16.始動
相模湾沖で行われた海保によるPSI臨検訓練から、数日が過ぎようとしていた。関連する報道はあれっきりで、世間の大半の人々は記憶にも残っていないであろう。
都心の繁華街は、いつもと変わらない華やかなネオンを灯していた。
大通りから入り込んだ路地裏。情趣のある飲み屋が軒を連ねている。酒宴にはまだ時間が早いのか人影は少ない。
ひび割れたアスファルト。ブーツの足音を響かせながら、トレンチコートの女が現れた。紅褐色の髪が風になびく。淡いブラウンの瞳。先日、篠崎友子がスーパーマーケットで出会った女だった。
軒先から狭い路地に突き出るように、低く吊るされた居酒屋やスナックの看板。女はそれをくぐるように進むと、一軒の店で足を止める。小料理屋のようだ。女は暖簾に書かれた店の名を一瞥した後、おもむろに木の格子扉に手を掛けた。
「――いらっしゃい」
暖簾をくぐると、覇気の良い男の声が出迎えた。小ぢんまりとした店だった。カウンターと数組のテーブルが置かれているだけ。カウンターの中では白い和帽子を被った板前が包丁を握っていた。周りには大皿に盛られた料理が並び、背後の棚には沢山の日本酒が並んでいた。
客は一番奥のテーブルに座るサラリーマン風の男達と、カウンターで一人佇むスーツの男だけだった。板前から目配せを受けた女は、カウンターの男を見遣った。板前はどうぞと男のところへ促す。
女は奥から現れた女将にコートを渡すと、男の隣に腰を降ろした。
「なかなか、いい雰囲気の店ね」
「……そうだろ」ゆっくりと振り向いた男。越谷隆太郎だった。女の顔をまじまじと見る。「コンタクトかい?」
苦笑する女。
「ええ。グリーンの瞳じゃ目立つでしょ」
「そうだな」
越谷は頷いた。
友子がスーパーマーケットで出会ったこの女。時が変わっても、依然として独特のオーラを放っていた。髪の色も雰囲気も違っているが、顎のラインと鼻筋は変わっていない。今、越谷の隣にいるのは、彼にとって命の恩人。イラクでの事件の際、救出部隊に加わっていたCIAのオフィサーだった。
「それ、何?」
女は越谷の持つグラスに目を落として言った。
「東北の地酒」
「じゃあ、私もそれで」
越谷はカウンターに向かって視線を送り、「同じものを」と声を掛けた。寡黙そうな板前は、「へい」と短く言って頷く。女将が女の前におしぼりとお通しを置いた。
女が越谷の表情を窺う。
「お礼を言わなくてはね。今回は助かったわ」
「礼はいい。借りはこれくらいでは返し切れないから」
越谷は改めて女と向き合う。女は感心したような顔つきで答える。
「あらそう、義理堅いのね」
「まあね」
越谷がはにかんでいると、女の前に地酒の入ったグラスが差し出された。女は黙ってグラスを目線の高さに掲げた。越谷もそれに習う。挨拶代わりの乾杯といったところか。グラスを口に運んだ女は、感得したように眉を上げた。
「これ、悪くないわ」
褒め言葉を聞いた越谷。一呼吸置いて神妙な表情になった。
「今後は君のことを、何と呼べばいい?」
「そうね。リサのままでいいわ。もう、それに慣れてるでしょ?」
女はグラスを傾けながら答える。
「……名前にあまり意味はないということか」
「そういうこと」
越谷は頷き、納得した表情をする。時と場合により、いろいろな名前を持っているであろう彼女。諜報活動をする者としては普通のことだろう。リサ・パーカー。それが彼女の今の名前だ。
「資金は指定された口座に入れておいた」
「了解」
リサは淡々と答えた。越谷はグラスを傾けながら訊いた。
「しかし、君の日本語には関心するよ」
「そう?」
「何カ国語話せる?」
「どうかしら、数えたことないわ」
苦笑する越谷。
「さて。ここまでは、全てプラン通りだ。そつなくこなすところは君らしいよ」
称賛したつもりの越谷だったが、リサは何か物言いたげだ。ひと癖ある笑みで返す。
「そうかしら……大きな船の甲板からダイブって、結構度胸いるのよ。一度やってみる?」
「勘弁してくれ。俺はもともと泳ぎが下手だから、想像の領域を越えている」
鼻息を荒くした越谷は眉間に皴を寄せ、頸をすくめて見せた。
リサが思い付いたような仕草をする。
「それにしても、私を回収したあの船長……かなりの手練れね。ただの漁夫ではないでしょう?」
越谷は予想していたように、渋い顔で頷いた。
「まあ、いろいろある。古い知り合いってとこだ。あれでも元公務員だがな」
「そうなの? ヤクザかと思ったわ……それに、お喋りで女好き」
「後の部分は否定できないが、いい仕事をする男だ」
「……そのようね」
リサはグラスを煽った。
あの夜の相模湾沖。漆黒の海原を低速で進む貨物船。
