田中陸から佐久間愛花
どれくらいの時間が経ったかわからないが、部屋をノックする音が聞こえた。
返事をしないと「陸君、入るよ」という男性の声が聞こえたので顔を出すと
中年の男性と女性、それと希美が入ってきた。
男性と女性に見覚えがある、知っている顔より老けていたが、それは希美の両親だった。
佐久間彰と美智子、家族ぐるみで仲が良かったのでよく2人のことは知っている。
「まずお礼をいいたい、本当にありがとう」
彰と美智子は深々とお辞儀してきた。
恐らく希美を助けてくれたことを言っているんだろう。
「やめてください、そんなこと」
そんなことされても意味がない、もう男の陸は存在しないのだ。
だが、よく見ると彰も美智子も泣いている。
ふて腐れ、自暴自棄のようになっている自分が嫌になりそうだ。
そのとき、陸の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。
「そういえば…俺の両親は?」
普通に考えれば、佐久間家よりも自分の両親のほうが最初に来るはずだ。
ところが今のところ、陸の両親は現れていない。
3人は目を伏せて困ったような顔をしていた。
「何か…あったんですか?」
意を決したように陸の目を見て彰が言ってきた。
「ただでさえショックだと思うが、大事な話だ。
いずれ話さなければいけないことだから今話そう。
陸君の両親は3年前に交通事故で…」
「そ、そんな…」
「陸君の様子を見に来る途中で…残念だが事実だ」
11年という長い年月は、陸にとって地獄だった。
「もう嫌だ…なんなんだよ一体!俺はなんのために生きてるんだよ!
女の子供になって、両親は死んで…こんななら死んでればよかった」
「バカなことを言うんじゃない!」
彰は真面目に怒鳴った。
その声に押されて陸は黙ってしまった。
「どんな形であれ、陸君は生きているんだ。
実験の途中で女にしかならないって発覚したとき、
田中さんは女でもいいから生き返らせてくれって泣いて頼んだんだぞ。
それだけ陸君が大事だったんだ。
それは私たちも同じだ、希美を助けた陸君が死ぬなんて耐えられなかった。
たとえ性別が変わっても、子供になっても生きてほしかったんだ」
「おじさん…」
「私たちのためとは言わない、亡くなった両親のために生きるんだ」
「そうよ、陸君。お母さん最後になんて言ったと思う?
陸をお願いって言って息を引き取ったのよ」
「おばさん…」
亡くなった両親の気持ちが痛いほど伝わってきて涙が溢れた。
どんな姿になっても生きてほしいと願う両親、
娘を助けた陸に死なないでほしいと願う彰と美智子、
自分を助けてくれた希美、全員が生きてほしいと思っているのだ。
「わかりました…親のためにも、おじさんやおばさん、希美ちゃんのためにも…
この身体で生きていきます」
「陸君、ありがとう!」
陸は女の子として生きていく決心をした。
どんな姿でも自分は自分なんだ、亡くなった両親もそれを望んでいた。
それだけ愛情を注いでくれたならば子として精いっぱい応えるしかない。
女として生きるならば、まず最初に知っておかなければいけないことがある。
陸は手すりを握ってゆっくりと起き上った。
「だ、大丈夫?」
心配そうに3人が聞いてきた。
10年間寝ていた身体なので力が入らずフラフラするが、そこは男だったからか
気合でなんとか上半身を起こした。
するとピンクのパジャマを着ていて髪はすごく長かった。
恐らく腰くらいまであるだろう。
「ふう…」
今度はベッドから足を下ろして立ち上がろうとしたが、さすがに無理があったらしく
よろけてしまった。
「危ない!」
とっさに希美が身体を支えてくれたので倒れることはなかった。
支えてくれている希美は今の陸よりも大きく、大人の女性だった。
自分よりも小さかった希美と逆転しているのが子供だというのをより実感させる。
支えられながら立ち上がると、奥にある鏡に向かった。
鏡に映っているのは、どっからどう見ても小学生の女の子だった。
ずっと寝ていたせいか華奢で弱々しい。
よく顔を見るとどことなく陸の面影がある。
まさに陸が女の子だったらという顔つきだ。
「これが今の俺か…」
「うん…ベッドに戻ろう」
再びベッドに戻ると、今度は寝ずに腰をかけて座った。
「今は体力がないから、しばらくはリハビリ生活になるって先生が言ってたよ。
私も協力するから頑張ろう」
「ありがとう、希美ちゃん」
座っていると腰のあたりがゴワゴワすることに気付いた。
どうやらオムツを履いているらしい。
ずっと寝ていたのだから仕方ないが情けなく感じた。
早くトイレくらいは自分でいけるようにならないとな…
そんなことを思った。
リハビリを始めてから一週間が経った。
ようやく一人で歩けるくらいまで回復し、一安心だ。
「今日は一人でトイレ行ってみようか」
女の看護師さんがニコニコしながら言ってきた。
オムツを変えてもらい、アソコを拭かれる屈辱からやっと解放されると思った陸は
「はい」と返事をし、トイレに向かった。
無意識に男子トイレに入ろうとしてしまい、看護師さんに「そっちじゃないでしょ」
