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ポルタトーリ  作者: Vapor cone
21/46

20.脅迫

 店内は昼時とあって混雑していた。赤いエプロン姿のウエイトレスが忙しげに働いている。運んでいるトレーには、こぼれるほどの食器が載せられていた。

「お待たせしました!」

 隅の二人掛けのテーブル。一人で小型のタブレットをいじっていた新垣の前にオムライスが置かれた。ウエイトレスが手際よくオムライスのふわふわなてっぺんにナイフを入れる。中からとろけ出る半熟の卵。デミグラスソースとのコントラストは食欲を掻き立てた。職場のビルから歩いて数分のカフェ。新垣はここの常連だった。

 愛想のよい笑顔を残し去って行くウエイトレス。その後ろ姿を一瞥した新垣は、おもむろにスプーンでオムライスをすくった。ぼんやりと篠崎友子のことが頭に浮んだ。

 今朝の彼女はいつも通りだった。それが問題な訳ではない。一日分のエネルギーを貰える存在としは申し分ない。変化があるのは新垣の方だ。先週のことを引きずっていた。

 バスで新垣に向けられた突然の微笑み。あれは何だったのだろう。心臓が飛び出しそうになった。そんなはずはないが、毎晩のように自分が覗き見ていることを気付かれたような気がした。更にいうなら、彼女が自分に好意を持っているのではないか、という妄想も起こさずにはいられなかった。彼女が自分を意識しているとすれば、定期券を拾ってあげたことだろうか……それ以外の接点はない。

 しかし、実際のところは、からかわれただけなのだろう。彼女は友達とはしゃいでいた。多分、その流れでそうなっただけだ。半分ストーカーである自分が言うのもなんだが、大人の答えとしてそう考えることにした。この偏った感情は人には理解してもらえないだろう。今のままで十分なのだ。とはいえ、あの時の彼女の艶っぽい微笑みは、今思い起こしてもドキドキした。彼女の瞳には、何か特別な力があるようにさえ感じた。

 いつもと変わらない昼休みだった。テーブルに置いたタブレットを覗き込みながら、オムライスを口に運ぶ新垣。時折、グラスの水に口を付ける。オムライスも残り少なくなった頃、スプーンの動きが止まった。新垣は横に立つ人の気配を感じたのだ。

 ゆっくりと見上げた新垣。そこには薄手の黒いニットを着た坊主頭の男が立っていた。彫が深く顎の無精髭が目に付いた。細身だが体躯はしっかりしており、一見して身構えてしまうような威圧感があった。視線が合った新垣は戸惑って見せたが、相手に動じる気配はない。それどころか、新垣が躊躇している間に男はテーブルの向かいに座ってしまった。

 目を丸くする新垣。唐突すぎて、どのような態度をとるべきかすら思い付かなかった。坊主頭の男は気味の悪い笑顔を見せた。

「新垣洋一さんですね?」

「えっ!?」

 突然の言葉に頓狂な声を上げた新垣。その顔に見覚えは全くなかった。恐々として尋ねる。

「ど、どなたでしたっけ?」

「……」

 男は何も言わず視線を上げた。

「――ご注文は?」

 傍にウエイトレスがやって来ていた。男はにこやかに返す。

「結構です。すぐ帰りますので」

 そう言って、お冷とお絞りを置こうとするウエイトレスを手で遮った。ウエイトレスはお辞儀をするとその場を離れて行った。

「……なんですか?」

 声を振り絞った新垣。相手の目的がさっぱり分からない。めいいっぱい椅子の背もたれに身を引いた。すぐにどうこうという訳ではなさそうだが、何かあればすぐに逃げ出せる態勢で構えた。臆病者だが昔から逃げ足だけは早かった。警戒心丸出しの表情。新垣の心理を量ったように、男はゆっくりとした動作を交えて言った。新垣に届く程度の小さな声だった。

「新垣さん。時間はかけたくないので、手短に言いますよ」

 男はもったいぶらずに続けた。もう一度名前を呼ばれたことで少し緊張を解いた新垣。体勢はそのままに耳を傾けた。

「あなたが変更したシステムを元に戻して欲しいのです」

「……」

 新垣の思考は、その一言で空転した。混濁する感情に頬が引き攣る。徐々に湧き上がる身震いを無理やり押さえ込み冷静を装う。

「……何のことでしょうか?」

 男はおもむろにテーブルに両肘を置き、指を組むと新垣を渋い表情で見据えた。

「実は、あなたが勝手にされたことで、大変困っている方がおられます」

 心拍数が跳ね上がる。新垣の顔から一瞬にして血の気が引いた。手に持ったままだったスプーンが、テーブルにコトンと音を立てて落ちる。躰が金縛りのように固まった。

 男は冷淡な表情でスプーンを拾うと、食べかけのオムライスの皿に置いた。生唾を飲み込む新垣。男の言葉が意味しているのは、間違いなく衛星統合管理システム“SIMSシムス”のことだった。

 今まで頭の片隅に追いやっていた罪悪感が急に襲って来た。この男がここに来るに至った過程への疑問は既に飛んでいた。それよりも社会常識的な後悔が先行した。政府のシステムを勝手に変更したことは、業務上の職務違反レベルではないだろう。いったいどんな罪になるのだろうか? 懲戒免職は当たり前だが、刑事罰もあるのだろうか……背中に冷たいものが走った。自分の浅墓さに気圧される。

