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最後の魔法~婚約破棄された転生聖女、消える前に竜人騎士に溺愛されて「幸せになります」(元社畜25歳)~

作者: uta
掲載日:2026/08/12

「聖女シエル、お前との婚約を破棄する。役目は終わった。もう用済みだ」


雪が舞う、魔導列車の終着駅舎。


蒸気を吐く車体を背に、王太子アルフレッドは私を見下ろして、そう言い放った。


金髪碧眼の端整な顔に、勝ち誇った笑み。その隣には、栗毛をふわふわと巻いた自称・第二聖女リゼットが、勝者のように身を寄せている。


魔王を封じる大魔法を使い切ったのは、昨夜のことだ。


国は救われた。世界は明日を迎える。


そのお祝いが、これ。


「……かしこまりました。では、失礼いたします」


私は、深々と一礼した。


喚きもせず、涙も見せず。ただ淡々と、書類を提出して退社する社員のように。


駅舎がざわりと揺れた。


「な、なぜ怒らない……?」


「あの女、正気なのか」


周囲の騎士たちが、戸惑いの声を漏らす。


そりゃそうだ。命がけで魔王を封じた聖女が、婚約破棄されて微笑んで頭を下げているのだから。


でも、私だけが知っている。


大魔法の代償――私の“存在”は今日、雪が溶けるように世界から消える。


この駅舎にいる全員が、私という人間がいたことすら、綺麗さっぱり忘れる。


つまり、この婚約破棄は。


(あーあ。これで残業代も出ないまま消えるのか。社畜の最期らしいや)


前世で二十五年生きた記憶が、皮肉っぽく囁く。


ブラック企業で終電まで働き、過労で倒れて目を覚ましたら、この世界の聖女だった。


それからも、搾取される日々は変わらなかった。むしろ悪化した。


殿下、あなたは自分が“誰を”捨てたのか、明日には思い出せなくなる。


それこそが、あなたへの最大の置き土産になるとも知らずに。


「聞いたか、リゼット。地味な聖女はさっさと去るそうだ」


「まあ、殿下ったら。そんな地味な人、殿下にはふさわしくありませんもの」


甘ったるい声が、雪の中に溶けていく。


私はもう一度だけ頭を下げ、踵を返した。


コートの裾を雪が濡らす。冷たい。けれど、この冷たさすら、あと数時間の命だ。


(さて。消える前に、やることがある)


静かに、私は歩き出した。



召喚されたのは、二年前の冬だった。


光る魔法陣の中心に、寝間着姿で放り出された私を見て、宰相は言った。


「おお、聖女様! どうか我が国を魔王からお救いください!」


――残業代は出ますか。有給は。


聞く前に、私は聖女の任務に放り込まれていた。


召喚直後。聖女認定。魔物の討伐。結界の維持。そして魔王討伐。


休みなんて、一日もなかった。


熱を出しても「聖女様のお役目です」と祭壇に立たされ、魔力が尽きても「もう少しです」と搾り取られた。


そして、討伐の功績は。


すべて、アルフレッドが横取りした。


「魔王を封じたのは、我が王太子アルフレッド殿下である!」


民衆の歓声の中、彼は私の隣で手を振っていた。私の名前は、公式記録から丁寧に削除されていた。


王国財の横領も、私は帳簿の隅で気づいていた。


前世で散々、経理の不正を見抜いてきた社畜の目は、ごまかせない。


(……ま、いいや。どうせ私は消える)


そう思っていた。昨日までは。


でも。


消えるとしても。


「せめて、置き土産くらいは残していこうかな」


私は誰もいない路地裏で、指先に魔力を灯した。


この世界の魔法には“時限顕現”という技術がある。


条件が揃った時に、仕込んだものが自動で現れる魔法。


前世で言うなら、予約送信メールみたいなものだ。


私は、握りしめていた古い魔導契約書を広げた。


アルフレッドの功績偽造の記録。王国財横領の帳簿の写し。リゼットが聖女の力をほとんど持たないという鑑定結果。


すべて、証拠は揃えてある。


社畜時代、上司の不正の証拠を握っておくのは基本中の基本だった。


「私が消えても……証拠だけは、残る」


王城の記録保管室。大聖堂の祭壇。貴族議会の議事場。


三箇所に、時限魔法で証拠を仕込む。


発動条件は――『真の聖女が世界から消滅した瞬間』。


つまり、私が消えたその時、すべてが白日の下に晒される。


怒鳴りもしない。復讐の宣言もしない。


ただ、事実だけが、冷徹に彼らを裁く。


静かな、断罪。


最後の魔法を仕込み終えると、私の指先が、うっすらと透け始めていた。


(……もう、時間か)


