19 ファンに向けて
結斗くんの誕生日で僕達の恋人記念日に、僕は結斗くんから大切な相談を受けた。結斗くんは今後、日本での俳優活動ではなく、海外を拠点とし、舞台を中心に活動をしていきたいという話だった。ノヴァリアでの経験が結斗くんの価値観を大きく変え、これからのことを深く考えるようになったそうだ。
そして嬉しいのは、その未来予想図の中に、僕の存在はなくてはならないものだということ。海外移住の夢の中で、僕も一緒というのが当然のように描かれていて、だからずっと悩み抜いた末に、僕に相談してくれた。僕には反対する意思なんて全くなく、思い切り背中を押した。
エリオさんに相談したところ、ノヴァリアの大規模な劇団の舞台オーディションがあるから、受けてみたらどうかと提案されたらしい。そのことも含め、事務所に相談をすると言っていた。人気絶頂の所属俳優が、退所の相談をするのだから、すんなり事が運ぶとは思わなかった。
結斗くんのことを一番近くで見守ってきた伊藤さんを挟み、関係者と何度も協議した。日本の事務所に所属したままでの海外活動などの提案もあったらしい。たしかにそのほうがバックアップがしっかりとしていて、仕事もやりやすいだろう。
けど結斗くんの、『事務所の力ではなく、自由に葛城結斗個人として活動をしていきたい』という意思は変わらなかった。
僕に相談をしてくれた日から、一ヶ月ほどたったある日、結斗くんから報告があった。やっと事務所との話し合いがついたという連絡だった。
『結論から言うと、二年後に今の事務所を辞めることになった』
「二年後? ちょっと先だけど許可が降りたんだね」
『色々と提案されたけど、俺の中ではノヴァリアで舞台に立ちたいという思いが強くて』
「オーディションの話はしたの?」
『それに関しては、今回は見送ることになったよ』
「そうなんだ……」
僕は結斗くんの話を聞いて、わかりやすく声のトーンを落としてしまった。だって、事務所からオーディションNGが出たのに、事務所を辞める話が出てるのなら、半ば喧嘩別れみたいになってしまったんじゃないかって思ったんだ。
『心配しなくても大丈夫。ちゃんと円満退社だよ。事務所も納得してくれた』
「それじゃあ、なんで……」
『退所までの二年間で、今までお世話になった事務所や仕事先への恩返しと、ファンのみんなへの感謝イベントとか、色々と計画を立てていくんだ』
「感謝イベント?」
『実際に会える場所を設けたり、ファンクラブ会員向けに記念品の配布をしたり』
「すごい! みんな喜ぶね」
僕は、いつも感動を共有している、結斗くんファンの喜ぶ顔を思い描いた。……とは言っても、実際に会ったことはないんだけど。でもきっと、みんなすごく喜ぶと思う。
「でも、結斗くんが事務所を辞めると発表したら、みんなどんな反応をするんだろう……」
『そうだな。日本でずっと応援してくれていたファンは、俺の裏切りと感じるかもしれない』
「裏切りなんて……!」
『でも実際そうだろ? 海外に拠点を移すということは、日本での仕事は激減する。もしかしたら、しばらくはないかもしれない』
結斗くんが望んでいることは、結局そういうことなんだろう。応援してくれているファンに感謝の気持ちはあるけど、プライベートのない生活に疲れてしまったというのも本音だと思う。
『それでも俺は、決めた道を進む。何年か先に、この決断は間違っていなかったんだと思えるように。そして、周りからもそう思ってもらえるように、前を向いて進んでいくよ。……そのためには、隣に渚が並んで歩いてくれないと意味がないんだ』
「結斗くん……」
ショックを受けるかもしれないファンには申し訳ないけど、僕は正直言って結斗くんのこの決断は嬉しかった。僕が隣に並んで歩いていいんだと思えること、そして何より、なかなか会えない今と違って、もっと一緒にいる時間が増えるだろうから。
我ながら自分勝手だなと思うけど、自分の欲を後回しにしてきた僕にとって、この感情もある意味大きな進歩なんだと思った。
◇
それから一年をかけて、結斗くんは公式発表に向けて準備を始めた。まずは仕事をセーブすること。短期の仕事はある程度は受けられるけど、長期の仕事を新規に受けることはなかった。この一年間は、お世話になった事務所への恩返しと、応援してくれているファンに感謝を伝えるための準備期間だ。
実際に会えるファンとのイベントや、オンラインイベント、ファンクラブ会員に向けた記念グッズの配布など。企画から始まり、会場を抑えたり一年かけて準備を進めていく。そして、ちょうど一年後の三月。
「いよいよだな」
「本当に、これで良かったの?」
「俺なりにしっかりと考え抜いた決断だよ。迷いはない」
「うん……」
まだどこか本当に良かったの? という思いが残ってしまっていた僕は、正直な気持ちをぶつけてみた。けど結斗くんはひとつの迷いもなく、真っ直ぐな瞳で僕に答えを返してくれた。その言葉を聞いて、僕は静かにうなずくことしかできなかった。結斗くんの様子を見れば、迷いがなにもないのは僕にだってわかる。
先日、先行でファンクラブ会員向けに、お知らせの手紙を日付指定で発送した。その手紙は今日会員向けに届けられ、同日結斗くんから直接言葉を届けるための、生配信が予定されている。ファンクラブ会員あての手紙と、一般向けのリリースで十分じゃないかという話だったけど、結斗くんのどうしてもという願いを、事務所が叶えてくれた形だ。
「さすがに、生配信で気持ちを伝えるのは緊張するけどな」
「そうだね。でも、ファンの子達は嬉しいと思う。事務所から届いた手紙に、動揺している子たちもいっぱいいるから……」
「渚が、ファンの代表として、色々とアドバイスをくれたおかげだ」
「ううん、結斗くんがファンの子達を大切に思ってくれているからだよ」
結斗くんが、今までどれだけファンのことを大切にしてきてくれたか知っているから、最後までその姿勢は貫き通してほしいと僕は思う。
その日の夜、事務所の一室で、結斗くんは伊藤さんを始め事務所の人達に見守られながら、生配信で事務所の退所を報告した。
予想はしていたけど、大きなニュースとして取り上げられた。人気絶頂の俳優が突然の事務所退所、活動拠点を海外に移すとの報告は、驚きを隠せなかったと思う。事務所との確執があったとか、根も葉もないことが記事にされた。
けれど、そんな釣りのような記事に惑わされることなく、結斗くんを全力で応援するというファンの声が多かったのは嬉しかった。ファンを大切にしている事務所と結斗くんだし、ファンクラブ会員あてに先に手紙でお知らせしたというのも大きかったと思う。ファンは大切にされていると感じたんじゃないかな。
僕も事前に知っていたとは言え、やっぱり実際に手元に手紙が届くと、色々と複雑な思いが交差した。海外を拠点にしても変わらず応援をしたい気持ち、日本で今までのように活躍してほしい気持ち、これからも自分は一緒にいられるという優越感、その一方でファンの子に申し訳ないと言う罪悪感。
でも僕にできることは、なるべくたくさんのファンの子達に、結斗くんの気持ちが届くようにサポートしていくことだけ。結斗くんのファンで良かったと、心の底から思ってもらえるように。