10.疑惑
昼時に比べると、官庁街の人通りはまばらとなっていた。
街路樹が立ち並ぶ大通り。ビルが連なる片隅に小さなコインパーキングがあった。車道を横断してきた男が、その一画へと向かう。アルミ製のアタッシュケースを手にしていた。一番奥に停めてあった白のパジェロロング。近づいた男は、躊躇することなく助手席のドアを開けた。
「――どうだった?」
運転席にいたのは直哉だった。待ち兼ねたように、乗り込んできた熊田に問い掛けた。
「話、聞けましたよ。あの写真を見せたらね……もちろんオフレコですが」
アタッシュケースを足元に置くと、熊田は弾んだ息を整えながら言った。
昨日、喫茶“いろは”を後にした二人は、それぞれまる一日を情報収集に費やしていた。
「正直、驚いていましたね。奴もこんなかたちで横槍が入るとは思わなかったようです。ま、こちらとしても偶然の産物なんですけどね」
熊田は満足げに口元を緩ませながら、親指を立てて見せる。しかし、直哉はそれを軽く受け流す。
「相手は制服組だよな?」
「ええ……」
いつも通り、直哉の薄い反応。肩透かしを食らった熊田は少し不満そうだ。気を取り直したようにして続ける。
「少し前から情報交換してるんですよ。背広組と違って現場を良く知ってるし、海保内でもそれなりに顔が効く奴です」
「……信用できるのか?」
頸を傾げる直哉。
「大丈夫ですよ、保証します。タクトレで知り合ったんですよ、アリゾナの」
「アリゾナ……お前の同僚だったスティーブのところ?」
「ええ」
「あんな田舎に日本人が来るとは珍しいな」
「いやいや、最近はネットのホームページや動画投稿で宣伝に力入れてますからね。もう立派なビジネスマンですよ」
「……なるほど」
二人は苦笑した。
直哉はPMCを辞めてからも、必要なトレーニングは続けていた。暫らく休養していた熊田も、既に復帰している。昔のようにはいかないだろうが、それなりのレベルは維持しているつもりだ。お互い米国系のPMCで働いていたこともあり、定期的に渡米して、それぞれ馴染みのトレーナーのところで訓練を受けている。
米国には様々な訓練施設があり、専門トレーナーからタクティカルトレーニングが受けられる。内容は武道的な護身術から、実弾を使っての本格的な射撃訓練までと幅広い。一般人に加え、現役の警察官など執行機関の勤め人も、スキルアップの為に利用している。最近では日本人の姿を見かけることも珍しくない。
「……で?」
「ええ、最初は身分を伏せてましたけど、親しくなったら海保の保安官だと明かしてくれました」熊田は自分のネタ元を自慢するように胸を張った。「それで今回の件ですが、やはりSSTと行動を共にしていたのはSEALですね。彼の口からそう聞きました」
直哉の表情が曇る。
「やけに、あっさり認めたな」
「ええ。しかも、PSI臨検の共同訓練ということでした」
熊田も声のトーンを落とし、複雑な表情をした。この展開は何処か違和感がある。言葉にせずとも二人の考えは共通していた。眉間に皺を寄せる直哉。
「……それ、本当か?」
「そうですよね……で、いろいろ揺さぶりは掛けてみたんですが、奴が嘘を言っているようには思えないんですよね」肩をすぼめて見せる熊田。「事後報道した経緯も、一部のマスコミに訓練の事がリークしてしまった為だと言ってました」
「一部のマスコミとは?」
「さあ、そこまでは……」頸を振る熊田。「マスコミに必要以上に詮索されて、SEAL参加が表沙汰になることを防ぎたかったようです」
「お前がマスコミに流すとは思ってないわけだ?」
意味ありげにニヤつく直哉。照れ笑いする熊田。
「はは。信用されてるって訳ではないですが、お互いのスタンスを尊重する間柄になってますね。俺が事を面倒臭くするなんて、奴は思ってませんよ。実際しないですし」
「なるほど……で、“あきつしま”投入については?」
そう訊きながら、バックミラーとサイドミラーを一瞥する直哉。時折、そうしてしまうのは職業病みたいなものだろう。熊田もつられるように周囲に目を走らせた。
「それも訊きましたよ。確かに“あきつしま”を尖閣から離すことのリスクはあるけど、重要な訓練に最新鋭の巡視船参加は当然と言ってました。尖閣警備は他でカバーできるともね」
「なるほど……筋は通った話だな」
「ええ」
直哉はハンドルに腕を乗せたまま、視線を落とす。そして、独り言のように呟いた。
「非公開で行った訓練が、一部のマスコミに漏れてしまった……それが、SSTとSEALの合同訓練だった為、海保は先手を打ち訓練を公開するに至った……マスコミは、それを鵜吞みにして報道した……結果、SEAL参加は公になっていない」
じっと、その様子を窺う熊田。直哉がブツブツ言う時は、次の一手が出る兆候だったりするからだ。直哉は自分の頭を掻き、熊田を一瞥した。
「確かにSEALとの合同訓練となれば、いろんな意味でネタにされやすい。海自とは一線を画す海保が……つまり軍隊ではない警察的な組織が、米海軍の特殊部隊と仲よく訓練していれば気に障る連中もいるだろうし、隣国への刺激材料ともなりかねないのは確かだ」
「……でも、納得していない?」
「ああ、そうだ」
「……ですよね」
熊田は気付いていた。話の流れはイマイチなのに、直哉の表情に余裕があることを。ため息をつき、半眼になる熊田。直哉の顔をじっと見詰めると、その口角が上がった。
