18.陰謀
暖かな春の日差しが都心のビル街を温め始めていた。
数日続いた寒気が去った為か、今朝は通勤通学で先急ぐ人々の足取りも軽い。その人波をすり抜けて闊歩している女がいる。リサだった。右手には携帯電話が握られていた。
内閣情報調査室のオペレーションルームでコールが鳴る。壁に掛けられた複数のモニターを見ながら、越谷はおもむろにジャケットのポケットに手を伸ばした。携帯電話の液晶に表示された番号を見て、昨夜の小料理屋を思い起こす。
『――それで』
携帯電話の向こうからリサの声。前置き無しの単刀直入な問い掛け。
「的中だ」
越谷はモニターを凝視しながら言った。
映し出されていたのは日本列島を中心とした地図だった。北はオホーツク海、南は南シナ海と広範囲に及んでいる。写真ではなくCGで構成された画像。しかし、周辺海域の海は水を抜かれた海底地図のようになっており、全ての海底が色の濃淡を用いて様々な識別がなされていた。データは数十種類に及び、それぞれ示されている項目が違っている。
それは、リサが船長経由で越谷に渡したデータを解析したものだった。モニターの前に立つ越谷。浮かない表情だ。掌に置かれたUSBメモリに視線を落とす。
「君が思っているよりも、面倒な話になりそうだ」越谷はUSBメモリをかざすように持ち上げた。「データは海底の鉱物資源を探索したものだ。そして、紛れも無く日本の情報収集衛星を使ってリモートセンシングされている。資源エネルギー庁の技術エンジニアがデータの様式と内容を確認して判断したから間違いない」
『……で、面倒な話って?』
越谷は短く溜息を吐く。
「記録が残っていない」
『どういうこと?』
リサの声がくぐもる。
「過去から現在に至るまで、情報収集衛星が稼動した全データと照合したが、これと一致するものはなかった。稼動された記録はすべて内閣衛星情報センターのホストコンピューターに保存されることになっている。バックアップサーバにも問題は無かった」
『つまり?』
「最初、君からこの話を聞いた時は、単なる情報漏えいだと思ったが、どうやら違っていたようだ」越谷は険しい表情で続ける。「情報収集衛星によって観測された探査データは存在しているが、その為に衛星が稼動した形跡が無い」
『へぇ、面白いわね』
越谷の口元が歪む。
「非常に考えにくいことだが、内閣情報衛星センターの管理外で情報収集衛星に何かが起こっている可能性がある」
『それって、誰かが無断使用したってこと?』
茶化すようなリサ。
「だとしても、現実的に考えて何かしらの形跡が残るはずだ。衛星自体は物理的に動いている。電池や燃料が減ったことを上辺だけで誤魔化せるとは思えん」
『そう。じゃあ、幽霊の仕業かしら?』
「ああ。狐につままれたようだ」
『キツネ……何?』
「そういう意味の日本のことわざだ」
『ふーん』鼻を鳴らしたリサ。『で、どうするの?』
「全容が掴めるまでは衛星の稼動を止めたいところだが、それができん。日本にとっては情報収集の要となっているシステムだ。当然、確証がないうちは上も稼動停止を認めんだろうしな」
『……で、どうするの?』
同じ言葉を繰り返すリサの問い掛けに、越谷は片眉を上げた。
『あなたの声色。ことの重大性からすると違和感があるわ……何かあるんでしょ?』
苦笑する越谷。
「ああ……」仲間になったとはいえ、先を読まれるのは気持ちの良いものではない。「……少し前に衛星を管理しているシステムに問題が発生したことがある」
『問題?』
「問題といっても……なんというか、システムの運用に支障をきたしかけたということだ。システムメンテナンスを管理していた技術者が突然亡くなってね。メンテナンスが一時滞る事態が発生した。それで、請負メーカーとの間で責任云々においてひと悶着あった訳だが、その後はメンテナンス体制も見直されて問題は解消されている」
『それね』
声のトーンを上げたリサ。越谷はその反応を予想したように頷く。
「そうだな」
『ええ。技術面からみても単純な不正行為とは考えにくいわ……それで、私にその技術者を?』
「いいや。それは私の方で当たる。君はモラレスが何をやろうとしていたのか、もっと探れないか?」
『……そのモラレスだけど、地下に潜ったわ。私が中国を出た直後にね。マクレーンも大騒ぎしている頃よ』
さらりと口にしたリサ。越谷は瞠目したあと半眼になった。組織を出ても、それくらいの事は分かるということだ。今のところ彼女の情報網などについて、とやかく訊くつもりはない。
「やはり、君の読みは正しかった?」
『そうなるけど、今更遅いわね。私は時間稼ぎか本部の混乱を誘う為の駒だったのよ。消えたとなると、奴の企みは最終段階に入ったってことね』
「奴を追うことはできるか?」
『そうね……組織の後ろ盾を失った今、使える手は限られるわ。上海の強欲連中も私が消えて怒り狂っているだろうしね。大陸でモラレスを探すのは大変よ』
「無理か?」
『あら、限られるって言っただけよ』
越谷は鼻で笑う。
「なるほど。だが、モラレスが消えたのなら君の容疑も晴れるのでは? まあ、君は死んだことになっているか……」
