9.宮殿
越谷が目を覚ましたのは、集中治療室のベッドだった。
バグダードの中心部にグリーンゾーンと呼ばれている区域がある。国の主権は連合国暫定当局からイラク暫定政権に委譲されたものの、未だにそこは米国を中心とする多国籍軍の統制下にあった。戦後の混乱が収まりきらない中での、言わば安全地帯である。その中にある米軍が所管する病院。越谷はそこで知ることになった。
越谷達を誘拐したのは、やはり旧イラク軍からなる武装グループだった。要求は自衛隊のサマーワからの撤退のみ。その為、日本政府は苦慮するばかりで交渉は膠着していたという。
気掛かりとなっていたPMCの警備員と運転手については、IED攻撃を受けた車両の乗員は全員死亡。応戦に出た警備員も同じだった。しかし、幸いにも越谷達の車を運転していたアラブ人は無事だった。実は武装グループに襲われたことを、真っ先に知らせたのは彼であった。
彼は同じように拘束された後、早くに解放されていた。街から離れた砂漠に放置された状態だったが、偶然にも通り掛かった車両に拾われる。米国系PMCの集団だったのだが、その中に日本人がいたらしく、事情を聞いた日本人は彼を連れてバグダードの日本大使館に駆け込んだのだ。
運転手とは再会してお互いの無事を喜び合った。彼がイラク警察や米軍ではなく、直接日本の大使館に行ったことは、その後の展開に少なからず役立った。この手の事案は初動が肝心だから、最初の情報を日本政府自身が握れたという点では意味がある。機転を利かせたPMCの日本人にも感謝したいところであったが、その人物の身元は分からなかった。彼らの中には身分を伏せている者も多くいる。深く調べることはしなかった。
今回の救出作戦についても聞いた。米特殊作戦軍の第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊と第160特殊作戦航空連隊によって行われたものだった。前線の偵察任務中に捕虜となった、第一歩兵師団の兵士救出がその目的だった。
然るに何故、越谷達まで救出対象になったのかは不明なままだったが、その経緯については知らされなかった。しかも、日本政府は米国政府と調整の末、この事実の公表を伏せた。日本と米国どちらの思惑かは分からないが、政治的な配慮があったのは確かであろう。
故に越谷達は、表向き武装グループとの交渉の末、解放されたことになっていた。釈然としないところではあったが、国家間レベルでは良くあることである。越谷に不満は無かった。
かすり傷程度だった小川は早々と日本に帰国した。きっと家族に安堵の表情で迎えられていることであろう。越谷といえば、身動きが取れるようになってからも、イラクに留まっていた。日本に帰っても迎えてくれる家族がいないこともあるが、やり残した仕事を整理しておきたかったのがその理由だ。
とはいえ、今回の件については諸事情あることから、駐在官出向の任期満了を待たずして帰国の辞令が降りていた。後任は既に到着している。心残りの復興支援活動も、外務省から人を出している米国防総省のイラク復興人道支援室が本格的に活動を始めていた。
その為、本国からは早急に出国するよう促されていたが、どうしても確かめておきたいことがあった。無論、あの女兵士についてだ。
関係者にいろいろ聞き回ったが、情報は少なかった。ただ、彼女が言った通り軍の人間ではなかった。はっきりしないが、パラミリタリーオペレーションの担当官であり、SOGあるいはSADと呼ばれる特殊実働部隊の一人と思われた。つまるところ、CIAの軍事工作員である。そうなると、当然そこで話は途切れた。国家が抱える工作員の情報など、簡単に手に入るはずもなかった。しかし、越谷が諦めることはなかった。
贅を尽くした。その言葉にふさわしい回廊を進んでいた。案内係の若い兵士は、片腕に補助杖を付けた越谷のぎこちない歩みに合わせている。
壮麗な石柱が並び、涸れてはいるが豪華な噴水とプールが中庭に望めた。大理石が敷かれた床。所々に置かれているアラブ調のソファーや調度品が目を引く。どれを取っても高価であることは容易に想像できた。所々空爆による破壊が見受けられたが、過去の艶やかな暮らしぶりが目に見えるようであった。
この宮殿もグリーンゾーンにあった。今は米軍の司令部として使われているが、元々はフセイン一族の邸宅である。
越谷が通されたのは廊下の突き当たりの部屋だった。装飾が施された重厚な扉の向こうで待っていたのは、救出作戦の時の指揮官だった。
作戦の時は暗くて顔が良く分からなかったが、こうして会ってみると、思っていたよりずっと若かった。階級は少佐と伺った。デスクに座っていた少佐は、立ち上がり越谷と握手を交わした。自然に越谷の足に目が向く。
「(調子は、どうかね?)」
「(もう、痛みはありません。大丈夫です。少し神経がやられているようで、後遺症が多少残るかも、と医者に脅されていますがね……)」
苦笑する越谷。少佐は笑った。
「(医者は大げさだからな……それでくらいで済んだことの方が驚きだよ。君は運がいい)」
「(まったくです)」
「(……もう日本に帰ったものと思っていたよ)」
少佐は越谷にソファーを勧めた。越谷は補助杖をソファーの肘掛に立て掛け、腰を下ろした。
「(はぁ。まあ、いろいろと仕事も残っていましたし……日本に帰ってもマスコミの餌食になるだけですから)」
「(そうだな、何処の国でも奴らは厄介な連中だ……しかし、家族は心配しているだろう?)」
「(いえ。私は孤児として育った身の上でして……それに独身ですから……)」
