13.秘密
高層ビルが立ち並ぶ副都心の一角。
全面ガラス張りの先鋭的なデザインのビル。各フロアはスタイリッシュで清潔感のあるオフィスになっている。その一つ。原色のカーペットが敷かれた通路の向こうには、整然と並べられたデスク。採光豊かな空間で多くの人が働いていた。
今は午前の休憩時間。コーヒーの香りがオフィスに漂っていた。広い空間のほぼ中央。デスクに座るスーツ姿の若い男が、休憩も取らず寡黙にPCに向かっている。
目の前には二つのモニター。画面を覆い尽くしているのは、数字と記号とアルファベットの羅列。普通の人には理解できないであろうそれは、コンピューターのプログラム言語で書かれたソースコードであった。
「なあ」
若い男に後ろから声が掛かる。同じくスーツを着た男だった。中年と呼ぶにはまだ早い風貌。黒くて太いウエリントンフレームの眼鏡を掛けている。コーヒーカップを片手に持ち、自席の椅子を回して躰を向けていた。
「はい?」
名残惜しそうに、液晶画面からゆっくり視線を外して振り返った若い男。眼鏡の男に一瞥されると。俯き加減になった。
「……何でしょう?」
何故かよそよそしい動き。細身で整った顔をしているが、どことなく地味な印象の青年だった。自らも椅子を回し向かい合う。
コーヒーを啜る眼鏡の男。湯気でレンズを曇らせながら訊く。
「お前ってさ。確かSIMSの高度化担当だったよな?」
「えっ!?」
うろたえるように目を瞠った若い男。不自然なほど大袈裟な反応。
その表情は、あの時と同じ。この青年は毎朝通勤で篠崎友子と同じバスに乗っている。間違いない。“なんちゃってスマイル”いや、“女子高生誘惑スマイル”を食らい赤面したあの若い男だった。
「……どうした?」
「い、いいえ……私です」
一瞬戸惑った眼鏡の男に対して、青年は取り繕って言った。
その胸元にぶら下がるID。部署名の下に、“新垣洋一”とあった。彼はこの会社に勤めるシステムエンジニアだ。
眼鏡の男は新垣の態度に頸を傾げながらも続けた。
「で、どうなんだ?」
「あ、はい……え? ……何が?」
「……だから、衛星統合管理システムのことだよ」困惑した眼鏡の男が、心配そうに新垣の顔を覗き込む。「……大丈夫か?」
「はい……あのソフトですよね……完成してますよ。今、検証チームが最終確認してるところだと思います……」
胸を張った新垣だったが、その頬は少し引き攣っていた。
「そうか……ならいいんだが」眼鏡の男は神妙な顔で頷いた。「いや、最近のお前、ずっと浮かない様子だったんで……まだ、そのプロジェクトで苦労してるのかなと思って……」
それを聞くと、新垣は何故か安堵したように、ちいさく吐息を漏らす。眼鏡の男は怪訝な表情で反応した。
「ん?」
「いえ、何でもないです」無理のある笑顔をつくってみせる新垣。「気を使って頂いて、ありがとうございます……プログラムの方は、おかげ様で何とかなりましたから、今は次のプロジェクトやってます」
「そうか、じゃあ心配はいらないか……」
眼鏡の男。納得していない感じだったが、取り敢えず頷いた。
「へえー、出来たの? ……情報収集衛星の? ……やるね、さすが天才プログラマー!」
突然、割り込んだ声に二人が振り向く。
ワイシャツの上に青色の作業服を羽織った男だった。いつからいたのか、すぐ横でコーヒーカップを持って立っていた。作業服の左胸には、日本人なら誰でも知っている企業ロゴが刺繍されていた。ここは国内最大手の電機メーカーのオフィスビルだった。
眼鏡の男は作業服の男に一瞥をくれると、呆れ顔で苦笑した。作業服の男は、いつも新垣に絡みたがる先輩だった。眼鏡の男より年下なのだが、基本ため口で少しチャラい。その男がカップを突き出して更に訊く。
「それって防衛省の仕事なのか?」
「……いいえ、内閣府ですね」
「内閣府?」
作業服の男が眉間に皺を寄せたのを見て、眼鏡の男がカップをデスクに置いた。新垣をフォローするように口を開く。
「そうだな、うちの会社は官の下請け多いから、いろいろあって良くわからんよな」
作業服の男。そんなことはどうでもいいような顔をして眼を輝かせた。
「でもさ、それって凄い性能なんだろ?」
「……なにがですか?」
訝しそうに答える新垣。
「だから、衛星の話だよ」
「えっ?」
再び表情が強張った新垣。
「上から何でも見えるんだろ?」
「……」
言葉を詰まらせる新垣。再びその代わりを担うように、眼鏡の男が口を開いた。
