15.視点
液晶画面にはソースコード。新垣はいつものようにオフィスでPCに向かっていた。しかし、その表情は冴えない。ため息の後、両腕を頭の後ろに組んで天井を見上げた。
少女のことを想う。彼女の家を眺めた最後の夜以来、考え続けて数日が経った。ペントハウスの天使は見られなくとも、毎朝通勤で篠崎友子を見ることはできる。両者は同じ人物である。それで十分のはずだ。
多分、自分は彼女のことが好きになったのだろう。だけど、それがどうだというのか。相手は高校生だ。元々、この先の展開を期待しているわけではない。ただ、少しでも多く彼女を眺めていたいだけ、感じていたいだけだ。
天井に並ぶ照明を見詰めた後、暫し瞑想するかのように目を閉じた新垣。実のところ、憂鬱の原因は篠崎友子のことだけではなかった。どちらかというと、比重が重いのは、目の前のモニターに映っているプログラムだった。
「他事考えてる余裕なんて、ないんだよな……ほんとは」
ため息と共に口からこぼれる。
新垣は大きなプロジェクトを任されていた。納期が差し迫っている。
それは、内閣府の内閣情報調査室が所管する内閣衛星情報センターから請け負った工事だった。内閣衛星情報センターは情報収集衛星を用いて対象を調査し分析する機関である。
日本が情報収集衛星を運用するようになったのは、1998年の北朝鮮のミサイル発射がきっかけだ。それまでは米国の偵察衛星からの情報を頼りにしていたが、情報自体が米国にとって不利益になる場合、シャッターコントロールによって提供を拒まれる懸念もあったことから、日本独自で情報収集衛星を保有することとなった。
新垣が受け持った仕事は、情報収集衛を統合的に管理するシステムソフトウエアの高度化だった。このシステムは軌道上にある衛星群の制御から運行管理、得られた情報の通信。そして、データ解析までを全て一括管理する為のOSで、Satellite Integrated Management Systems、SIMSと呼ばれている。
情報収集衛星は、素早く運用できることが肝心である。その為、SIMSは全てがオートマティックに機能するよう構築されている。このソフトウエアの効果は絶大で、運用を開始してから衛星の稼動率は飛躍的に伸び、日本の安全保障に大きな役割を果たしたと言われている。
しかし、素晴らしいが、その複雑さ故にソフトウエアの改良には高度な知識が要求されていた。
「何だ、今日も残業か?」
目を開けると男の顔が視界に入った。黒くて太いウエリントンフレームの眼鏡を掛けた、いつもの先輩だった。壁を見遣ると時計は午後5時を過ぎていた。体勢を戻した新垣の目は、うっすらと充血していた。
「……ええ」
眼鏡の男は、自分のデスクに置いてあった鞄を手に取る。
「大丈夫か?」
「はい」
「俺みたいにフレックス使って早く出社したら、少しは早く帰れるんじゃないの?」
「えっ」
当惑したような反応の新垣。
「だから、フレックス。使ってみたら? 朝の通勤ラッシュも避けられるぞ」
「いえ、朝は……朝はいつも通りでないとダメなんです」
少しむきになって答えると、眼鏡の男は頸を傾げた。
「何だそりゃ?」
「……いえ、別に」
頸をすくめた新垣。眼鏡の男は気を取り直すように、その肩を叩いた。
「そうか、でも無理するなよ。手助けはできないかもしれないけど、何でも協力するぞ」
「……お気遣い、ありがとうございます」
その仰々しさに苦笑する眼鏡の男。
「相変わらず硬いよ、お前……じやあな!」
「……お疲れ様です」
眼鏡の男性は軽く手を上げ、オフィスを去って行った。
後姿を見送った新垣は、再び目の前のモニターをぼんやりと見詰めた。おもむろにマウスを握る。ソースコードの一部を網掛けしてコピーすると、解析ソフトを立ち上げ落とし込んだ。
ここ数日間、同じ動作を繰り返している。問題はここだった。どうしても、疑問が拭えないのだ。その結果、最終的な仕上げに移れないでいる。
疑問の要点を言葉にすれば、「教授は何故、この部分だけクラス設計を変えているのか……」だ。
教授というのはSIMSの開発者であり、数か月前までシステムのメンテナンスを行っていた人物だった。新垣自身は面識がなかったが、その業界で名前を知らない者はいない有名人。機能や様式の異なったプログラムを繋げる、インターフェイスの構築にかけては天才的な男だった。