「(そうか、失礼……悪いことを訊いたな)」
「(いいえ、構いません)」
「(では、なおさら早く結婚することをお勧めするよ。家族というのは良いものだ)」
少佐はそう言うと、自分のデスクに置いてあったフォトプレートを見遣った。妻であろう女性と姉妹と思われる女の子に囲まれた少佐の姿があった。
「(3対1だからな。家ではいつも女共に負けっぱなしだ)」
目尻に皺を寄せる少佐。どんな時も変わらないであろうと思える砕けた口調は、人柄が見えるようだった。現場を知り尽くした頼れる上官。そんな印象だ。
「(……申し訳ない。私の話はどうでもいいな……で、用件は何だったかな?)」
越谷は苦笑した後、間を置いて言った。
「(帰国が決まりましたので、最後に一度お礼をと思いまして)」
少佐は嫌味なく鼻で笑った。
「(律儀だな。日本人らしいが、そこまで気を使う必要は無い。あれが私達の仕事だからな。命令を受け実行した。ただ、それだけだ)」
「(……彼女も、ですか?)」
越谷が見据えて訊くと、少佐は少し驚いた表情をした。
「(あのオフィサーのことか?)」
「(ええ……未だバグダードに?)」
「(知らんよ。奴らは常に忙しく動き回っているからな……)」少佐はそこまで言うと、眉根をピクリとさせた。「(……彼女のことが聞きたいと?)」
「(ええ)」
「(何の為に?)」
「(ただの、興味本位です)」
越谷の眼をじっと見た少佐は鼻で笑った。
「(……よかろう。彼女に命を救われた君には知る権利があるかもな)」
少佐はソファーから身を乗り出すと顔を近づけた。
「(CIAとデルタの共同オペレーションは多々あるが、あの連中を個人的には好かんのだよ。強力な権限で現場を引っ掻き回したりすることもあるからな。だが、彼女は別だ。現場でのスキルも長けているが、それ以上に情報収集能力と判断力は抜きに出ている。CIA局内だけではなく、軍においてもそれなりの定評がある。なにより、現場の仲間から信頼されているのがいい……美人だし女神と呼んでいた若い兵士もいたな。まぁ、アタックするなら蜂の巣にされる覚悟が必要だろうがな……冗談だ)」
少佐はおどけた顔のあと、一転して越谷を見据えた。
「(話は戻すが、礼なら彼女に言うべきだ……まぁ、もう会うことは無いかもしれないがな)」
「(と、いいますと?)」
表情を強張らせる少佐。少し間を空けて続けた。
「(いいか、ここからはオフレコだぞ)」
「(……ええ、分かりました)」
聞き入る越谷。
「(当初、あのオペレーションに君達の救出は含まれていなかったのだよ)」
「……」
いきなりの核心に迫る話。越谷は固唾を呑んだ。
「(彼女は米陸軍の捕虜を調査する過程で、偶然君達を見付けたのだろう。彼女は上層部に君達の救出を掛け合った)」
黙ったままの越谷に少佐は続けた。
「(君達の場合、奴らの要求は自衛隊の撤退だった。その話は聞いただろう?)」
「(ええ)」
「(だが、実際のところ最終的には身代金の要求に落ち着くだろうと、こちらは読んでいた。失礼だが、奴らが自衛隊の撤退にそれほど執着しているとは考え難かったからだ。故に、日本政府が交渉して解放されるのを待つべき、というのが意見の大半だった。しかし、それに異を唱えたのが彼女だった。仮にそうだとしても余計な資金を武装グループに与えることは問題だとね。加えて自衛隊を派遣したばかりの日本政府が、この事件で及び腰になることは米国政府にとっても良い事ではないと)」
少佐はニンマリと口角を上げた。
「(これは、私が聞いた話の一部に過ぎない。無論、この程度の進言で作戦が変更されるとは思えん。身をもって分かったと思うが、救出作戦は容易ではない。血税で育てた優秀な兵士達を危険に曝すには、それ相応の理由が必要だ。それが同盟国であってもだ。つまり、他に何かあったと考えるのが妥当だろう。どうやったのかは分からないが、彼女がネゴしてそれを通した)」
少佐はふうと鼻から息を吐いて腕組みをした。
「(結局のところ、君達の救出も加えたかたちで作戦が実行されたわけだ。作戦は成功し身代金が奴らの手に渡ることもなく、日本政府に大きな貸しを作ることもできた……上々だ)」
少佐はデスクに置かれた木箱から葉巻を取り出すと、葉巻の先でデスクを軽く叩いた。
「(しかし、驚いたのはその先だ。彼女がネゴしてまで、君たちを救出の対象に加えた理由。それは、あの地区の不安定な情勢にあったのだよ)」訴えるように越谷を一瞥した。「(ここ数日前からだが、より大規模な武装グループがあそこに流れ込み、今やイラク最大の激戦地帯となってしまった。空爆も始まっている)」
越谷が軽く頷く。
「(……つまり、それを読んでいて作戦を変更させたと?)」
「(多分な。まあ、少なくともその可能性を彼女は感じていたに違いない。日本政府に交渉を任せて、君達が取り残されていたら今頃どうなっていたかな……)」
「……」
「(まったく、クールな奴だろ)」
少佐は肩をすぼめて見せた。黙ったまま、その言葉を噛みしめる越谷。彼女が何故、外国人である我々に執着したのかは分からない。本当に国益の為なのかもしれないし、人道的なものかもしれない。ただ、理屈を抜きにして、その行動には敬服するばかりだ。熱いものが自然と込み上げる。
「(……ええ、命の恩人です)」
苦笑する少佐。背を向けながら葉巻に火を着けた。
「(……まぁ、機会があれば、伝えておきたいと思っていたんでな……ちょうど良かったよ)」
越谷は思いに耽るように宮殿の中庭を眺めた。