『どちらにしろ、本部は消えたモラレスと私の関係を模索するだろうけど。でっち上げられた私への容疑はチャラにはならないわ。それに、今となってはどうでもいいことよ』
気にする様子もないリサ。越谷は頷く。
「そうだな、君の居場所はここだったな」
『ええ、そう言ったでしょ、ボス。私はモラレスが関係した、合弁会社の線から探るわ』
「ああ、頼む」
通話は途切れた。越谷は再びモニターを見つめる。
CIA局内でのゴタゴタが、結果的にリサを決心させた。だが、彼女自身の本音はどうなのであろうか。今更なのだが不安は残る。もちろん、それを図り知ることはできない。ただ、言葉では言い表せない繋がりのようなものをずっと感じていた。彼女は日本の為に働くべきだ。それが越谷の信念であり揺らぐことはない。
そして、これがリサの初仕事となる。なかなか厄介な中国土産ではあるが、彼女の嗅覚には驚かされる。彼女には助けられることばかりだとつくづく思った。
リサは上海を拠点に活動していた。今や極東の情勢を掴むのに中国は外せない。目的は中国の資源開発にかかわる工作だった。近年、極東地域においてアメリカが直接関与する軍事的な行動は少ない。その為、CIAの活動もきな臭いものより経済的な諜報が多くを占める。
リサはイギリスの資源探査会社の社員になりすまし、資源開発の利権に群がる中国共産党中央委員の幹部と次々に接触した。彼らが欲しい情報を提供しながら、中国の世界における資源開発の動向を探るのが目的だ。加えて、偽の情報を時折交えて流すことによる情報攪乱も工作の一部として行われた。
一連の諜報活動の命令をリサに下していたのは、ノーマン・モラレスだ。モラレスはCIAの東アジア部で中国を担当する支局長の一人。メキシコで活動していたリサを引っ張ったのも彼だった。南米も潮時と考えていたリサは話に乗った。
中国での活動は順調に進んだ。リサの能力の高さはパラミリタリーのタクティカル面だけではない。ヒューミントといわれる対人諜報やシギントといわれる通信盗聴などのスキルも劣らない。無論それをサポートするスタッフがあってのことだが、成果は当然の結果だった。
しかし、活動を続けていくうちに気掛かりなことを耳にする。それは、親しくなった共産党幹部のひとりがポロリと漏らした。合弁会社の話だった。内容は米国の投資会社と中国の国営資源開発企業とで合弁会社を設立する計画が密かに進んでいるという。相手の要件は一緒に加わらないかということだ。中国共産党は政治的な締め付けは厳しいが、儲け話になると例外だ。たとえ共産党員であってもおしゃべりなる。一党独裁の資本主義の中身はそうなっている。
気になったリサは合弁会社について調査した。すると驚くことが判明する。中国企業の合弁相手である米国企業はグローバル・ステナという投資会社であるが、これは極東地域でCIAが活動する為に創られているダミー会社の一つだった。取り仕切っているのはノーマン・モラレス。
リサの活動の裏で何かが行われている匂いがした。話を漏らした共産党幹部に合弁会社に対する技術供与の話を持ち掛けると、あるデータを見せてくれた。それは東南アジアから極東にかけての海洋資源調査のデータだった。グローバル・ステナ社から提供されたのもであるというが、その詳細さに驚いた。
当初は米国からの情報漏えいを疑ったが、密かにコピーを取って分析させると米国のモノではなかった。欧州系でもない。そうなると、それ以外で探査技術がある国は絞られた。分析を依頼する相手も自ずと決まった。
モラレスの陰謀を確信したリサは本格的に調査を始める。だが、間もなくしてリサに作戦中止の命令がモラレスから伝えられる。突然の撤収であった。リサの動きを悟られたかに思えたが、それにしては早すぎる対応だった。
リサはモラレスの思惑を掴めないまま命令に応じる。大連からCIAが指定した貨物船に案内役と乗り込んだリサ。行き先は日本。相模湾沖で海軍の特殊部隊がピックアップする手はずになっていた。
共産党幹部を多数騙しての失踪。NavySEALsまで使って作戦を大掛かりにしたのはその為だった。足取りを残したまま貨物船に乗り込めば、その後の展開でどんな馬鹿でもその意味を悟る。自分の金儲けを共産党中央政治局内に広められたくない共産党幹部たちは口を噤むしかない。中央政治局も知ったところで、国民の目が厳しい昨今で幹部の腐敗を公にしたりしない。
結果からいえば、SEALsの目的は救出ではなく身柄の確保だったのだが、リサは貨物船から姿を消した。リサはモラレスからの撤収命令を受けた時、同時にある決断もしていた。この状況で頼れるのは日本にいるあの男しかいなかった。遅かれ早かれそういう運命だったのかも知れない。
リサの判断は正しかった。事の発端はやはりモラレスだった。CIA本部において、中国で活動するリサに対して密かにダブルスパイの容疑で告発していたのだ。中国マネーに溺れてズブズブな関係になっているという単純な容疑だ。しっかり証拠もねつ造されていた。ズブズブになっていたのはモラレス自身であり、相模湾沖での作戦が開始されるや否や、モラレスはその姿を表舞台から消したのだった。