甲板に並んだコンテナの片隅に人影があった。アジア系の小太りな男。周囲を窺いながら手に持った携帯電話で何かを話している。陸はまだ遠い。通話できていることを考えると、衛星電話を使用しているようだ。
会話はすぐに終わり、男は踵を返した。
操舵室のある船橋甲板へと戻ったアジア系の男。船室の一つに入ったところで、何者かに足元をすくわれた。不意を突かれ転倒した男だったが、意外に素早い身のこなしを見せて相手と揉み合いになる。しかし、大して抵抗できないまま、あっという間にねじ伏せられた。
腕を後ろに取られ、床に顔を押し付けられた男。必死にもがいていたが、固いモノが後頭部に押し当てられると動きを止めた。
「(ごめんなさい。殺すつもりはないから、大人しくてね)」
上っ面だけの冷ややかな中国語を浴びせたのはリサだった。減音器付きのCZP-07自動拳銃を片手に、男の両手両足をナイロンの結束バンドで手際よく固縛する。仕上げはエビ反りに絞め上げ、猿轡をはめた。
拳銃をテーブルに置いたリサ。腕にある大型ベゼルのダイバーズウオッチを一瞥した。
「(次の定時連絡がないから慌てるわね。彼らの到着まで……25分ってとこかしら?)」
「……」
床に転がるエビ反り男に目を落とす。当然、返事はできない。
リサは黒いナイロン製のボストンバックをロッカーから抜き出した。大きなファスナーを一気に開く。中から現れたのはドライスーツだった。それを取り出すと、着ていたシャツの胸元に手を掛ける。途中までボタンを外したところで、視線に気付いて振り返る。
「……」
その心境は分からないが、目を丸くして仰ぎ見ているエビ反り男。胸元が肌蹴たまま、艶っぽい笑みで返したリサ。壁に掛けてあったタオルを掴むと男の顔へと放った。
10分後。リサは船尾甲板の端に立っていた。
手摺の外側で踵だけを船体の縁に掛け、漆黒の闇に身を乗り出す。黒いタイトなドライスーツに身を包んでいる。背中には小型の防水バックパック。髪は頭の後ろで束ねられていた。夜の冷たい風が頬を撫でる。つま先の遥か下では、スクリューによるキャビテーションの白泡が軌跡となって彼方へ続いていた。
海原を数秒間見詰めたリサは、目を閉じるとためらうことなく身を投じた。
海面に上がった水飛沫は、スクリューが巻き起こす泡に消された。低速での航行とはいえ、スクリューの押し出す力は強力だ。暫く泡に揉まれるリサ。だが、流れに躰を委ねていると自然に浮上し始める。程なくして海面に顔を出した。貨物船の位置を確認すると、反対方向に向かってゆっくり泳ぎ出す。貨物船との距離が徐々に広がる。
すると、甲高いガスタービン音が頭上を掠めた。一定周期のローター音を響かせた二機編隊のヘリ。ボディカラーから海上保安庁であることが確認できた。
それは貨物船にまっすぐ向かって行った。ヘリは貨物船の周りを旋回しながら近づき、真上で暫くホバリングを行った。その後、一機は捜索に転じたようで、貨物船の周辺を低空で飛行し始めた。
だが、リサに慌てた様子はなかった。バックパックからメッシュ地のシートを取り出すと、海面に出ている頭を覆った。海保のヘリは前方監視型赤外線と呼ばれる暗視カメラを装備しているが、このメッシュシートは人体の熱を遮断する。もはや、この暗闇の海上で一人の人間を探し出すことは不可能となった。
ヘリはリサの頭上を幾度となく旋回したが、ほどなくして離れて行った。
空は既に白み始めていた。ライトを点灯して海上を進む小さな船。
後方に小さな運転室がある漁船だった。何の変哲もない、何処にでもいそうな白い強化プラスティック製の船だ。デッキの上には漁具が並んでいる。
「今まで、いろんな仕事をしてきたが、海で女を拾うなんてことは初めてだぜ!」
運転室から出てきた中年の男がニヤつきながら言った。デッキの端でドライスーツを脱ぎ捨てながら、リサは一瞥を返した。
「そう? いつもはどんな仕事をしているの?」
スポーツタイプのアンダーウエアだが、黒いタイトなブラとショーツ姿になったリサ。露わになった躰のラインを舐めるように見る男。持っていた一抱えほどある黒いケースを差し出した。
男の人相は凄味があった。被ったキャップの奥の鋭い眼光。焼けた肌。ただ、やけに白い歯は違和感があった。
「そいつは教えられねえ。企業秘密ってやつだ」
「ふん」と鼻を鳴らしたリサ。
男の視線を別段気にする様子もなく、黒いケースを開けた。中にはびっしりと荷物が詰まっている。リサはケースをまさぐり、取り出したタオルで手際よく濡れた髪を巻きあげた。そして、細身のデニム地のパンツを履くとパーカーに袖を通した。
男は下心を隠さず、ニヤついた表情でずっと眺めている。
「あんたいくつだい? 見た感じ年齢不詳だな」