SIMSは教授が在籍する理化系大学の研究室と、新垣が務める電機メーカーのプロジェクトチームで作り上げた共同開発のOSだった。だが、その大部分は教授の基礎研究を基にしており、教授の作品と呼んでも差支えなかった。つまるところのワンマンプロジェクトである。
ところが、突然その教授が病死したのだ。関係者は騒然となった。教授任せで機能していたプロジェクトチームは大混乱する。ワンマンだったが故に、それを引き継げる者がいなかったのだ。この先の見通しが立たなくなった。監督官庁である内閣府からは危機管理面での失態だと叱責され、本社の事業部長が担当事務次官に謝罪に出向く始末。しかし、残された大学の研究室とプロジェクトチームでは何ともならず、白羽の矢が立ったのが新垣だった。天才と呼ばれた教授には、天才と呼ばれる青年である。
新垣は困惑した。既に手掛けているプロジェクトもあったし、都合の良いように使われてはたまったものではない。しかも、要求されたのは難解なプログラムを今後のメンテナンスを考えて、機能はそのままで扱いやすいプログラムに仕立て直せというものだ。一括りに高度化と言っているが、かなり無茶な要求だった。プログラムというのは開発者の個性があって当然のものである。それは、時として解析の障害ともなる。
渋々承諾した新垣だったが、作業を進めていくうちに少しずつのめり込み始める。インターフェイスプログラムの天才が作ったソースコードは想像以上に素晴らしかった。複雑で難解なのは確かだが、不安定要素が多い非効率な部分をうまく結びつける工夫が随所に見て取れた。一般的に多機能を重視したプログラムは、それぞれの機能が干渉しあってストレスを起こすことが多い。しかし、このプログラムにはそれが見られない。まさに芸術品だった。
だが、解析を進める過程で、ある部分に疑問を感じたのだ。「教授は何故、この部分だけクラス設計を変えているのか……」である。
それは、一見して何の変哲もないソースコードなのだが、その部分だけクラス設計に違和感があるのだ。つまりプログラムのディティールであり、ベースとなる部分。それが、他と微妙に違うのだ。
最初はマルウエア、つまりウイルスの影響によるものやバグの一種かとも考えたが、結果的に両方とも違っていた。実際のところ、このまま放っておいても問題になる内容ではない。けれど、見過ごして通れなかった。一言で言うと気持ちが悪いからだ。それは、新垣にしか分からない感覚なのかもしれない。
「くう~」
呻きとも叫びとも取れない声を発した新垣。
椅子に背中を預けたまま両腕を持ち上げ、めいっぱいの背伸びをする。再び頭をよぎったのは篠崎友子だった。
「この気持ちが仕事に影響しているのかな~」更に躰を後ろに反らしながら考えた。「いや、あれとこれは違うだろう……」
いつものストレッチではあったが、少々勢いが強かった。思ったより椅子が後ろに傾くと、足が床から大きく浮いていた。既にバランスも失っていた。
「おうっ!」
体勢を立て直そうとバタつかせた足が、勢い良くデスクを蹴り上げてから空を切った。デスクの上のペン立てが倒れる。新垣は虚しくもがきながら後ろに倒れ込んだ。
人がまばらなオフィスに激しい音が響いた。一斉に周囲の視線が集まる。バックドロップを食らったかたちになった。小学校以来であろう醜態。何もなかったように慌てて起き上がろうと思ったが、近くにいた女子社員が駆け寄って来てしまう。
「新垣さん! 大丈夫ですか?」
「ええ……」
仰向けで大の字になった新垣に近づき、髪をかき上げながら覗き込む女子社員。照れ笑いで返すつもりの新垣だったが、見上げた先の刺激的な光景に目をパチクリさせる。このフロアの女子達はスカートを履く子が多い。目の前の子は短めのフレアスカートだった。
「キャッ!」
自分の立ち位置のまずさに気付いた女子社員は、小さな悲鳴を上げ慌ててその身を翻した。二、三歩下がって改めて問いかける。その頬は赤らんでいた。
「……だ、大丈夫ですか?」
慌てて起き上がる新垣。膝を付きながら冷静を装うが、その顔はいろんな意味で赤面していた。
「す、すみません! ……大丈夫です、大丈夫」
返事を聞いた女子社員は、もじもじとばつが悪そうな仕草をして、その場を離れていった。
椅子を直し、這い上がるようにして座った新垣。周りの視線を気にしつつ、デスクの上に散乱した蛍光ペンやらを拾い集めた。気恥ずかしさで顔が火照る。しかも、先ほどのローアングルが目に焼き付いている。
