いでいる電機メーカーの担当エンジニアが分かった。アポを取ろうとしたが、電話で本人は掴まらなかった。要件は上司に伝えてある。出社はしているとのことだから、直接会って話を聞く」
「分かりました」
「現状、内閣衛星情報センターのスタッフでは、お手上げな状態だ。どの道、技術的な支援を頼まねばならない」
「事情を話すのですか?」
「仕方あるまい……まあ、許せる範囲でのことだがな」
「そうですね」
鷹野はテンポ良く車線変更しながら車を進ませた。キビキビした運転だが車体が変に揺れたり、乗っている者を不快にさせる挙動は無い。鷹野が横目で訊く。
「担当エンジニア……どういう人なんですか?」
「新垣洋一という青年だ。上司の話では優秀な社員だそうだ。社内でも、高度なプロジェクトを担当するプログラマーらしい」
「高度なプロジェクト……プログラマー……」
目を輝かせる鷹野。それを一瞥した越谷。
「そういうの、好きなのは分かるが、余談はほどほどにな」
「……わかっています」
口を尖らせながらも、口元が緩んでいる鷹野。越谷は苦笑する。
鷹野クレアは本当に変わった。日本に来た頃とは別人のようだ。人に対して本当に心を許すまでには至っていないが、今は人生を楽しんでいるように見える。リサが望んでいたのは、これなのだろう。
「――尾行されています」
前置きなく発せられた言葉。内容にそぐわない落ち着いた口調だった。鷹野はバックミラーを凝視している。
「二台挟んだ後ろ……白の……パジェロです」
咄嗟に後ろを振り向こうとした越谷を鷹野が制した。
「振り向かないで下さい……気付かれます」
越谷は動きを止めて鷹野に視線を送った。
「多分、庁舎前から付いて来てます。尾行慣れしてますね……でも、その道のプロではない」
「……どんな奴だ?」
「運転席に男が一人。40歳代かな……短髪、顎鬚、体躯良し」
「……奴か」
越谷の表情を窺う鷹野。
「知っているのですか?」
「ああ。先ほど庁舎に私を訪ねてきたフリーライターだ」
「フリーライター?」
「厄介そうな感じがした。元PMCのようだ」
「へえ……」鷹野の眼差しが鋭くなった。「何処のですか?」
「さあ。私と同じ時期にイラクにいたようだが……今、調べさせているところだ」
鷹野は含んだような笑みを浮かべる。同類を見付けた喜びというよりは、獲物を見付けて悦に浸るような感覚なのだろう。
「そうですか……で、撒きますか?」
シフトノブを強く握った鷹野。
「……いや、変に刺激して逆効果になっても困る。このままでいい」
「了解」
視線をバックミラーから外した鷹野。ゆっくりとアクセルを煽る。WRXはパジェロロングを引き連れたまま、官庁街を抜け品川方面へと向かった。
白いハイエースの中で、坊主頭の男が狼狽していた。横では、慌てふためいた金髪の男がキーボードを叩き、映像機器を調整している。
監視は完璧なはずだった。新垣のオフィスを含めたビル内の防犯カメラ、PCメール、固定電話。加えて、新垣の携帯電話まで掌握している。だが、実際は先ほど新垣宛に掛かってきた外線電話に対して、オフィスにいた同僚が新垣の不在を告げたのだ。しかし、監視しているモニターには、今もしっかりと新垣の後ろ姿が映っている。
「誰だこいつ。奴じゃないのか?」
金髪が吐き捨てるように言った。坊主頭は発破をかけるように、若い男の肩を叩いた。
「どうなっているんだ!」
金髪は引き攣った顔で、別角度の映像に切り替える。やはり自席に座っているのは誰でもない、新垣本人だった。
「電話に出た奴が、間違えたんじゃないですか?」
「いいや! 席にいないとはっきり言って、代わりに上司に繋いだ」
金髪は頭を掻いて頸を傾げた。
「何かの事情で、居留守を使っただけじゃないですか? だって、奴はそこにいますよ」
「……」
坊主頭は険しい顔で俯いた。目を細めモニターを見遣る。