雪が、いっそう強く降り始めた。



最後に立ち寄ったのは、あの雪の駅舎だった。


人はもう、いない。魔導列車も出てしまった。


静かな終着駅に、雪だけが降り積もる。


消えるなら、ここがいい。


なんとなく、そう思った。前世でも、私は駅で終電を待つ時間だけが、少しだけ自由だった。


ベンチに腰かけようとして――私は、足を止めた。


駅舎の隅。膝を抱えて座り込む、巨大な影がある。


二メートル近い巨躯。黒い鱗の紋様。傷だらけの、寡黙な竜人。


竜人騎士団長、ガルグ。


戦場では魔物を一撃で屠る、冷酷無比の武人。


そのはずの男が――震えていた。


雪の中で、肩を、小刻みに。


「……ガルグ、団長?」


私が声をかけると、彼はばっと顔を上げた。


金色の竪瞳が、まっすぐ私を捉える。


その瞳が、みるみる潤んでいく。


「シエル……。まだ、いたか」


「え……?」


私は凍りついた。


名前を。呼ばれた。


私の存在は、もう世界から消え始めている。アルフレッドも、リゼットも、宰相も――今頃みんな、私という人間がいたことを忘れているはずなのに。


「な、なぜ……。なぜあなたは、私を覚えているの?」


震える声で問うと、ガルグはゆっくりと立ち上がった。


巨躯を折り曲げるようにして、私の前に片膝をつく。


傷だらけの大きな手が、透け始めた私の手を、そっと包んだ。


温かい。


消えかけの私にも、その熱が伝わってくる。


「竜人の魂は……一度契った恩を、忘れない」


彼の金色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


人目もはばからず、雪の中で、この巨大な武人が泣いている。


「魔王討伐のあの日。お前は、崩れる岩の下から俺を救った。覚えているか。お前は自分の魔力を削って、俺の命を繋いだ」


「そんな……ただ、目の前で人が死にそうだったから」


「社畜の、なんとかというやつか。よくわからんが」


涙声のくせに、律儀に私の口癖を覚えている。


「あの時。俺とお前の魂は、契約を交わした。俺はそれを、忘れられない。忘れたくない」


ガルグは、私の手を強く握った。


「シエル。お前が消えるなら」


声が、震える。


「――俺も、一緒に消える」


雪が、静かに降り積もる。


世界でただ一人、私を覚えている男が、そこにいた。



私の体が、雪の色に溶けていく。


指先から、腕から。透明になっていく。


痛みはない。ただ、ふわりと軽くなっていく。世界から、そっと離れていく感覚。


「や、やめろ、シエル! 消えるな!」


ガルグが叫んだ。私の肩を掴もうとした手が、すり抜ける。


「無理よ、団長。これは……代償だから」


私は、笑ってみせた。


「大魔法を使えば、術者は世界から溶けて忘れられる。私はそれを知っていて、魔王を封じた。……後悔はないよ」


嘘だ。少しはある。


もう少し、生きてみたかった。今度こそ、まともに休んでみたかった。


でも、それを言葉にしたら、この優しい竜人がもっと泣いてしまう。


「だから、団長。あなたは覚えていてくれるだけで――」


「黙れ」


ガルグが、吠えた。


彼の胸の奥、黒い鱗の下で、金色の光が脈打ち始める。


「竜人の中でも、俺の血には古代竜の因子が眠っている。“存在を繋ぎとめる”力だ」


「ガルグ、まさか――」


「あの日交わした魂の契約。それを、今こそ使う」


彼は自らの胸に爪を突き立て、光を引きずり出した。


古代竜の因子。彼の“存在”そのものの、核となる力。


それを、消えかけた私の胸へと――押し込んだ。


「な……!?」


雪解けのように消えていく私の輪郭に、金色の光が割り込んでいく。


忘却の魔法。存在を消し去る代償。


その流れに、ガルグの因子が食い込み、せき止める。


「これは、俺の恩返しだ。お前が繋いだ俺の命を、今度は俺が、お前に繋ぎ返す」


「そんなことをしたら、あなたが――!」


「魂の契約は、二人で分け合う。お前一人が消えるより、二人で半分ずつ背負うほうが、軽い」


溶けかけていた私の指先に、色が戻っていく。


透明だった手のひらが、また肌の温度を取り戻す。


「あ……」


私は、消えなかった。


駅舎に、留まった。


ガルグの大きな体が、ふらりと傾ぐ。因子を分け与えた反動で、彼もまた消えかけている。けれど――消えない。二人で、半分ずつ。