「いかん、いかん……」
頭をぶるぶると振った新垣。幸か不幸か分からないが、普段の見慣れた光景も見る視点が違うだけで、まったく違うものになるのだなと感心した。
「……世界は視点で変わる……か」
一人、苦笑する。デスクで前のめりになり、改めて目の前のモニターに映るソースコードを眺めた。半眼の視線がモニターの液晶画面を揺ら揺らと漂う。呟く新垣
「視点で変わる……視点で変わる……ん!」
思考の泉水に水滴が一つ落ちた感じだった。波紋が緩やかに広がっていくのが分かる。そして、軽い身震いが新垣を襲った。
「視点……いや、アプローチが間違っていたのかもしれない」
躰中に走る電気。停滞していた頭が、突如目まぐるしく回転し始める。それが閃きに変わるまで、大した時間はかからなかった。瞠目した新垣は、憑かれたようにキーボードを叩き出す。すさまじい勢いで、液晶画面に打ち込まれたソースコードがロールしていく。
30分ほどして、手が止まった。
「まさか……」
低い感嘆の声がこぼれる。導き出された事実は、まったく予想していないものだった。新垣の表情が変わる。
「……バックドア」
新垣が見付けた、いや暴いたもの。それは不正プログラムだった。
しかも、それは後から足されたものなどではなく、開発の段階から加えられていたものに間違いなかった。何故なら、それがSIMSの核になっている部分だったからだ。つまり、設計段階での明確な意図がなければこうはならない。
基本は内閣衛星情報センターが情報収集衛星を運用する為のプログラムであるが、加えて第三者もバックドアから侵入できるように構築されているのだ。それが、膨大な量のソースコードの中に、したたかにカモフラージュされ隠されている。新垣でなければ気付かなかったかもしれない。巧妙さは、まさに天才的と言えた。
しかし、本当に驚いたのはそのバックドアから得られる機能だった。
「これって、衛星への不正アクセスも可能ってことだよな……」
思わず絶句した。
何の目的でこうなっているのか分からないが、新垣はあまりの大胆さに驚嘆した。
このバックドアを使えば、SIMSへ直接アクセスできることはもちろん。誰にも知られることなく衛星を稼動させ、必要な情報を処理し入手することができるのだ。そこには本来の使用者である、内閣衛星情報センターとのアクセスが重なってしまった場合の回避対策や、不正な衛星稼動によって生まれた稼動履歴の抹消、通信時のセキュリティの抜け道と完璧な内容だった。
しかも、これまでSIMSに何の問題も発生していないことを考えると、大学の研究室もプロジェクトチームもこれを把握していない。もしかすると、教授以外は誰も知らないのではないかと考えられた。そうでなければ何の話もなく、自分にこの仕事が回されるはずがないからだ。
「これは、なんとも……」
教授の偉業か愚行か分からないが、呆れる新垣だった。しかし、今となっては教授に確かめることも出来ない。犯罪じみたことではあるが、教授を責める気持ちは起こらなかった。それよも、天才プログラマーが残した宝を探し当てたような達成感に高揚した。こんなに気持ちが良いのは久しぶりだった。
「――痛みますか?」
「わっ!」
唐突に耳元で囁かれた可愛らしい声。驚いて我に帰った新垣。振り向くと、先ほどの女子社員がすぐ横に立っていた。まったく気付かなかった。その驚きように困惑した表情の女子社員だったが、そっと何かを差し出した。
「えっ?」
「頭、痛みますか? ……これ、使って下さい」
花柄がプリントされたハンドタオルだった。受け取るとひんやりしていた。小さい保冷材が包んであった。
「あっ……ど、どうもありがとうございます」
「……いえ」
はにかんだ笑顔を見せる女子社員。良く見れば、隣の部署の女の子だったことに気付く。ショートカットが良く似合う子だが、ほとんど話をしたことはなかった。新垣はタオルを受け取りながら苦笑した。SIMSとの葛藤で、頭を抱えている様子がそう見えたらしい。彼女は踵を返し小股で戻っていった。
その後ろ姿を見詰めていた新垣。可愛い子だなと思った。タオルを後頭部に当てていると、突如、邪心が芽生えた。それは、新垣らしくない短絡的な考えだった。
内閣衛星情報センターで、現在稼動中のSIMSも全く同じOSだ。そして、バックドアの存在を知っているのは自分だけ。
「ペントハウスの天使に会える……」
新垣は呟いた。