「安心して下さい。私は政府の関係者ではありません」

「えっ?」

「でも、あのシステムは我々にとって重要なのですよ。あなたが奪ったバックドアは返してもらいます」

「……」

 鳥肌が立った。

 冷静に考えたら想像が付くことだった。中央政府機関のシステムに、あれだけ大掛かりな不正がなされていたのだ。単なる大学教授一個人の愚行であるわけがない。この男の言葉がそれを裏付けている。世の中そんな単純じゃない。顔全体に熱を帯び息が荒くなった新垣。それを抑えるように深呼吸をする。取り敢えず、今を逃げるしかないと思った。

「……何の事か……意味が分かりませんが」

「――修正するのに、何日掛かります?」

 男は耳を貸さなかった。意を介さず、鋭い眼差しで押し切る。生唾を飲み込む新垣。言い訳など、今更通じる相手ではなさそうだ。

「お勤めの大手企業。中でもあなたは非常に優秀だという話ですね。本当なのでしょう。バックドアに敷いたこちらのプロテクトがいとも簡単に解除されていましたから……どうですか、二日もあれば十分でしょうか?」

 悪あがきは無駄なようだ。この男はすべてを知っている。全身を震えが襲い始めたが、声を絞り出す。

「あの……」

 その様子に苦笑する男。ズボンのポケットから何かを取り出し、無理やり新垣に受け取らせた。それを見た新垣は声を完全に失った。

 写真だった。十枚ほどあった。自分の姿が写っていた。自宅のマンションから出てくるところ、通勤でバスに乗るところ、この店で食事を取っているところ。それらは近くから隠し撮りされたものから、望遠レンズで遠くから撮影されたものなど様々だった。

「こんなものまで……」

 新垣はその中の一枚に呟いた。会社の玄関ロビーを歩く自分の姿。それは、どう見てもビル内に設置してある防犯カメラからの画像だった。

 蒼白となった新垣は、ゆっくりと顔を上げ男を見た。男は表情を変えないまま、新垣を凝視していた。

「数日前から、あなたには24時間の監視を付けています。何処へも逃げれらませんよ。もちろんネットワーク上からも見ています。分かりますよね?」

「……」

 新垣はもう何も言えなくなっていた。男は促すように言った。

「最後まで写真を見て下さい」

 そう言って手を伸ばす。動揺して止まっていた新垣の手のから、最後の写真を引き抜きテーブルに置いた。心臓が止まりそうになる。新垣をめまいと吐き気が襲う。男は小刻みに手を震わせる新垣に向かって、まるで子供を諭すように言った。

「そんなはずはない……そう思いましたね?」

 生唾を飲み込もうとした新垣だったが、もう口はカラカラだった。新垣は完全に追い詰められていた。

「システムのほとんどは、現在あなたの手の内ですがね。我々もデータサーバーまでなら、アクセスできるのです。それを見付けた時は、少々驚きましたがね……」

 新垣を見詰めていた男の口元が緩む。抜き出された写真には建物の屋上が鮮明に写っていた。もちろん、そこにいる少女の姿も。男はニンマリして続ける。

「あなたも、なかなかユニークな方だ。社内で天才と揶揄されるだけのことはある。確かに綺麗なお嬢さんですが、数千億の国費をかけて政府が開発したシステムで盗撮ですか……いやいや面白い」

 男は篠崎友子の写真にトントンと指を落とした。

「先ほども言ったように、我々は政府と無関係です。分かりますね? ですから、システムさえ元に戻してもらえれば、これ以上あなたに付き纏うことはありません。どちらかといえば、感謝しているのですよ。バックドアを見付けた時に、しかるべきところに報告されなかったことをね」

 男は先ほどにもまして、不気味な笑みをつくった。

「選択を間違ってはいけませんよ……そうそう、SIMSの開発者の野々村教授。惜しい方を亡くしましたね」

 一呼吸おいた男は、鋭い眼差しを新垣に向けた。

「あの方は選択を間違われたようですが……」

 新垣は驚愕した。間違いなく、今までの人生でもっとも恐ろしい経験をしている。しかも、絶対的な恐怖だ。そして、次に男の口から出てきた言葉は、新垣の狼狽に拍車をかけた。

「ちなみに、そのお嬢さんも調べさせてもらいましたよ。毎朝あなたと同じバスで女子高に通っていますよね」

「……」

「ごく普通の高校生。巻き込んだらかわいそうだ」

 それが何を意味するのかは容易に理解できた。新垣はこの短い時間で完全に屈服させられていた。もうどうしょうもなかった。

「すぐに仕事を始めて下さい。最短でお願いしますよ」

男はそう言と立ち上がり、ゆっくりとカフェを出て行った。ひとり残された新垣は呆然としながら、その後姿を目で追うしかなかった。


 カフェが入ったテナントの裏通り。大型のSUVが路肩に止まっていた。グリルに埋め込まれたスリーポイントスターのエンブレム。シルバーのゲレンデヴァーゲンの助手席には先ほどの坊主頭の男。

 後部座席には恰幅の良い白人男性が座っていた。ブロンドヘアをオールバックにした年配だ。顔に刻まれた皺からは風格が漂い、その眼差しは狡猾そのものだった。ダークスーツに身を包んではいるが、派手なネクタイが胸元を飾っていた。

 坊主頭が伺うように年配の男に尋ねた。

「(Mr.モラレス。このまま継続で宜しいでしょうか?)」

「(ああ。構わんが、常に最も効果的な方法で頼むよ)」

「(分かっています)」

 二人の会話は英語で交わされた。坊主頭の男は運転席に座る屈強そうな男に目配せをする。ゲレンデヴァーゲンはゆっくりと走り出した。

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