7月27日
「お母さん、行ってくるね」
陸は玄関で靴を履いている。
横には出かける準備ができている希美がいる。
美智子は海斗を抱っこしていた。
「海斗のことよろしくね」
「うん、愛花も希美も…気をつけて」
彰は会社に行っていたのでいないが、彰も美智子も今日の日のことは知っている。
当事者である陸と希美がけじめをつけに行くことは賛成とも反対とも言い難く、
本人の意思に任せることにしていた。
事故が起きたのは今から18年前の7月27日、午前8時40分。
ここから事故現場までは車で1時間15分ほどかかる。
今が7時15分なのでちょどいいくらいだろう。
希美が運転し、陸は助手席に乗っていた。
「愛花、本当に応援に行かなくていいの?」
「うん…これだけはどうしてもやらなきゃいけないことだから」
「なら何も言わない、わたしに言う権利がないのわかってるから」
陸も希美も無言のままだった。
1時間ほど走ると、懐かしい風景が視界に入ってきた。
18年ぶりに訪れた陸の地元、様変わりした部分もあるが当時のままのところもある。
「懐かしいね…」
「そうだね、わたしも久々にきたよ」
更に走ると、昔住んでいた我が家が見えてきた。
希美はそこで一度車を止める。
「調べたんだけど、今は違う人が住んでる…」
「そっか…そうだよね」
少しリフォームされたらしく、形が変わっていたが、間違いなく住んでいた家だった。
18年も前なのに、当時のことが昨日のことのように蘇ってくる。
厳しかった父、優しかった母、この2人はもうこの世にいない。
そしてこれからけじめをつける陸ももうこの世にはいない。
「お姉ちゃん、行こう」
「うん…」
希美が車を少し走らせると、あの交差点にたどり着いた。
8時35分、2人は車から降りて交差点の前に立った。
当時と同じように小学生たちが学校のプールへ向かっている。
何回か信号が変わり、時間はとうとう8時40分になった。
陸も希美も現場に向かって目をつぶって手を合わせた。
今、この瞬間から陸よりも愛花の人生のほうが長くなった。
ここから先は愛花だけしか知らない人生が始まる。
今度こそ…本当にお別れだよ、陸。
目を開けると、隣で希美が泣いていた。
「泣かないって決めてたのに…陸お兄ちゃん…」
希美の口から陸お兄ちゃんという言葉を聞いたのは8年ぶりだった。
実際に現場にきてしまうと、感情は抑えられなかった。
そんな希美の手を陸…いや、愛花はそっと繋いだ。
このあと、愛花と希美はもう一つの場所に向かった移動を始めた。
いよいよ決勝戦が始まる。
試合に集中しなければいけないのに隼人はスタンドが気になって仕方なかった。
試合前に行われる練習でもスタンドをチラチラみてしまう。
しかしそこに愛花の姿はなかった。
本当に…来ないんだな。
練習を終えベンチに戻ると、沙織がスタンドから話しかけてきた。
「隼人先輩、頑張ってください!」
「ああ!」
隼人は沙織に対して拳を上げた。
それを見ていた部員が話しかけてきた。
「おい、あの子って…」
「俺を応援してくれてるからさ」
「お前…佐久間は?」
「その話はしないでくれ、試合に…集中しよう」
俺には愛花がいなくても沙織が身近にいてくれるじゃないか…
薄情な愛花よりも、本当に側にいてくれる沙織が…
あれだけ好きだったはずの愛花への気持ちが薄れていくのを隼人は感じていた。
愛花と希美が向かった先は墓地だった。
ここには陸の両親が眠っている。
愛花がここを訪れるのも8年ぶりだった。
もっと早くきたかったが、彰や美智子に気を使って来ることができなかった場所だ。
希美と一緒にお線香をあげて手を合わせた。
父さん、母さん、ずっとこなくてごめんなさい。
忘れていたわけじゃないんだよ。
それどころか1日も忘れたことはないんだからね。
でも父さんと母さんならわかってくれるよね、
もうわたしは陸じゃないから…ここに来ちゃうといつまでも陸のままだから…
今日、陸よりも愛花の人生のほうが長くなりました。
わたしがここまで成長できたのは、今のお父さんやお母さん以外に、
わたしに女になってでも生きてほしいと願った父さんと母さんのおかげです。
今までも、これからも愛花として精いっぱい生きていきます。
父さんや母さんが恥ずかしくない立派な人生を歩みます。
だから、遠くからいつまでも見守っていてください。
さよなら…父さん、母さん。
陸は目を開け、希美を見た。
「お姉ちゃん、行こう」
「いいの?」
「うん…きっと、ちゃんと成長した姿を見て喜んでくれたと思う」
「そうだね…おじさん、おばさん、愛花は立派に成長していますよ。
わたしの自慢の妹なんですよ」
希美は空に向かってそう言った。
2人でもう一度墓石に会釈をして車に戻った。
これで陸としてのけじめは終わった。
あとは愛花としてやることをするだけだ。
「お姉ちゃん、球場に急いで向かって!」
「了解…ちょっと運転荒くなるよ」
そう言って希美は車を急発進させた。