最後の魔法~婚約破棄された転生聖女、消える前に竜人騎士に溺愛されて「幸せになります」(元社畜25歳)~
「聖女シエル、お前との婚約を破棄する。役目は終わった。もう用済みだ」
雪が舞う、魔導列車の終着駅舎。
蒸気を吐く車体を背に、王太子アルフレッドは私を見下ろして、そう言い放った。
金髪碧眼の端整な顔に、勝ち誇った笑み。その隣には、栗毛をふわふわと巻いた自称・第二聖女リゼットが、勝者のように身を寄せている。
魔王を封じる大魔法を使い切ったのは、昨夜のことだ。
国は救われた。世界は明日を迎える。
そのお祝いが、これ。
「……かしこまりました。では、失礼いたします」
私は、深々と一礼した。
喚きもせず、涙も見せず。ただ淡々と、書類を提出して退社する社員のように。
駅舎がざわりと揺れた。
「な、なぜ怒らない……?」
「あの女、正気なのか」
周囲の騎士たちが、戸惑いの声を漏らす。
そりゃそうだ。命がけで魔王を封じた聖女が、婚約破棄されて微笑んで頭を下げているのだから。
でも、私だけが知っている。
大魔法の代償――私の“存在”は今日、雪が溶けるように世界から消える。
この駅舎にいる全員が、私という人間がいたことすら、綺麗さっぱり忘れる。
つまり、この婚約破棄は。
(あーあ。これで残業代も出ないまま消えるのか。社畜の最期らしいや)
前世で二十五年生きた記憶が、皮肉っぽく囁く。
ブラック企業で終電まで働き、過労で倒れて目を覚ましたら、この世界の聖女だった。
それからも、搾取される日々は変わらなかった。むしろ悪化した。
殿下、あなたは自分が“誰を”捨てたのか、明日には思い出せなくなる。
それこそが、あなたへの最大の置き土産になるとも知らずに。
「聞いたか、リゼット。地味な聖女はさっさと去るそうだ」
「まあ、殿下ったら。そんな地味な人、殿下にはふさわしくありませんもの」
甘ったるい声が、雪の中に溶けていく。
私はもう一度だけ頭を下げ、踵を返した。
コートの裾を雪が濡らす。冷たい。けれど、この冷たさすら、あと数時間の命だ。
(さて。消える前に、やることがある)
静かに、私は歩き出した。
◆
召喚されたのは、二年前の冬だった。
光る魔法陣の中心に、寝間着姿で放り出された私を見て、宰相は言った。
「おお、聖女様! どうか我が国を魔王からお救いください!」
――残業代は出ますか。有給は。
聞く前に、私は聖女の任務に放り込まれていた。
召喚直後。聖女認定。魔物の討伐。結界の維持。そして魔王討伐。
休みなんて、一日もなかった。
熱を出しても「聖女様のお役目です」と祭壇に立たされ、魔力が尽きても「もう少しです」と搾り取られた。
そして、討伐の功績は。
すべて、アルフレッドが横取りした。
「魔王を封じたのは、我が王太子アルフレッド殿下である!」
民衆の歓声の中、彼は私の隣で手を振っていた。私の名前は、公式記録から丁寧に削除されていた。
王国財の横領も、私は帳簿の隅で気づいていた。
前世で散々、経理の不正を見抜いてきた社畜の目は、ごまかせない。
(……ま、いいや。どうせ私は消える)
そう思っていた。昨日までは。
でも。
消えるとしても。
「せめて、置き土産くらいは残していこうかな」
私は誰もいない路地裏で、指先に魔力を灯した。
この世界の魔法には“時限顕現”という技術がある。
条件が揃った時に、仕込んだものが自動で現れる魔法。
前世で言うなら、予約送信メールみたいなものだ。
私は、握りしめていた古い魔導契約書を広げた。
アルフレッドの功績偽造の記録。王国財横領の帳簿の写し。リゼットが聖女の力をほとんど持たないという鑑定結果。
すべて、証拠は揃えてある。
社畜時代、上司の不正の証拠を握っておくのは基本中の基本だった。
「私が消えても……証拠だけは、残る」
王城の記録保管室。大聖堂の祭壇。貴族議会の議事場。
三箇所に、時限魔法で証拠を仕込む。
発動条件は――『真の聖女が世界から消滅した瞬間』。
つまり、私が消えたその時、すべてが白日の下に晒される。
怒鳴りもしない。復讐の宣言もしない。
ただ、事実だけが、冷徹に彼らを裁く。
静かな、断罪。
最後の魔法を仕込み終えると、私の指先が、うっすらと透け始めていた。