「……それだけ見といて分からないの?」
「若く見えるが、二十代でその貫禄はないな……三十半ばと見た。どうだ?」
「正解」
興味のない声色。多分、何と言っても正解なのだろう。しかし、ますます口元を緩める男。
スニーカーを履いたリサ。最後にシェルジャケットを羽織ると、髪のタオルを解いた。そして、物言いたげに男に視線を合わせた。男は「何だ?」とばかりに、片眉を上げた。
「暗闇の中、予定通りの時間にピタリと現れ私を回収。いい腕してるわ……それに、さっきまでのスピード。この船も、ただの漁船じゃないわね」
「おう! 褒めてくれてありがとよ」
社交辞令だったが、男は素直に声を弾ませた。そのお返しとばかり、神妙な顔になって男は訊いた。
「だけどよ、真夜中の海で漂流していたとは思えない冷静さで乗り込んで来たあんたも大した玉だぜ。この時期の海水ってのは、命を危険に曝すほど冷たいことがあるって知ってるよな。ドライスーツを着てりゃいいってものでもないだろ」
「そうね……」
リサは微笑しながら、ケースからディバックを取り出し肩に掛けた。
「そもそも、俺が現れなかったらどうする気だ?」
少々恩着せがましい言い様。リサは鼻で笑った。
「……陸まで泳ぐだけよ」
「ほほう」
男はリサの強気な態度に、ますます悦を感じたようで、緩んだ口元から白い歯を覗かせた。
「あんた気に入ったよ。越谷の旦那の仕事だけのことはある……それに、べっぴんさんだしな」
リサは正直すぎる男の言葉を黙って聞き流し、取り出したキャップを被った。
「これから、どうするんだい? よかったら、必要な世話するぜ?」
鼻息荒い男を窘めるように、リサは冷たい笑みを浮かべた。
「遠慮するわ、船長。プランは順調よ。あなたも指示通りに、これを預かってちょうだい」
リサは手帳ほどの大きさの、黒いナイロン製のポーチを男に渡した。無粋な表情の男は不満そうにそれを受け取った。
「へい、へい。確かに預かったよ。超特急で越谷の旦那に届けりゃいいんだろ?」
「ええ、よろしく」
邪気にされた男。未練がましい表情のまま渋々運転室にもぐり込んで行った。
「いい時間なのに、お客少ないわね?」
リサが肘をカウンターに付き、頬に掌を当てながら横目で言った。店に来てから幾らか経つというのに、小料理屋の客は増えなかった。さもありなんという顔をする越谷。
「だから使っているのさ、穴場ってやつだよ。美味くて、空いている店を探すのも大変なんだがな」
リサは目の前に置かれた金目鯛の煮つけを口に運んだ。
「確かに、味もいいわね。だけど、密会場所に味のクオリティを求めるなんて、単に外交官生活が長すぎて、美食癖が取れていないだけじゃない?」
皮肉交じりの返答。越谷はしかめ面をしつつ、リサの顔を見詰めた。
彼女の顔立ちはアジア的ではないが、もっと外国人に見える日本人は沢山いる。それらに比べたら顔の造りはおとなしい方だ。流暢な日本語とそれらしい振舞を見れば、誰でも日本人だと思うだろう。近年、極東を中心に活動していたと言うだけの事はある。越谷が初めてイラクで会った時とは、別人のようだ。
「それで、アメリカ政府から追われる身になった私に何をしろと?」
リサは片眉を上げる。
「まずは君が持ち込んだネタからだな」
「そう。船長の仕事は確かね……で、データの解析はいつ終わるの?」
「今夜中に結果が出るはずだ。それをもって行動に移す」
「了解。ボス」
頷いたリサ。作為的な言いぐさの返事だったが、越谷は感慨深い表情になった。この日をどれほど待ち望んだことか。
彼の価値観はイラクで大きく変わった。日本に足りないものは諜報機関に他ならないと自覚した。情報が全てを制する。身を以って経験した。あれ以来、持てる力を全て使ってきたつもりだ。今、ようやく次のステージに移ろうとしている。
その組織は、内閣情報調査室をベースに組織強化を図ったものだ。新しい組織を立ち上げるのは簡単なことではない。まして、諜報に関する機関となれば、世間の風当たりも厳しい。先の大戦から70年余り経つが、いまだに国民の諜報活動に対するアレルギーは健在だ。よって、既存の組織を使った方が賢明だった。
だが、どうしても足りない部分があった。それは実働部隊だ。頭があっても動ける手足が無くては話にならない。戦後、対外諜報における工作活動の実績がゼロに近い日本。その部隊を構築する為には、リサの知識と経験が何としても必要だったのだ。
内調直属の実働部隊の創設。それが、越谷の目論む最終形態であり、今後の日本において重要な役割を果たすものだと考えていた。
リサの獲得には成功した。それは、越谷にとって絶対条件だったが、ここまでの道のりは厳しかった。