11.父と娘
学校帰り。日の入りが遅くなったとはいえ、夜はあっという間に訪れた。
曇りがちだった天気のせいもあり、街の明かりは所々灯り始めている。窓際に座った友子は、バスに揺られながら安穏と窓外を眺めていた。長いまつ毛の奥、瞳に写り込んだ景色が流れていく。
朝は香奈と一緒だが帰りは別々。バドミントン部に入っている香奈に対し、友子は俗にいう帰宅部。やってみたいクラブ活動もあるのだけど諦めている。父親との二人暮らしだと家に帰ってから、いろいろやる事があるからだ。だからといって、そんな家庭の事情に不満を抱いたことはなかった。
濁った電子音が車内に響く。習慣づいた友子の指が無意識に降車ボタンを押していた。バスの昇降口から、軽い足取りで歩道に降り立つ。背伸びをして髪を後ろへかき上げた。
帰り道、ここで降りるのはいつものこと。家まであと一区間あるが、ここからは歩き。途中で買い物を済ませるには都合が良かった。
歩き出してすぐだった。背後に妙な気配を感じた友子。おもむろに振り返る。しかし、そこにはサラリーマンや学生の家路を急ぐ姿があるだけ。別段、変わった様子は無かった。
じっと歩道の向こうを見詰めてから、頸を傾げる。
「気のせいか……」
そう呟いてから踵を返した。
自動ドアが開く。店内に足を踏み入れた友子は、煌々とした照明に目をしばたたかせた。
そこは、生鮮食料品が所狭しと並べられたスーパーマーケット。夕方とあって、賑わいを見せている。頭上のスピーカーからは、フランチャイズのオリジナルテーマソングが繰り返し流されていた。それを口ずさむ友子。マンネリだなと思いつつも、擦り込まれてる自分にちょっと笑えた。
友子は小振りなカートを押しながら、テキパキと食料品を乗せていった。時折、立ち止まって思案している様は手慣れた主婦を思わせる。制服姿の学生としては、少し違和感のある光景だった。
次に友子が向かったのは、乳製品のショーケースだった。中を覗き込み、父親の好きなヨーグルトを吟味する。ふと、新製品が出ていることに気付き、それに手を伸ばす。
「――!」
唐突に手が止まる。それは、先ほど歩道で感じた気配と同じだった。近づいて来るのが分かる。ゆっくりと視線を上げ、鳥肌が立つような感覚を抑えながら振り向いた。
ショート丈のトレンチコートにロングブーツ。その女性は落ち着いた紅褐色の長髪を揺らしながら現れた。息を呑む友子。全てがスローモーションだった。
淡いブラウンの瞳。女性に見詰められた瞬間、友子の躰は脳から切り離されたように動きを止めた。金縛りのような感覚。だが、息苦しさは感じられない。むしろ、何か温かいものに包まれているようだった。
女性はすれ違いざまに、やさしく友子に微笑み掛け、そのまま通り過ぎて行った。
「……」
あんぐりとしてしまった友子が我に返る。目をしばたたかせながら、去り行く女性の後姿を見送った。余韻として残ったのは、そっと頬を撫でられたような、くすぐったくも心地よいものだった。鼓動が高鳴る。「何なの、これ?」心の中で、そう呟いた。
それにしても、容姿も含めた妖艶さは圧巻だった。まるで女の魅力を全て持ち合わせているかのように思えた。
「……綺麗な人……誰なんだろう」
暫く、その場に佇んでしまった友子。
とても不思議な感覚だった。素敵な女性に対する憧れなのかもしれないが、その感情を整理することはできなかった。
取り敢えず、新製品のヨーグルトを手に取ってカートに入れる。そして、何か考えた。
「よし、メニュー変更」
友子は再びテーマソングを口ずさみながらカートを押した。
コンロにかけられたオレンジ色のホーロー鍋が、コトコト音を立てている。ゆらゆらと昇る蒸気は、酸味がかった香りを帯びている。キッチンカウンターに寄せられた大きなダイニングテーブルには、三人分の食器が並べられていた。
《ピンポ~ン!》歯切れのよい音に呼ばれるように玄関へ駆け寄った友子。慣れた手つきでドアロックを外し飛び出した。
「いらっしゃーい!」
二階玄関の踊り場から見下ろした友子。一階にある鉄の門扉を開け、階段を上がって来たのは直哉だった。
「あれ!? お父さん!」
困惑した表情の友子を見た直哉が怪訝そうに言う。
「なんだ? 俺じゃ、不満か?」
「いや、そうじゃなくて……」
友子は苦笑しながら玄関ドアを開け、直哉を迎えた。
「今夜、香奈がご飯食べに来る予定だったから……そうだと思って」
着ていたエプロンのポケットに両手を入れて、取り繕うように言った友子。直哉が靴紐を解いていると、サンダルを脱ぎ上がり框で振り向いた。
「……でも、どうしたの? 今日は帰りが早いじゃん!」