「こっちも仕入れた情報がある」
「……やっぱり」熊田は納得して肩を落とした。「で、何ですか? それ」呆れたように訊き返した。
「訓練で使われた貨物船だよ」ここが要だと言わんばかりに、人差し指を立てる直哉。「それが、大連から川崎に向かっていた船だったんだよ」
「つまり?」
「経緯は分からんが、実際に運航していた貨物船を使ったんだ」
「まさか?」
訝しむ熊田に、眉尻をぴくりと上げて見せる直哉。
「それが本当なんだな。船名はグリーンアロー。エチオピア船籍の中型貨物船だ。ちゃんと積み荷があって、あの後に川崎港に入港している」
「積み荷は?」
「機械部品だった。税関で確認した」
「運航していた貨物船を使ってPSI臨検訓練ですか?」
「ああ」
「普通、そういった訓練なら。巡視船を使うかチャーター船でしょ。それも、中国の港を出た船に訓練とはいえ臨検? しかも、PSI」
「そう、兵器密輸捜索の訓練を中国の港を出港してきた船に行なったわけだ」
「喧嘩、売ってますね?」
「そうだろ? だけど変じゃないか?」
熊田は僅かに黙考してから直哉を一瞥した。
「……なるほど、中国が反応していない」
「そうだ。いろいろ情報を集めてはみたが、これに関して共産党のスポークスマンの発言や機関紙などの記事は一切ない」
「変ですね……というか面白い」
「だろ?」
「でも、単に向こうが、それに気付いていないだけでは?」
「そんな訳ないだろ。中国の国家安全部のやり方知ってるだろ?」
「取り敢えず、何でもかんでも収集するってやつですね」
「そうだ、それをコツコツ分析する。地味だが諜報活動では基本とされる手法だ。中国は特にその分野に長けている。あのニュースに関心を持たないはずないだろう。そして、攻めどころがあれば過敏に反応してプロパガンダに利用する」
「……ですね」
熊田は車の天井を仰いだが、直哉は話を続けた。
「俺はあれが訓練じゃなく、報道も意図的なものだと考えてる」
「ええっ!?」あっさり出た結論に驚き、躰を起こした熊田。「……それって、海保の奴が嘘をついているってことですか?」
「いや。ただ、そういう説明を受けているだけだろう。それを、そのままお前に伝えたに過ぎない。真相はもっと深いところにあるってことだよ」
熊田が頸を傾げる。
「……つまり?」
「あれは何か別のオぺレーションで、報道はそれを伝えるメッセージだ」
「メッセージ? ……でも、SSTとSEALで何をやらかしたっていうんですか?」
「それは分からん。だが、中国が反応していないことを考えると、向こうには都合の悪いことなんだろうよ、きっと」
「……」
直哉の言葉の意味を咀嚼するように黙考した熊田が呟く。
「本当に兵器積んでたとか……それか、その疑いがあったとか」
「いや、それはない。アフリカや中東行の船だったら分かるけど川崎だぜ。積み荷も全部降ろしているしな」
「そうですか」
熊田は肩を落としながらも続けた。
「……貨物船の乗務員に当たってみたらどうです?」
渋い顔になる直哉。
「確かに、そうなんだが……早々に荷物を積み替えて、さっき川崎を出港しちまった」
「行き先は?」
「エジプト」
「……それは、何ともなりませんね……じゃあ、どうします?」
熊田は口を尖らせたが、直哉は未だ楽観的な素振りを見せる。それには理由があった。
「まあ、慌てるなクマ。実はもう一つネタがある」
「何です? 何です?」
直哉の切り返しに、目を輝かせる熊田。
「今回の訓練に関して、政府内の調整役は何処だったと思う?」
唐突な質問に、熊田は眉間に皺を寄せた。
「米海軍絡みだから、防衛省? ……それとも、政府間の繋ぎで外務省? いやいや、表向きは海保のSSTだけの訓練だから国交省ですかね」
直哉はそのすべてに頸をふり、一呼吸おいて言った。
「内調だよ、内調」
「えっ! 内閣情報調査室ですか?」
「そうだ、閣内のぶら下がりをやってる記者から仕入れたネタだ。訓練の経緯を聞いた中で、ぽろっと漏らしたらしい」
「マジですか? ……って、そんなコネもあるんですか?」
その答えに驚くだけでなく、直哉の人脈の広さにも改めて舌を巻いた熊田。しかし、直哉は涼しい顔を崩さない。
「……で、聞いたそいつも疑問に思ったみたいで、情報貰おうと連絡したのはこっちなんだが、逆にそのことでアドバイスを求められたよ。内調って、そんな仕事するのかってね」
それには直哉も同感だった。半信半疑といってもいい。
内閣情報調査室は内閣直属の情報収集機関である。当初、日本のCIAを目指して創設されたが、縦割り行政の体質を崩すことが出来ず、実態は警察庁の出向機関と化していたはずだ。目指していた対外的な諜報機関としての役割とは程遠い、与党の選挙対策の情報収集などが仕事となっていた。その意味でいえば、警察庁の公安の方が、よほど諜報機関らしい仕事をしている。
だが、現在の内調職員を調べてみて驚いた。その中に、直哉が知っている名前を見付けたのだ。偶然とはいえ、過去の記憶を掘り起こすには十分だった。加えて、何か因縁のようなものも感じた。
「内調ですか……それで、どうするんです?」
熊田は心配そうに訊いたが、直哉は落ち着いて答えた。
「あてがある。先ずはアポを取ってからだがな」
「……はあ」
頸を傾げた熊田とは対照的に、直哉は気持ちを昂ぶらせているようだった。