1.真夜中の猛禽
それまで海は静かだった。
まだら雲のすき間から、時折顔を覗かせる月。照らされた海原には白く長い航跡が描かれている。そして、それをたどるように低空を進む大きな二つの影。
甲板にはコンテナが並び、高いマストが立っている。海面に白泡を吐き出していたのは貨物船だった。大きさは中型クラス。照明は甲板の所々と船尾にそびえる構造物にぼんやり灯っている。近くに他の船舶はおらず、ただ一隻だけ闇に紛れるように航行していた。
コンテナの置かれた甲板に動きは無かったが、船橋と呼ばれる船尾の構造物に人影が確認できる。最上階が操舵室だった。
「(船長!)」
勢いよく飛び込んできたのは黒人の若い船員だった。褐色の額に汗を滲ませ、開きっぱなしの口は白い歯を見せていた。
操舵室に居合わせた船員達が振り返る。皆黒人だった。ドアの前に突っ立ったままの若い船員。その視線は操舵室の中央にいるキャプテンハットの男に注がれていた。
白髪交じりの顎髭、目尻には深い皺。船長はベテランの風格を漂わせる顔立ちをしていた。目を見開き訴え掛ける若い船員。しかし、船長は動揺することなく一呼吸おいて答えた。
「(……どうした?)」
交わされているのは、独特な訛りのある仏語だった。
「(コーストガードからVHF通信です。今から乗船すると言ってきています!)」
答えた若い船員は大げさに両手を広げて見せる。船長は少し頬を強張らせたが、それ以上の反応は示さなかった。若い船員はもどかしそうにして付け加えた。
「(臨検です! どう対応すれば良いでしょうか?)」
「(分かった、慌てる必要はない。落ち着いて――)」
唐突に打ち消された船長の言葉。静寂を切り裂いたのは爆音だった。
操舵室の窓の外を何か大きな物体が塞いでいた。間髪入れず、そこからサーチライトが操舵室に向かって浴びせられる。窓際にいた船長は眩しさに思わず身を引いて手をかざした。
船長の視界を遮ったのは青いラインの入った白い機体だった。ロゴ灯で機体側面に浮かび上がる“JAPAN COAST GUARD”の文字。
甲高いエンジン音を響かせた大型ヘリ、シュペルピューマEC225が操舵室の前方すれすれでホバリングしていた。
すると、同型のヘリがもう一機。貨物船の右舷から低空で近づき甲板真上で機首を上げた。一気にブレーキが掛かり減速する機体。メインローターに弾かれた突風が甲板を叩く。同時にその負荷に反応して、ヘリに搭載されているマキラ・ターボシャフトエンジンが唸りを上げた。
二機のシュペルピューマは甲板の真上に並ぶかたちでホバリング姿勢となった。
貨物船の甲板から突き出たマストとの距離、僅か数メートル。低速とはいえ、航行している船の速度に合わせてヘリをホバリングさせるには、高度な技術が必要とされる。しかし、液晶ディスプレーでグラスコックピット化された操縦席に座るパイロットは、それを淡々とこなしていた。
ただ、冷静な操縦とは対照的に慌しい通信が交わされていた。無線特有の濁った音声。
『各機。こちら“あきつしま”。案内役との連絡が途絶えてから12分経過。プランBに移行する。目標をロストした可能性を考慮し、捜索エリアを拡大せよ――どうぞ!』
それは5キロ後方を追走する大型巡視船“あきつしま”の作戦室から、厳しい口調で伝わっていた。並んでホバリングする二機のヘリ。それぞれのパイロットが応答する。その声は幾分昂ぶっていた。
「“あきつしま”。こちら“みみずく1”了解した。この場で待機する!」
「こちら“みみずく2”。了解。部隊降下後、現場を離れ海上捜索に移る――どうぞ!」
機体側面のスライドハッチが開き、太いロープが甲板へと垂れ下がる。
二機のヘリからロープを伝い、連なって滑るように甲板へ降りる人影。両手両足の保持だけで行うファストロープによる降下。それは高度に訓練された集団であることを窺わせる。しかも、ローターからの突風を受けてもその動作に乱れはなかった。
船に舞い降りた集団は、全員黒い戦闘服に身を包んでいた。ケブラーヘルメットにタクティカルベスト。躰のいたるところに装備を付け、自動小銃を構えている。その部隊は数にして十数名ほど。顔はゴーグルとフェイスマスクで見えないが、ベストの背中には“海上保安庁”の白抜き文字があった。
先頭の隊員が腕を上げ、後方の仲間にハンドシグナルで合図を送る。部隊は素早く数班に別れると、そのまま近接戦闘体系を崩すことなく展開していく。そして、打ち合わせたかのように、迷う事無く船体の各所に散らばって行った。
隊員達が構えているのは自衛隊と同装備の八九式自動小銃。空挺部隊向けとなっている折曲銃床式で、光像式照準器とフラッシュライトが取り付けられており、その身のこなしと合わせて見ても特別な部隊であることは明らかだった。
隊員は三人一組でポジションを入れ替わりながら、船内の死角をクリアリングしながら前進していく。そこに無駄な動きなどなかった。
「――クリア! ――クリア!」
フラッシュライトが時折点灯して辺りを照らし出す。船室を丹念に捜索していく様子からは、明らかに何かを探していることが窺えた。
部隊の一部は既に操舵室を制圧していた。船長は別段驚いたそぶりも見せず沈黙していた。ただ、周りにいた船員達はかなり動揺した様子だった。甲板より上で船員が見受けられたのは操舵室だけだった。捜索は執拗に続く。
船倉まで降りて調べる中、機関室の近くで隊員達に緊張が走る。隊員の一人が大きなロッカーの前で八九式を構え静止していた。引き金に指を掛け様子を窺っている。中から気配がしていた。耳を立てるとゴソゴソと音が聞こえる。二人の隊員が援護する中、ゆっくりとその扉が開けられた。
ロッカーの底に人が転がっていた。猿轡をはめられ、手足をナイロンの結束バンドで縛られている。アジア系の小太りな男だった。そいつは何かを訴えようと、言葉にならない声を上げてもがいていた。隊員達は顔を見合わせた後、その一人が無線のレシーバーを掴んだ。
無線に応えてやってきたのは大柄の隊員だった。その男はその体躯を持て余すかのように、船室のドアをくぐるとロッカーの前で床に膝を着いた。もがいていたアジア系の男は、大柄の男に覗き込まれると目を剥いて固まった。
大柄の男は他の隊員と同じような黒い戦闘服を着ていたが、背中に海上保安庁の文字は無く身に着けた装備も違っていた。膝を着いたまま振り返った男が、周りを囲んでいた隊員に言った。
「(こいつは、案内役だ。開放していい)」
口から出たのは流暢な英語だった。顔はフェイスマスクで覆われていたが、深い彫りの奥にはブルーの瞳が窺えた。