謀られている? それは考えられないことだった。自分達は諜報のプロで相手はズブの素人。いくら、プログラムの天才と言われていようが、衛星のシステムを書き換えられる能力があろうが、奴に監視していることを告げたのは数時間前だ。
そんな短時間で、この警備システムに細工できるとは思えない。我々でも警備システムを掌握するのに丸一日掛かっている。
しかし、坊主頭はすぐにその葛藤に終止符を打った。この稼業は迷っていたら命取りになる。坊主頭は薄暗い後部貨物室と運転席を仕切っているカーテンを開け、ハンドルに寄り掛かっていた女の肩を叩いた。
黒髪のショートボブ。真っ赤な口紅が印象的な女。加えて目を引くのは、Tシャツから出た筋肉質の腕だった。顔立ちの良さと比べると、アンバランスとしか言いようがない。
女は煩わしそうに振り向いた。
「騒がしいな。どうした?」
坊主頭は声を荒げた。
「いいから、早く車を出せ! 奴の職場に急行する!」
ハイエースに載っていた三人は、皆モラレスの手下だ。同じような連中が他にも大勢いて、それぞれユニットに分けられている。こいつらは諜報が主任務の部隊。
元々はCIAの現地工作員としてモラレスが囲った連中だ。だが、モラレスがCIAを離れても、その関係は変わっていない。彼等はCIAの正式な職員ではないから、雇い主が誰であれ金払いが良ければそれでいいということだ。CIAを抜けても、モラレスには今まで中国共産党幹部と結託して蓄えた資金が潤沢にあった。これからの稼ぎ口も事欠いていない。
ただ、彼等がモラレスに従う理由はそれだけではない。狡猾でしたたかなモラレスには一種のカリスマ性があった。多かれ少なかれ、皆一目置いている。人を使うのも上手い。CIA支局長にまでなった実力は伊達ではない。そして、その留まることのない野心は狼達を惹き付けるに十分だった。
新垣の勤める電機メーカーのビル裏手に停まったハイエース。グレーのジャケットにカーゴパンツ。作業着のような格好の二人が飛び出す。同色のキャップも被っている。坊主頭の男とショートボブの女だった。
ビルの奥まった所にある非常口に張り付いた二人。坊主頭は耳に付けた小型のヘッドセットで、ハイエースに残った金髪の男を呼び出した。
「よし、突入経路の防犯カメラを切り離せ!」
新垣監視の為に、既にこのビルの警備システムは掌握している。一呼吸おいて、坊主頭は無言の合図を送る。相槌を打ったショートボブは、ドアに付いた非接触型カードリーダーにICカードをかざす。ドアのロックが解除された。
ビルの中に駆け込む二人。貨物用エレベーターまで走る。行き先は新垣のオフィス。16階だった。計画していたかのような無駄のない動き。当初から新垣の身柄を確保するプランも立てられていたことを窺わせた。
エレベーターの移動中。坊主頭はハイエースに問い掛ける。
「カメラは、まだ奴の姿を捉えているんだな?」
『ええ、デスクに座っている……やっぱり、考え過ぎでは?』
金髪の声には依然戸惑いが混じっていたが、坊主頭は自分の直感を信じた。奴に謀られたとするならば、すぐに次の手を打たなければならない。坊主頭は足を小刻みに揺らしながら階表示を睨んでいた。
貨物用エレベータ―のドアが開く。勢い良く飛び出した坊主頭とショートボブ。通路を進み、突き当りの扉を体当たりして開ける。先には原色のカーペットが敷かれた、採光がまぶしいフロアが広がっていた。
奥にガラス張りになったオフィスが見える。中では多くの社員達が働いていた。オフィスの入口には、指紋認証のドアロック。坊主頭とショートボブは足を止めガラス越しに様子を窺う。二人の位置から新垣のデスクは確認できなかった。
すると、二人の横をひとりの男性社員が通り過ぎる。ドアに近づくと、認証機に指を当ててロックを解除した。
「――あの」