互いの存在を、繋ぎ合って。


「シエル」


ガルグが、掠れた声で言った。


「お前は、まだ、ここにいる」


涙が、また一粒。今度は、雪の上で溶けずに、竜鱗の上で光っていた。



同じ頃、王城の記録保管室。


文官見習いのノエルは、いつものようにインクで指を汚しながら、古い書類の整理をしていた。


と。


棚の一角が、ふいに金色に光り始めた。


「な、なんだ……!?」


何もなかった空間に、突然、大量の書類が顕現する。


時限魔法。発動条件――『真の聖女が世界から消滅した瞬間』。


だがノエルは、その条件が満たされたことを知らない。


誰も、知らない。“真の聖女”が誰だったのか、もう誰も覚えていないのだから。


ノエルは、震える手で書類を手に取った。


「これは……功績偽造の記録? ……王太子殿下が、魔王討伐の手柄を……横取り?」


めくる。めくる。


横領の帳簿。一円単位まで、いや一枚の金貨まで、正確に追跡された不正の証拠。


第二聖女リゼットの鑑定結果――『聖女適性、ほぼ皆無』。


すべてが、あまりにも完璧に整理されていた。


ノエルは、息を呑んだ。


「……なんて、綺麗な記録なんだ」


数字の一つ一つに、几帳面な注釈。証拠の裏取り。時系列の整理。閲覧者が一目で理解できるよう配慮された構成。


これは、誰かの仕事だ。


途方もなく誠実で、途方もなく綿密な、誰かの。


「こんなにも正確な記録を残せる人が……いたはずなんだ」


だが、名前がない。


どれだけ書類をめくっても、この記録を残した人物の名が、思い出せない。


頭の中に、ぽっかりと穴が空いているように。


名も、顔も、思い出せない。


ただ、その“仕事”だけが、目の前に確かに残っている。


ノエルの頬を、なぜか涙が伝った。


「……あなたは、誰だったんですか」


名前も知らない。それでも彼は、この見えない誰かに、生まれて初めての、心からの敬意を抱いた。


誠実に働き、誰にも認められず、それでも証拠だけは残していった――透明な誰か。


「この記録、必ず。必ず、届けます」


ノエルは書類を抱え、保管室を飛び出した。


王城の廊下を、灯りが次々と灯っていくように――大聖堂で、貴族議会で、同じ金色の光が、真実を顕現させていた。



「これはどういうことだ! 説明しろ!」


貴族議会は、大混乱に陥っていた。


議場の中央に浮かび上がった、金色の記録。


そこには、アルフレッドの罪状が余すところなく記されていた。


魔王討伐の功績偽造。王国財の大規模横領。第二聖女リゼットの、聖女詐称。


「で、殿下……これは……」


宰相が、青ざめた顔で書類を掲げる。


アルフレッドは、玉座の前で立ち尽くしていた。


「な、何かの間違いだ! 私はそんなことは……いや、確かに討伐は私が……いや、私は……」


言葉が、続かない。


記憶が、混乱している。


魔王を封じたのは、自分だったはずだ。


そう思い込んでいた。誰もが、そう思っていた。


だが、証拠は語る。


『魔王を封じたのは、真の聖女である』と。


その聖女の名前だけが、どこにもない。


「誰だ……真の聖女とは、誰のことだ!?」


アルフレッドは叫んだ。


誰も、答えられなかった。


議場にいる全員が、真の聖女の存在を忘れていたから。


「殿下! そんな聖女、いませんでしたわ! ね、そうでしょう!?」


リゼットが甲高い声で叫ぶ。だが彼女の鑑定結果もまた、金色の光の中で暴かれていた。


『聖女適性、ほぼ皆無』。


「偽物……だと?」


「では、これまでの祭祀はすべて……」


「二人がかりで、国を欺いていたのか!」


貴族たちの怒号が、二人に降り注ぐ。


その日のうちに、王太子アルフレッドと第二聖女リゼットは失脚した。


断頭台送りは、時間の問題だった。


だが――本当に恐ろしいのは、そこではない。


彼らは、最後まで理解できないのだ。


自分が“誰の”功績を奪ったのか。


自分が“誰を”捨てたのか。


自分が“誰を”忘れたのか。


復讐の相手の顔すら、思い出せない。


『失ってから気づく』ならば、まだ救いがある。


彼らは、失ったことにすら、気づけない。


証拠だけが、冷徹に。感情のかけらもなく。


二人を、静かに裁いていく。


これが、消えた聖女の残した――最後の置き土産。


静かな、静かな、断罪だった。