照れくさそうに、顔をほころばせた友子。
「ああ、今日はクマと取材だったから」
「あ、クマちゃんと? ……そういえば、最近うち来てないね。元気なの?」
「ああ、すこぶる。忙しそうにしてるよ」
「そう、ならいいけど」
直哉がジャケットを脱ぎながら訊く。
「それより今、インターホンで確認したか?」
「ううん」
呑気に頸を振る友子。直哉は眉根を寄せた。
「ううん、じゃないだろ。相手を見ずに鍵を開けるなって、いつも言ってるよな?」
頸をすくめて見せる友子。直哉は続ける。
「近所の人の話じゃ、夜中に前の公園をうろつく不振な男がいたらしいぞ。この辺も、十分物騒なんだからな」
諭す直哉だったが、友子はいつもの小言にへの字口。
「へいへい、でも大丈夫! 私にはこれがあります」
リビングへと廊下を進む直哉の背中を追っていた友子は、両腕を上げると拳を突き出した。格闘技のファイティングポーズ。半身の構えは、それなりに様になっている。
振り返った直哉は鼻で笑う。
「何だって? カワイイ女子になるんじゃなかったのか?」
「あ、うっ!」
嗚咽するように唸った友子は目を見開いた。そうえば、大見得切っていたことを忘れていた。「墓穴だ……」心の中で呟く。
だが、直哉にとって、そんなことはどうでも良かった。友子を見据える直哉。
「少しくらい腕っ節に自身があったって、所詮お前は子供だ。大人の世界では通用しない。過信するな」
更に真剣な眼差しになった直哉。親としての指導に胸を張る。
「いいか、中学の時、男子をノックアウトしたことがあるからって、調子に乗るな!」
その言葉は大いに余分であった。そのとは、もちろん「男子をノックアウト」の部分だ。膝から崩れ落ちる友子。頭を垂れて床に手を着いた。
「ぐうっ!」
先ほどにも増して酷い嗚咽。吐きそうなくらいだ。「……親のくせに、そこ掘り返えしますか」半眼の上目づかいで、恨めしく見上げた友子。
「あ、ゴメン……」
一旦、口を塞いだ直哉。しかし、そこで終われば良いものを、更に悪い方向へ向かう。
「えっと……確か……相手は好きな男子だったんだよな……でも、友達庇ってたら、そうなってしまって……いや、そういうこともあるさ……事故みたいなもんだ」
「……」
もう駄目だ、嗚咽も出ない。もちろん弁明はあるのだが、この無神経なカウンターパンチはさすがに効いた。暫し呼吸を整え、心の中で唱える。「もう昔の話だ……気にしない、気にしない……」
「あれっ」友子のリアルな反応に焦りを感じた直哉。「その……ま、そんな事もあったから、女子高を勧めた訳で……そのおかげで、女の子らしさを考えられるようになったじゃないか」
「ちょっと待って!」
険しい形相で立ち上がった友子。直哉と顔を突き合わせる。先ほどの親とは思えない仕打ちは我慢できたとしても、今の話を聞き流す訳にはいかなかった。
「勧めた? 良く言ってくれましたね」ぐいぐいと直哉に迫る友子。「あれはどう見ても、放り込んだって感じでしたけど」
「そんなこと――」
直哉の言葉を遮る友子。
「それに、言いましたよね? 今の高校じゃないとお金は出さないと。しかも、死んだお母さんが『将来、この子は女子高に入れたいわ……』とか言ったという、眉唾だけど私の心を揺さぶる話を持ち出して、強制的に誘導しましたよね?」
思わず、たじろぐ直哉。
「ゆ、誘導って……それは、その、あれだ……」
「何よ?」
口を尖らせる友子。
「だから、その……」
「その?」
「……嫌なのか? 今の高校」
直哉は少し間を置いた後、開き直ったように訊いた。
「えっ!?」一瞬、戸惑う友子。「そ、それは……」
その反応を見逃さなかった直哉。転機とばかりに繰り返す。
「嫌なのか? 嫌なのか?」
ばつが悪そうに頭を掻く友子。
「……それは……嫌ではない」
「じゃ、いいじゃん。香奈ちゃんとも友達になれたんだし。友子も楽しそうに見えるよ」
直哉は、半ば強引に早期の収拾に取り掛かった。
「そ、そうだけど……」
顔を近づけて「そうだろ」と言わんばかりに、笑みをつくる直哉。
押し切られ気味の友子。「なんか納得できないな……」そう思うのだが、実際、今の学校は好きだ。香奈と友達になれたのも事実だ。
お父さんの思惑とは違うだろうが、女子ばかりの中では男勝りの性格も、逆に溶け込めちゃったりして居心地は悪くない。ただ、一部の子達にやたらと好かれてしまうという問題は別にあるのだが……もちろん、そっちの趣味はない。
「おっと!」
ホーロー鍋から吹き上がる蒸気に声を上げた友子。慌ててカウンターの向こうへと走る。
「――で、香奈ちゃんとこ。今日も親御さん仕事で遅いの?」