(……もう、時間か)
雪が、いっそう強く降り始めた。
◆
最後に立ち寄ったのは、あの雪の駅舎だった。
人はもう、いない。魔導列車も出てしまった。
静かな終着駅に、雪だけが降り積もる。
消えるなら、ここがいい。
なんとなく、そう思った。前世でも、私は駅で終電を待つ時間だけが、少しだけ自由だった。
ベンチに腰かけようとして――私は、足を止めた。
駅舎の隅。膝を抱えて座り込む、巨大な影がある。
二メートル近い巨躯。黒い鱗の紋様。傷だらけの、寡黙な竜人。
竜人騎士団長、ガルグ。
戦場では魔物を一撃で屠る、冷酷無比の武人。
そのはずの男が――震えていた。
雪の中で、肩を、小刻みに。
「……ガルグ、団長?」
私が声をかけると、彼はばっと顔を上げた。
金色の竪瞳が、まっすぐ私を捉える。
その瞳が、みるみる潤んでいく。
「シエル……。まだ、いたか」
「え……?」
私は凍りついた。
名前を。呼ばれた。
私の存在は、もう世界から消え始めている。アルフレッドも、リゼットも、宰相も――今頃みんな、私という人間がいたことを忘れているはずなのに。
「な、なぜ……。なぜあなたは、私を覚えているの?」
震える声で問うと、ガルグはゆっくりと立ち上がった。
巨躯を折り曲げるようにして、私の前に片膝をつく。
傷だらけの大きな手が、透け始めた私の手を、そっと包んだ。
温かい。
消えかけの私にも、その熱が伝わってくる。
「竜人の魂は……一度契った恩を、忘れない」
彼の金色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
人目もはばからず、雪の中で、この巨大な武人が泣いている。
「魔王討伐のあの日。お前は、崩れる岩の下から俺を救った。覚えているか。お前は自分の魔力を削って、俺の命を繋いだ」
「そんな……ただ、目の前で人が死にそうだったから」
「社畜の、なんとかというやつか。よくわからんが」
涙声のくせに、律儀に私の口癖を覚えている。
「あの時。俺とお前の魂は、契約を交わした。俺はそれを、忘れられない。忘れたくない」
ガルグは、私の手を強く握った。
「シエル。お前が消えるなら」
声が、震える。
「――俺も、一緒に消える」
雪が、静かに降り積もる。
世界でただ一人、私を覚えている男が、そこにいた。
◆
私の体が、雪の色に溶けていく。
指先から、腕から。透明になっていく。
痛みはない。ただ、ふわりと軽くなっていく。世界から、そっと離れていく感覚。
「や、やめろ、シエル! 消えるな!」
ガルグが叫んだ。私の肩を掴もうとした手が、すり抜ける。
「無理よ、団長。これは……代償だから」
私は、笑ってみせた。
「大魔法を使えば、術者は世界から溶けて忘れられる。私はそれを知っていて、魔王を封じた。……後悔はないよ」
嘘だ。少しはある。
もう少し、生きてみたかった。今度こそ、まともに休んでみたかった。
でも、それを言葉にしたら、この優しい竜人がもっと泣いてしまう。
「だから、団長。あなたは覚えていてくれるだけで――」
「黙れ」
ガルグが、吠えた。
彼の胸の奥、黒い鱗の下で、金色の光が脈打ち始める。
「竜人の中でも、俺の血には古代竜の因子が眠っている。“存在を繋ぎとめる”力だ」
「ガルグ、まさか――」
「あの日交わした魂の契約。それを、今こそ使う」
彼は自らの胸に爪を突き立て、光を引きずり出した。
古代竜の因子。彼の“存在”そのものの、核となる力。
それを、消えかけた私の胸へと――押し込んだ。
「な……!?」
雪解けのように消えていく私の輪郭に、金色の光が割り込んでいく。
忘却の魔法。存在を消し去る代償。
その流れに、ガルグの因子が食い込み、せき止める。
「これは、俺の恩返しだ。お前が繋いだ俺の命を、今度は俺が、お前に繋ぎ返す」
「そんなことをしたら、あなたが――!」
「魂の契約は、二人で分け合う。お前一人が消えるより、二人で半分ずつ背負うほうが、軽い」
溶けかけていた私の指先に、色が戻っていく。
透明だった手のひらが、また肌の温度を取り戻す。
「あ……」
私は、消えなかった。
駅舎に、留まった。
