14.ペントハウスの天使
新垣洋一が初めてその少女に出会ったのは三ヶ月ほど前だった。正確にいえば、初めて意識したというのが正しいかもしれない。
電車の乗継で通勤していた新垣だったが、半年ほど前から同僚のアドバイスで一部をバスに変えた。言われた通りにすると通勤時間が10分も短くなった。しかも、電車と違いバスは混雑も少なく、人混みが苦手な新垣にとって良い選択となっていた。
その日も新垣はバスの中央付近に座っていた。なんとなく、そこが自分の席であるかのように定着している。毎日の行動が何故か固定化してしまうのは、どうしてなんだろうと感じた。きっと何かの法則があるのだろうが、調べるまでの興味はなかった。
いつもと変わらない車窓を見ていると、途中の停留所に中年の男が立っていた。
ドアが開き乗車口から顔を覗かせた男は、決して清潔とはいえない身なりをしていた。一見するとホームレスのような風体。黒い顔は皺だらけで、白髪の混じった髪はボサボサ。周りの乗客は皆、その男を見て顔をしかめた。
嫌悪感を露わにする空気が漂う中、ぎこちなくドアステップを上がった男だったが、段差で躓いてしまう。予想外にバランスを崩した男。何の抵抗も見せないまま、新垣の足元に激しく倒れ込んだ。
思わず仰け反る新垣。唖然として固まってしまった。足が不自由なのか、その男はすぐに立ち上がれずバスの床でもがく。タイミング悪く外でクラクションが激しく鳴っていた。気を取られた運転手は、この事態に気付いていない。
新垣を含め周りにいた乗客は、この出来事に一様に反応したが、誰一人として咄嗟に手を差し伸べる者はいなかった。男の風体が問題なのか、単に係わりたくないだけなのかもしれない。戸惑と共に、道徳感の押し付け合いのような空気がその場を支配する。
それに飲み込まれる新垣。いや、彼にとって理由はそれだけではなかった。動かないではなく、動けないのだ。子供のころからパソコンやゲームが友達のような自分にとって、知らない人と接することなど、ストレス以外のなにものでもなかった。
ドアの空圧シリンダーが音を吐き。ブザーと共にドアが閉まった。バスが緩やかに動き始める。
「運転手さん! 止まって!」
高い声がバスの前から響いた。それに反応してバスが停止する。急な制動で緩慢に車内が揺れる中、前方から駆け寄って来たのは一人の少女だった。高校生と思われる制服を着ていた。
「大丈夫ですか!?」
少女は倒れた男の傍らに両膝を付けてしゃがみ込むと、必至に呼びかけた。そして、男の手をしっかりと握り締める。その行動には躊躇いの欠片も無かった。
「大丈夫、ですか?」
少女は問い続ける。目を細め少女を見上げた男。
ようやく事態を把握したバスの運転手が、運転席を離れ駆け寄った。周りの乗客もそれに後押しされるように、協力して男を近くの席に座らせる。幸い男にケガは無かった。
「ありがとう……ありがとう」
そう言って、少女に何度も頭を下げる男。皴の多い男の顔が、もっと皺くちゃになっていた。
「いいんですよ。今度から気をつけてくださいね」
少女は優しい言葉をかけると、屈託のない笑みを残し戻って行った。
無意識のまま、その後姿を目で追っていた新垣。席に座った少女は、同じ制服を着た子を隣にして、何事も無かったように無邪気に会話を始めた。それは、ごく普通の女の子にしか見えなかった。
バスが再び走り出す。
新垣は抱えていた鞄を自分の胸に押し付けた。心臓をグッと握られたような、経験したことの無い感覚。自分は率先して前に出るような人間でない。そんなことは十分知っているし、仕方ないとも思っている。なのに、恥ずかしさともどかしさが膨らんだ。何が正解かなんて、人によって答えは違うはずなのに。
確かに、少女は違っていた。まっとうなことを普通にできる姿勢。正直、自分にないものを持っている者への憧れはある。とはいえ、湧き上がる感情が止まらないのだ。しかも、それが何か分からない。