直哉はジャケットを脱いでソファーに腰を下ろすと、何事も無かったように話を変えた。
「えっ? あ、うん。そう。一人でご飯はいやなんだって」
友子は支度をしながら背中で答える。
「使用人がいるんだろ?」
「……だけど、それは違うんじゃないの」
「そうか……裕福でも、そういうのは寂しいだろうな」神妙な表情になった直哉。「なあ、今まで通り、ちょくちょく、ご飯に誘ってあげなよ」
鍋の蓋を上げながら、振り向いた友子。それを聞いて嬉しそうに微笑む。
「ありがとう、お父さん」
友子の親友の里見香奈。あまりに仲が良すぎるので、直哉は身元を少し調べたことがある。もちろん友子には内緒だが、職業柄周りの人間を把握しておくのは重要だ。
少し素行が宜しくない少女のようだったが、問題とは思わなかった。だが、その家柄に驚いた。家族、親族共に官僚一族と言って良かった。厳格な家庭環境で育ったはずの彼女だが、そうとは思えない気さくな性格。そのギャップに彼女なりの苦悩を感じ取れた直哉。それもあって、いつも快く迎えている。
「そうだ、お父さん」
ミトンをはめた友子が振り向く。直哉が顔を上げると、友子は幸せそうな笑みを浮かべていた。何やら嬉しいことがあったらしい。
「さっき、スーパーで凄い美人に会ったの。なんか大人って、感じの人」回想して悦に入る友子。「あれはきっと、モデルだな。ウオーキングしてるみたいに、かっこ良かったもん……いや、それとも何処かのセレブ? ……って、あんな店には来ないか」
「へー、そうなの?」
「うん。綺麗なんだけど冷たい感じじゃなくって、とっても優しい目をしてた。何と言っていいのかな、心地良いような……」
急に語尾を濁らす友子。
「ん?」
頸を傾げた直哉に向かって、照れくさそうにはにかんだ。
「……なにも」
言葉にしていたら、なんとなく分かってしまった。あの時感じた包まれるような、くすぐったい感覚。あれは素敵な女性に対する憧れではなかった。それは、心の奥で自分が求めているものなのかもしれない。ぼんやりとする友子。
何かを察した直哉。優しく呟く。
「お前のお母さんも、美人だったよ」
「……そうね。写真で見ても綺麗な人だよね」
直哉は目を細めた。
「その人、似てたのか?」
「ううん、全然違う感じの人」
「……そうか」
直哉の奥歯にものが詰まった言いように、友子は頸を傾げる。
「何?」
「いや、今日のメシ……香りで分かった」
そう訊かれ、戸惑った表情をする友子。
「……関係ないよ、ただ食べたくなっただけ」直哉の表情を窺いながら、照れくさそうに背を向けた。「今日は豚肉が安かったから、チョルバ・デ・ポルクにしただけだよ」
「ああ」
直哉がその背中を黙って見詰めていると、友子が呟くように訊いた。
「お母さんのチョルバは美味しかった?」
「ああ……だけど、友子のも負けてないよ」
誇張した言い方だったが、その言葉には直哉の気持ちが込められていた。
「ありがと」
振り向いた友子は満面の笑みで返した。友子は強い子だ。それは、母親譲りなのかもしれない。直哉は思った。
ボルシュという酸味のある調味料を使った、ルーマニアの野菜たっぷりな煮込み料理。チョルバはポルクの他に、チョルバ・デ・プイなど、いろんな具材を用いる。友子の母親の得意料理で、直哉の好物でもあった。それを聞いた友子は、いつの日からか自分の料理のレパートリーに加えた。
米国で生まれた友子だが、母親の記憶は無い。母親の名はエヴァ・メチニコフ。赤ん坊だった友子を残して亡くなっている。
エヴァはプリンストン大学の学生だった。在学中に直哉と結婚。そして、友子を出産した。しかし。幸せな時間は長く続かなかった。
2001年。政府機関への就職を希望していた彼女は、インターンシップに励んでいた。その日、朝から出向いたのは、バージニア州のアーリントンにある米国国防総省ペンタゴン。9月11日のことである。ニューヨーク世界貿易センタービルの映像に世界が驚愕する中。午前9時38分、アメリカン航空77便がペンタゴンに激突した。
エヴァは行方不明となった。そして、数か月後。長期にわたる残骸からの遺体捜索で見つかったのは、一本の歯だけだった。直哉は失意の中、友子を連れて帰国する。
その後は直哉の実家に身を寄せた。海外での仕事を続けた直哉に代わり、友子の面倒をみてくれたのは祖父と祖母だった。そして、直哉が危機管理コンサルタント会社を立ち上げたことを機に、父と娘の二人暮らしが始まった。
《ピンポ~ン!》歯切れのよい音が響く。
再び一目散で玄関へ駆け寄った友子。気兼ねなくドアロックを外し、躊躇うことなく飛び出した。
「こら、友子!」
直哉の叫びが、空しくリビングに響いた。