ガルグの大きな体が、ふらりと傾ぐ。因子を分け与えた反動で、彼もまた消えかけている。けれど――消えない。二人で、半分ずつ。
互いの存在を、繋ぎ合って。
「シエル」
ガルグが、掠れた声で言った。
「お前は、まだ、ここにいる」
涙が、また一粒。今度は、雪の上で溶けずに、竜鱗の上で光っていた。
◆
同じ頃、王城の記録保管室。
文官見習いのノエルは、いつものようにインクで指を汚しながら、古い書類の整理をしていた。
と。
棚の一角が、ふいに金色に光り始めた。
「な、なんだ……!?」
何もなかった空間に、突然、大量の書類が顕現する。
時限魔法。発動条件――『真の聖女が世界から消滅した瞬間』。
だがノエルは、その条件が満たされたことを知らない。
誰も、知らない。“真の聖女”が誰だったのか、もう誰も覚えていないのだから。
ノエルは、震える手で書類を手に取った。
「これは……功績偽造の記録? ……王太子殿下が、魔王討伐の手柄を……横取り?」
めくる。めくる。
横領の帳簿。一円単位まで、いや一枚の金貨まで、正確に追跡された不正の証拠。
第二聖女リゼットの鑑定結果――『聖女適性、ほぼ皆無』。
すべてが、あまりにも完璧に整理されていた。
ノエルは、息を呑んだ。
「……なんて、綺麗な記録なんだ」
数字の一つ一つに、几帳面な注釈。証拠の裏取り。時系列の整理。閲覧者が一目で理解できるよう配慮された構成。
これは、誰かの仕事だ。
途方もなく誠実で、途方もなく綿密な、誰かの。
「こんなにも正確な記録を残せる人が……いたはずなんだ」
だが、名前がない。
どれだけ書類をめくっても、この記録を残した人物の名が、思い出せない。
頭の中に、ぽっかりと穴が空いているように。
名も、顔も、思い出せない。
ただ、その“仕事”だけが、目の前に確かに残っている。
ノエルの頬を、なぜか涙が伝った。
「……あなたは、誰だったんですか」
名前も知らない。それでも彼は、この見えない誰かに、生まれて初めての、心からの敬意を抱いた。
誠実に働き、誰にも認められず、それでも証拠だけは残していった――透明な誰か。
「この記録、必ず。必ず、届けます」
ノエルは書類を抱え、保管室を飛び出した。
王城の廊下を、灯りが次々と灯っていくように――大聖堂で、貴族議会で、同じ金色の光が、真実を顕現させていた。
◆
「これはどういうことだ! 説明しろ!」
貴族議会は、大混乱に陥っていた。
議場の中央に浮かび上がった、金色の記録。
そこには、アルフレッドの罪状が余すところなく記されていた。
魔王討伐の功績偽造。王国財の大規模横領。第二聖女リゼットの、聖女詐称。
「で、殿下……これは……」
宰相が、青ざめた顔で書類を掲げる。
アルフレッドは、玉座の前で立ち尽くしていた。
「な、何かの間違いだ! 私はそんなことは……いや、確かに討伐は私が……いや、私は……」
言葉が、続かない。
記憶が、混乱している。
魔王を封じたのは、自分だったはずだ。
そう思い込んでいた。誰もが、そう思っていた。
だが、証拠は語る。
『魔王を封じたのは、真の聖女である』と。
その聖女の名前だけが、どこにもない。
「誰だ……真の聖女とは、誰のことだ!?」
アルフレッドは叫んだ。
誰も、答えられなかった。
議場にいる全員が、真の聖女の存在を忘れていたから。
「殿下! そんな聖女、いませんでしたわ! ね、そうでしょう!?」
リゼットが甲高い声で叫ぶ。だが彼女の鑑定結果もまた、金色の光の中で暴かれていた。
『聖女適性、ほぼ皆無』。
「偽物……だと?」
「では、これまでの祭祀はすべて……」
「二人がかりで、国を欺いていたのか!」
貴族たちの怒号が、二人に降り注ぐ。
その日のうちに、王太子アルフレッドと第二聖女リゼットは失脚した。
断頭台送りは、時間の問題だった。
だが――本当に恐ろしいのは、そこではない。
彼らは、最後まで理解できないのだ。
自分が“誰の”功績を奪ったのか。
自分が“誰を”捨てたのか。
自分が“誰を”忘れたのか。
復讐の相手の顔すら、思い出せない。
『失ってから気づく』ならば、まだ救いがある。
彼らは、失ったことにすら、気づけない。
証拠だけが、冷徹に。感情のかけらもなく。