雪が、溶け始めていた。


終着駅舎の屋根から、雫がぽたりぽたりと落ちる。


春が、すぐそこまで来ている。


私は、ベンチに座っていた。


消えなかった手を、じっと見つめる。


「……本当に、いるんだ。私」


隣には、ガルグ。


古代竜の因子を分け与えた反動で、彼の巨躯も少しやつれていたけれど、金色の瞳はもう泣いていない。


穏やかに、私を見ている。


「私、あなたのおかげで“いる”ことになったみたい」


私は、笑った。


世界は、私を忘れた。


王も、貴族も、民も、誰も私を覚えていない。


私が国を救ったことも、魔王を封じたことも、もう誰の記憶にも残らない。


でも。


たった一人だけ。


この雪の駅舎に、私を覚えている人がいる。


「なあ、シエル」


ガルグが、ぶっきらぼうに言った。相変わらず言葉は少ないのに、その手はそっと私の手を包んでいる。


「これからは」


少し、詰まる。


この武人は、戦場では一言も迷わないくせに、こういう時だけ、いつも声を震わせる。


「……これからは、俺の隣で、幸せになれ」


私は、目を見開いた。


そして、ふっと肩の力が抜けた。


前世で二十五年。この世界で二年。


休みもなく、認められもせず、搾取され続けた。


「幸せになれ」なんて言葉、誰にも言われたことがなかった。


「……いいの? 私、社畜根性が抜けなくて、たぶん休むのが下手だよ」


「知っている。だから、俺が隣で見ている。お前が働きすぎたら、担いで連れ帰る」


「それ、拉致じゃない?」


「竜人流の、溺愛だ」


真顔で言うものだから、私は思わず吹き出した。


笑うのなんて、いつぶりだろう。


雪が、すっかり溶けていく。


ベンチの足元、溶けた雪の下から――


小さな、白い花が、一輪。


芽吹いていた。


凍てついた冬を越えて、誰にも気づかれずに、それでも確かに、そこで咲こうとしている。


まるで、私みたいだ。


「ガルグ。この花、なんて名前?」


「……知らん。だが、これから二人で、名付ければいい」


私は、うなずいた。


世界に忘れられた聖女と、涙もろい竜人騎士。


互いだけを覚えている、たった二人の世界。


それでも――ここから、始めればいい。


溶けた雪の下から芽吹いた花が、春の光に、静かに揺れた。



季節は、めぐる。


王都のはずれ、辺境の小さな村。


記録係のノエルは、休暇を使って、ある“調査”を続けていた。


名も知らぬ、透明な聖女の足跡を追って。


彼女が残した記録は、あまりにも完璧だった。


だからこそノエルは、確信していた。


――この人は、確かに存在した。


村の外れの小さな家に、若い夫婦が暮らしているという噂を、彼は聞いた。


巨躯の竜人の男と、白金の髪の女。


畑を耕し、時々、村の子供たちに読み書きを教えているらしい。


その女は、なぜか帳簿づけがやたらと得意なのだと。


ノエルは、その家の方角を見つめた。


なぜだろう。


胸の奥が、温かくなる。


名前も知らないのに、会ったこともないのに、無性に、行ってみたくなる。


「……いつか、必ず。あなたに、会いに行きます」


ノエルは微笑んで、また記録帳を開いた。


忘れられた聖女の物語を、彼だけは、少しずつ書き記していく。


――一方、その頃。


幽閉塔の窓辺で。


かつて王太子だった男、アルフレッドが、雪空を見上げていた。


地位も、名誉も、婚約者も、すべてを失った。


なぜ失脚したのか、細部はもう思い出せない。


ただ、時折。


ふとした瞬間に、胸の奥がざわつく。


何か。何か、とても大切なものを、自分は失った気がする。


「……誰か」


アルフレッドは、呟いた。


「……誰か、大切な人が、いた気がする」


名前も、顔も、思い出せない。


ただ、深い深い後悔の断片だけが、雪のように、静かに胸に降り積もる。


それが誰だったのか、彼は永遠に知ることはない。


雪が、降っていた。


かつて、一人の聖女が消えた、あの冬のように。


だが今、その聖女は――


世界の片隅で、たった一人に覚えられ、たった一人を愛し、確かに“いる”ことになっていた。


溶けた雪の下で芽吹いた花のように。


忘れられても、消えなかった、一つの命として。

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