「そうだな……情報収集衛星ってのは、要は偵察衛星だからスペックは明かさないのが常だ。何処の国でもそうだが、最重要軍事機密になるからな。まあ、民間に限っていうと、解像度は最高で30センチ程度だ。つまり30センチ以上の物の判別が可能だとしている」
「へー」
閉口する新垣をよそに、楽しそうに頷く作業服の男。眼鏡の男は澄ました顔で続ける。
「ただ、それは民間の話であって、軍事レベルとなると車のナンバーや顔の判別までつくらしい」
「ほー」
相槌を打つ作業服の男。それに歩調を合わせる眼鏡の男。悪い人達ではないが、時に話が盛り上がると止まらない。
「そこで日本の衛星はどうなのかってとこだが、最近打ち上げたものに関しては相当高いレベルにあるんじゃないかと俺はみている」
頷く作業服の男。眼鏡の男は続ける。
「少し前にニュースになってただろ。新型の情報収集衛星の打ち上げの時、アメリカが懸念を示して打ち上げ延期になったってやつ」
「ああ、あったね」
「あれってさ。搭載されているイオンエンジンが特許を侵害してるって話だったけど、特許侵害かどうかは別にして、やっぱり凄いらしいぜ」
「イオンエンジンが?」
「そう、世界で初めて実用化に成功した特殊なイオンエンジン。うちの会社にも衛星部門あるから、詳しい同僚から聞いたんだけど、スラスターにそれを用いているらしい」
「スラスター?」
「そう。衛星の姿勢や軌道を修正するための小さなエンジンだ。光学衛星ってのは望遠鏡が付いたカメラで地表を撮影するんだが、より解像度が高い画像を得る為には、200キロメートル以下の高度を維持する必要がある」
「なるほど」
「しかし、通常の安定した周回軌道である600キロメートルと違い、低い高度では衛星自体が薄い大気の層に触れてしまうから、徐々に速度が低下し高度も落ちる。それで、スラスターにより軌道修正を頻繁に行うわけだが、スラスターの燃料は限られている」
いまいち関心なさげな作業服の男。新垣は聞き耳を立てるかのように静かに聞いていた。
「つまり、衛星の寿命はその燃料と比例することになるんだ。たとえ、アメリカの大型衛星といえども燃料に限りはあるわけで、この手の衛星を運用する場合の大きな課題となっている」
「詳しいね。それも、受け売り?」
「……って、そういうこと言わない」眼鏡の男は片眉尻を上げる。「で、そのイオンエンジンだが、イオンエンジン自体は珍しいものではない。例の小惑星探査機“はやぶさ”でも使われていたしな。画期的なのは低高度の運用なら燃料の問題が無くなったってことさ」
「宇宙にガススタができたとか?」
作業服の男が失笑気味にからかうが、眼鏡の男は聞き流す。
「イオンエンジンの燃料は正確には推進剤と言うんだが、レアガスが用いられている。それで、さっき話したように低高度を周回する際は薄い大気の層を通過するんだが、そのデメリットを逆手に取って大気中からレアガスを取り入れ推進剤とすることに成功したんだ」
「おお!」
作業服の男もこれには驚いたのか感嘆の声を上げる。だが、新垣は沈黙したままだ。
「つまり、軌道修正に必要な燃料の目減りを気にせず、ガンガン衛星を使えるってことだ。運用側にとってのメリットは非常に大きい」
「……で、結局どれほど見えるの?」作業服の男の興味は、やはりそこにあるらしい。「……もしかして、まだ、解説が続く?」
眼鏡の男は大きく頷く。
「イオンエンジンの他に、もう一つ凄い技術がその衛星にはある。光学衛星が撮影する画像の解像度は、搭載されている望遠鏡の口径がものを言う。アメリカの偵察衛星はハッブル宇宙望遠鏡以上だと言われているから、その頂点にあると言って間違いない。だが、日本の情報収集衛星も口径では劣るものの、新型のイメージセンサ―によって画像の解像度を飛躍的に上げているらしい。もちろん、実際のスペックは公表されていないけど……」
「解かりました、解かりました」作業服の男は我慢できずに遮った。「俺が知りたいのは、それで女の子だったら顔が可愛いかどうか判るかってとこなんですがね。どうなんです?」
「って、そこか!」
「そこです」
メガネの男は、そのくだらなさに唖然としながらも少し考えて答えた。
「多分……判る……かな」
「それ、いいなー」間髪入れずに、妄想に浸る作業服の男。「俺がそれ使えたら、渋谷とかで可愛い娘いっぱい探すんだけどなー。きっと、チョー楽しいですよ!」
眼鏡の男は呆れ顔で苦笑する。
「お前、欲望丸出しだな」