二人を、静かに裁いていく。
これが、消えた聖女の残した――最後の置き土産。
静かな、静かな、断罪だった。
◆
雪が、溶け始めていた。
終着駅舎の屋根から、雫がぽたりぽたりと落ちる。
春が、すぐそこまで来ている。
私は、ベンチに座っていた。
消えなかった手を、じっと見つめる。
「……本当に、いるんだ。私」
隣には、ガルグ。
古代竜の因子を分け与えた反動で、彼の巨躯も少しやつれていたけれど、金色の瞳はもう泣いていない。
穏やかに、私を見ている。
「私、あなたのおかげで“いる”ことになったみたい」
私は、笑った。
世界は、私を忘れた。
王も、貴族も、民も、誰も私を覚えていない。
私が国を救ったことも、魔王を封じたことも、もう誰の記憶にも残らない。
でも。
たった一人だけ。
この雪の駅舎に、私を覚えている人がいる。
「なあ、シエル」
ガルグが、ぶっきらぼうに言った。相変わらず言葉は少ないのに、その手はそっと私の手を包んでいる。
「これからは」
少し、詰まる。
この武人は、戦場では一言も迷わないくせに、こういう時だけ、いつも声を震わせる。
「……これからは、俺の隣で、幸せになれ」
私は、目を見開いた。
そして、ふっと肩の力が抜けた。
前世で二十五年。この世界で二年。
休みもなく、認められもせず、搾取され続けた。
「幸せになれ」なんて言葉、誰にも言われたことがなかった。
「……いいの? 私、社畜根性が抜けなくて、たぶん休むのが下手だよ」
「知っている。だから、俺が隣で見ている。お前が働きすぎたら、担いで連れ帰る」
「それ、拉致じゃない?」
「竜人流の、溺愛だ」
真顔で言うものだから、私は思わず吹き出した。
笑うのなんて、いつぶりだろう。
雪が、すっかり溶けていく。
ベンチの足元、溶けた雪の下から――
小さな、白い花が、一輪。
芽吹いていた。
凍てついた冬を越えて、誰にも気づかれずに、それでも確かに、そこで咲こうとしている。
まるで、私みたいだ。
「ガルグ。この花、なんて名前?」
「……知らん。だが、これから二人で、名付ければいい」
私は、うなずいた。
世界に忘れられた聖女と、涙もろい竜人騎士。
互いだけを覚えている、たった二人の世界。
それでも――ここから、始めればいい。
溶けた雪の下から芽吹いた花が、春の光に、静かに揺れた。
◆
季節は、めぐる。
王都のはずれ、辺境の小さな村。
記録係のノエルは、休暇を使って、ある“調査”を続けていた。
名も知らぬ、透明な聖女の足跡を追って。
彼女が残した記録は、あまりにも完璧だった。
だからこそノエルは、確信していた。
――この人は、確かに存在した。
村の外れの小さな家に、若い夫婦が暮らしているという噂を、彼は聞いた。
巨躯の竜人の男と、白金の髪の女。
畑を耕し、時々、村の子供たちに読み書きを教えているらしい。
その女は、なぜか帳簿づけがやたらと得意なのだと。
ノエルは、その家の方角を見つめた。
なぜだろう。
胸の奥が、温かくなる。
名前も知らないのに、会ったこともないのに、無性に、行ってみたくなる。
「……いつか、必ず。あなたに、会いに行きます」
ノエルは微笑んで、また記録帳を開いた。
忘れられた聖女の物語を、彼だけは、少しずつ書き記していく。
――一方、その頃。
幽閉塔の窓辺で。
かつて王太子だった男、アルフレッドが、雪空を見上げていた。
地位も、名誉も、婚約者も、すべてを失った。
なぜ失脚したのか、細部はもう思い出せない。
ただ、時折。
ふとした瞬間に、胸の奥がざわつく。
何か。何か、とても大切なものを、自分は失った気がする。
「……誰か」
アルフレッドは、呟いた。
「……誰か、大切な人が、いた気がする」
名前も、顔も、思い出せない。
ただ、深い深い後悔の断片だけが、雪のように、静かに胸に降り積もる。
それが誰だったのか、彼は永遠に知ることはない。
雪が、降っていた。
かつて、一人の聖女が消えた、あの冬のように。
だが今、その聖女は――
世界の片隅で、たった一人に覚えられ、たった一人を愛し、確かに“いる”ことになっていた。
溶けた雪の下で芽吹いた花のように。
忘れられても、消えなかった、一つの命として。