ただ、感じるのは、微かに残された柑橘系の香りと目に焼き付いた光景だった。汚れたバスの床に付いたきれいなひざ小僧。男の黒い手に重ねられた白い手。そして、横から見るとはっきり分かる長いまつ毛と通った鼻筋。
今まで他人との距離をとってきた新垣。社会不適合者ではないが、感情的というより合理的に考えて、深い人間関係は必要ないと思っていた。しかし、この時から新垣にとって少女は特別な存在となったのである。
あれ以来、少女を意識する日々が続いていた。毎日の退屈な通勤は激変した。その日の彼女の髪型や仕草は、新垣が一日を気持ちよく過ごす上での重要なファクターとなった。当然、少女が現れない日は憂鬱で過ごすこととなる。
その日は朝から雨だった。
新垣が横目で見遣る中、少女はいつもの停留所でバスに乗り込んで来た。彼女は傘をたたみながら、横を通り過ぎようとする。
その時である。足元の床に何かが落ちた。反射的にそれを拾い上げた新垣。それはバスの定期券だった。
発着の停留所名とその下には、氏名と年齢が記載してあった。
[ 篠崎友子 様 17歳 ]
きっと僅かな時間だったであろうが、それに見入っている自分に気付く。はっとなり、慌てて立ち上がった。周りの視線を気にしつつ、少女に後ろから声を掛ける。なぜだか、躊躇なく動けていた。
「こ、これ落ちましたよ」
うわずった小さい声だったが、彼女は振り返った。一瞬、キョトンとした表情を見せたが、差し出された定期券を見て表情が明るくなった。
「あっ、どうもありがとうございます!」
長い髪を揺らしながら、笑顔でペコっとお辞儀をした彼女。長いまつ毛の奥の澄んだ瞳。そして、色づいた頬とチェリーのような唇。初めて向かい合った印象は、想定を遥かに超えていた。
誰かに頭を揺さぶられたようにクラクラした。初めて天使という言葉の使い方が分かった気がした。顔が一気に火照るのを感じる。思わず視線を逸らした新垣。
「い、いえ……」
言葉を失い、たじろぐようにして席に戻った。彼女の声が頭の中でリフレインしている。鼓動の高鳴りが治まらないまま呟く。「しのざき、ともこ……それとも、ゆうこ。どっちだ?」それは、欲望が彼を支配し始めた瞬間だった。自分を見失いそうなくらいに。
一週間後の夜。新垣は少女の家の隣にある公園に来ていた。
カーゴパンツにナイロンのパーカー姿。数本ある桜の木陰から、彼女の家の様子を窺う。その姿は不審者そのもの。
新垣は少女の名前を知って以来、自分を見失い、ただのストーカーに成り下がっていた。もちろん罪悪感はあったのだが、能力を持っているが故に衝動を止められなかった。
新垣にとっては朝飯前だった。全てはPCを叩けば簡単に済む。まず、彼女の制服から高校を割り出した。そして、学校関連のホームページ、クラブ活動に関するものや生徒個人のSNSを調べる。次に乗車してくるバスの停留所から住所を絞り込んだ。決定的だったのは、彼女が暮らす町の自治会情報が、何らかの事故によりネット上に漂っているのをヒット出来たことだ。
彼女、篠崎友子は、私立の女子高に通っている。父親との二人暮らし。父親は自宅で会社を経営している。
もっと深く調べることも出来たが、彼女のデータに興味は無かった。ただ、顔が見たいだけ。バスの時には見せない素顔。普段はどんな表情をするのだろうかと。
しかし、いざ彼女の家の前に立ってしまうと行き詰まりを感じた。
数日通って、彼女らしき人影が毎晩のように屋上に出てくることは確認できた。何故そうしているのかは分からないが、屋上に面したところが彼女の部屋らしい。試しに双眼鏡を持って来てみたものの、公園からでは良く見えなかった。近くを見渡してもそこを見下ろせるような、都合の良い場所は無かった。ウロウロしていたら、近所の人に変な目で見られた。また見付かったら警察に通報されるかもしれない。
急にもどかしくなった新垣。同時に熱も冷めていった。彼女の顔が見られなければ何の意味も無いのだ。
その夜を最後にストーカー行為は終了する。新垣は見上げて呟いた。
「彼女の部屋は、まるでペントハウスだ」