「いえ、自分に正直なだけです。新垣だって、そういうのやりたいよな? な?」
「……」
「ほら、やりたいって」
「言ってないだろ」
両先輩が笑う中。新垣は目を泳がせ、顔色を悪くしていた。しかし、眼鏡の男は知ってか知らずか話を続ける。
「今までの話は光学衛星だけど、他にレーダー衛星ってのもある。それは、ただ写真を撮るだけじゃなくて、特殊なカメラやレーダーが搭載されていて、地質調査も衛星軌道上からできるんだ。リモートセンシングという技術で……」
「解説はもういいです!」
作業服の男が、一蹴するようにツッコミを入れる。不意に新垣の表情が目に入る。異変に気付いたのは眼鏡の男だった。閉口している新垣の顔を覗き込む。
「おい、新垣? 大丈夫か?」
顔がみるみるうちに青ざめていった。
「……ええ」
か細く答える新垣。はしゃいでいた作業服の男もさすがに気に留めた。
「どうした、気分でも悪いのか?」
「……ち、ちょっと、トイレへ」
震えた声で、たどたどしく返事をした新垣。よろよろと立ち上がると通路へ歩き出した。手を貸すまでもないが、足取りはおぼつかない。残された二人が心配そうに見送る。
「酷いようなら、健康管理室へいって産業医に診てもらえよ」
眼鏡の男の問いかけに答える事無く、新垣はオフィスを出ていった。残された二人は、当惑した表情で顔を合わせる。作業服の男がぼそり。
「俺、なんかマズイこと言いました?」
「いいや……仕事のやり過ぎかな、体調があまり良くないみたいだな」
「天才だけど、生身の人間ってことか……」
眼鏡の男は怪訝な表情で、作業着の男を一瞥する。
「天才、天才ってあまり言うなって。本人も気にしているはずだから」
作業服の男は不満そうに渋い顔をした。
「だって、本当に天才でしょ? 奴は」
「まあな」
「高校生の頃から、いくつものプログラムコンテストで優勝をかっさらい。大学では在学中に開発したソフトが、今でも多くの工業製品で使われているとか」
「らしいな」
「そして、ヘッドハンティングみたいなかたちで、うちの会社へ……やっぱり、天才でしょ?」
「だな」
眼鏡の男は新垣が出て行った通路を見詰めた。
傾いた陽射しを窓際のブラインドが遮る。昼間の活気が嘘のように、今はまばらに人がいるだけだ。オフィスの壁に掛かる時計は午後6時を回っていた。
デスクにはまだ新垣の姿があった。相変わらず目の前のモニターには、数字と記号とアルファベットの羅列が並んでいた。キーボードを軽快に叩いている表情は、穏やかで顔色も良かった。体調は回復したようだ。
すると、唐突に手を止めた新垣。少しの間モニターを見詰める。何かを考えている様子だったが、思いついたように躰を起こすと周囲を見回した。
近くに人はいなかった。おもむろに、マウスを握り直す。作業していたソースコードをセーブし、別のファイルを開く。画面上にいくつかのアプリケーションが現れる。その一つをクリックする。
ソフトが起動する間、幾度も周囲を確認する新垣。その挙動は明らかに不自然だ。
数秒後、モニターはパスワードを要求する画面に変わる。手馴れた操作でパスワードを打ち込むと、次に現われたのは、何かのシステムのメイン画面だった。新垣は続けてキーボードを叩く。すると、ダウンロードをカウントする表示になり、やがて消えた。
暫くしてモニターに映し出されたのは画像再生ソフトだった。上の空欄に数値を入力すると。中央に画像が映し出された。モノクロの画像だった。いくつもの建物の明かりと道路に連なる車のライトから、それが夜の街を上から写したものであることが分かった。
新垣はマウス操作で、その画像をズームアップする。光度を調整すると昼間のように明るくなった。拡大されたのは住宅街だった。更に進めると、戸建てがクローズアップされた。横には小さな公園があった。拡大しても解像度は高く、それが角ばった住宅であることが判る。そして、住宅の屋上には人影があった。
今度はその人影をマウスで網掛けして、エンターキーを押す。網掛けした部分が拡大され、粗いデジタルモザイクの画像は、徐々に処理され解像度を上げていく。
すぐに処理は完了した。新垣はそれをコマ送りで進ませ、操作を止めた。声にならない吐息が漏れる。悦に入った穏やかな表情になった新垣。モニターにそっと指を伸ばして触れた。
そこには、仰ぎ見ている美しい少女の姿があった。モノクロではあるが、かなり鮮明に映し出されていた。品のある顔立ちに長い髪。少女は篠崎友子であった。