すかさず、男性社員に声を掛けた坊主頭。振り向いた途端、鈍い呻くような声を上げ崩れ落ちる男性社員。坊主頭の拳が男性社員のみぞおちに入っていた。顔を真っ赤にし咳込みながら悶える男性社員をよそに、坊主頭は勢い良くドアを開けてオフィスに入る。ショートボブは退路を確保しておくために、その場に留まった。
坊主頭は新垣がいるはずのデスクに駆け寄った。だが、そこに新垣の姿はなかった。金髪に向かって叫ぶ。
「奴は、まだデスクに座っているのか?」
『いますよ』
「馬鹿か! 俺は今奴のデスクの横にいるんだぞ!」
『そんな……』
「くそっ!」
坊主頭は現実を突き付けられて、吐き捨てた。やはり、奴は警備システムの画像をすり替えていたのだ。信じられないことだった。あの金髪だって、技術的にはかなりのレベルのはずだ。
「――あなた、何ですか?」
得体のしれない作業服の男に声を掛けた男性社員。同時に入口付近で上がる悲鳴。床でのた打ち回る男性社員を目の当たりにした女性社員のものだった。ドアを開け放って待つショートボブ。女性社員の反応に動揺することなく、平然と仁王立ちで構えたままだ。
坊主頭の額には怒りで青筋が浮かんでいた。用は済んだ。さっと踵を返す坊主頭。
「おい! ちょっと待って。あなた、何ですか?」
再度問い掛けた男性社員。入口の様子も確認して、坊主頭の前に立ち塞がった。柔道でもやっていそうな体躯の良い社員。ここぞとばかり身構えた。
それを目の前にして、ふと冷静な表情になる坊主頭。冷淡な眼差しのまま、目の前を飛ぶ虫を払うような動き。だが、その手は男性社員の喉を捉えていた。容赦なく入れられた手刀。
躰の芯を抜かれたように倒れる男性社員。この非日常的で野蛮な光景にオフィスは騒然となった。至る所から悲鳴が上がったが、ほとんどの社員達は固まって動けなかった。
何事もなかったように、ショートボブは入口で坊主頭を迎える。二人はオフィスを後にした。通路を歩きながら、坊主頭が金髪に命令する。
「警報を鳴らせ」
非常ベルがけたたましく鳴り響く。何事かと各フロアのオフィスから顔を覗かせる社員達。
通路がごった返し始める。ビル内は一転して騒々しい騒ぎとなった。警備員も状況確認の為に走り回っているが、右往左往しているばかりだった。一部の警備システムはダウンするし、警報は鳴るわでお手上げの状態のようだ。
誰からとなく、おずおずと避難を始めた社員達。屋外に出ると、皆自社ビルを取り囲むようにして見上げた。その中に悠然と紛れる、坊主頭とショートボブ。何食わぬ顔で歩道に横付けにされたハイエースに乗り込んだ。
坊主頭はハンドルを握っていた金髪に訊いた。
「奴は出て来たか?」
「いいえ。それらしいのは……」
「だろうな……GPSは?」
「しっかり、携帯の電源切ってますね」
「そうか……我々は奴を甘く見ていたってことか……」
渋い顔の坊主頭。肩をすぼめた金髪。
「でも、今システム班に強制介入させてますから、時期に奴の位置は特定できますよ」
「どのくらいだ?」
「1時間ってとこかな。マクレーンと切れちゃってますからね。NSAの追跡システム使えないのは痛いですね……それがダメなら、俺が奴の財布に仕込んだオモチャで追い駆けます。同時にやりますが、それはもう少し時間が掛かります」
坊主頭はショートボブを見遣る。
「この時間を使って仕込みするぞ。派遣屋に連絡を入れてくれ」
「了解」
ショートボブが真っ赤な唇の端を上げる。退屈な諜報活動にうんざりしていたのか、まるでこの状況を楽しんでいるようだ。
白いハイエースはゆっくりと走り出した。
タクシーの後部座席。揺られながら車窓を見詰めている新垣の姿があった。決心が揺らいだわけではないが、判断を誤ったのではないかという不安が頭をもたげる。しかし、もう後戻りはできない。行き先も決まっている。