と言われ、慌てて女子トイレに入った。
男子用の青と違い、ピンクの壁、個室しかない構造、
ここに入る自分が嫌でも女というのを実感してしまう。
個室に入ろうとすると、看護師さんが紙袋を渡してきた。
「これは?」
「中にパンツが入ってるから、終わったらオムツをこの紙袋に入れて
そのパンツを履いてね」
そう、これをクリアすればオムツじゃなくなるのだ。
それを受け取って個室に入った。
パジャマのズボンを下ろし、オムツを取るとツルツルの股間が
視界に入ってきたので急いで腰を下ろした。
ゆっくり力を抜くとチョロチョロと尿が出始める。
下に落ちていく感覚が男と違い、慣れるまで違和感が続きそうだと思った。
終わってからトイレットペーパーで拭き、紙袋からパンツを出した。
もちろん女児用だ。
白の無地だが、フロント部分にはリボンが付いている。
渋々それを履き、ズボンを上げてオムツを紙袋にしまってから個室を出た。
「ちゃんと出来た?」
「なんとか…」
「偉い偉い」
看護師さんは陸の頭を撫でてきた。
完全に子供扱いだ。
実際に子供だから仕方ないが、こういうのは意外と屈辱でもある。
気を取り直して病室に戻ると希美が来ていた。
「一人で歩けるようになったんだね」
「まあね、食事もお粥になったし。早く退院しないと」
このあと希美とたわいもない話をしたが、
陸が知っている希美とはまるで別人のようだった。
事故にあったときの陸は18歳、そのとき希美は11歳だった。
それから11年、希美は22歳で、あの頃の陸より4つも年上になっている。
話し方も考え方も全然大人だった。
顔はどことなく当時の面影がなくもないが、身体は完全に違う。
胸も大きく、色気のある身体つきだ。
見ていて思わずドキッとしてしまいそうなくらいだった。
ちなみに今の陸の身体は子供なので胸などほとんどない、
そこが男の頃を思わせる、せめてもの救いだった。
「そういえば希美ちゃんって今は大学生?」
「そうだよ、今年卒業だけどね」
「そっか…」
本来なら自分も大学を出て社会人としてバリバリ働いていたんだろうな。
そんなことを考えていたら彰と美智子もやってきた。
「リハビリ、順調そうだね」
「はい、なんとか」
「このままリハビリを続ければ、あと2週間くらいで退院できるって言ってたわよ」
「ホントですか?」
あと2週間で退院できる、そのとき疑問が浮かんだ。
退院したらどうやって生活するんだろうか?
両親はいない、親戚もこれといって引き取ってくれそうな人は思い浮かばない、
子供だから自立することできない。
そんなことを考えていたら、それを悟ったのか、彰が言ってきた。
「退院後のことなんだけど、陸君、君はうちの養女になったんだ」
「え?」
「施設という話もあったんだが、君は希美の命の恩人だ。
それにお母さんがお願いと言っていた、そのことを考えて君を立派に育てるのが
私たちにできる最大限の恩返しになると思ってね。
勝手に決めてすまない」
「そう…なんですか」
現状を考えるとそれが一番なのかもしれない。
施設よりは事情を知っている佐久間家のほうが安心できるし、
彰も美智子も希美も気の知れた人たちだ。
それに希美を助けたうんぬんという話があるにしても
こんな状態の自分を親身になって助けてくれている。
陸は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「そう言ってくれてよかったよ」
3人は安心したように喜んでいた。
「じゃあ退院したら、おじさんの家に住むんですね」
「そんな他人行儀はよしてくれ、私たちはもう家族なんだ」
「家族…」
「敬語で話さなくていいし、陸君さえよければ私たちをお父さん、お母さんと
呼んで構わない。あ、それは田中さんに失礼だったな」
そんなことを言いながら彰は気まずそうに頭をかいていた。
しかしこれは、彰なりの早く溶け込めるための気遣いなんだろうと思った。
「いずれは…そう呼ばせてもらいます」
その言葉を聞いて彰と美智子は嬉しそうに笑顔になった。
「あとは陸君の名前なんだけどね…陸って男の名前でしょ、
だから相談して名前を決めさせてもらったの」
そうだ、今後女として生きていくのに「陸」という名前はおかしいことになる。
恐る恐るどんな名前か聞いてみた。
すると、その問いには希美が答えた。
「愛花、佐久間愛花が陸お兄ちゃんの名前だよ」
「愛花…」
いかにも女の子の名前だ、
どうせなら優とか男でも女でもいる名前にしてくれればいいのに。
「やっぱり嫌だった?」
悲しそうに希美が聞いてきた。
その表情を見て嫌だとは言えず「そんなことないよ」と言ってしまった。
「よかった、もうこれからは陸お兄ちゃんじゃなくて愛花って呼ぶね。
名前に慣れてもらわないといけないし」
希美に呼び捨てで呼ばれることになったが、あまり違和感はなかった。
実際、今の希美は当時の陸より年上だし完全に大人だ。
このときを境に彰と美智子も「愛花」と呼ぶようになり、
陸は「佐久間愛花」として第2の人生を歩むことになった。