邂逅
「…………ん」
重い瞼を開いてふと時計を確認すると、札幌駅を出発して1時間が経過していた。僕は不覚にも眠りこけていたようだった。
今まで僕は列車問わず乗り物の中で船を漕いだことなど一度もない。隣に人がいるのなら不必要な神経や思考を使うはずであり、尚更のことである。一体どうしたことだろう。
ごしごしと目を擦って、とりあえず現在地を確認するために車窓を眺めようとして、窓枠のスペースに乗せられた赤い紙コップの存在に気づいた。
「……ホットコーヒー?」
僕は車内販売を頼んだ覚えはない、ということは……。
「もしかして、貴女が……?」
「はい。先ほどのお礼に、と思いまして」
「そうでしたか。てっきり――……」
「……てっきり?」
「……いえ、なんでもありません」
無自覚に僕はレム睡眠行動障害、あるいは夢遊病にかかっていたのかもしれない、と言っても、相手を面食らわせるだけだろう。
「では、ご厚意に感謝していただきます」
そして僕は必要以上に頭が冴えるコーヒーが、とにかく嫌いだ。本来なら香りすら嗅ぎたくないほどに忌諱する飲料だけれど、せっかくの彼女の好意を無下にするわけにもいかず、僕は覚悟を決め口をつける。
「……………………」
「お口に合いませんでしたか?」
「……いえ、少し驚いただけです。まさか、紅茶とは思わなかったので」
「コーヒーの方がよかったでしょうか?」
「……正直に言うと、紅茶でよかったです。ええ、ものすごく」
僕は大のコーヒー嫌いだけど、代わりに無類の紅茶好きである。同じカフェインを摂取しているはずなのに、何故か紅茶だけは味も香りも心が安らぐような心地がして、何杯でもいける口である。
まさか車内販売に紅茶があるとは思わなかったので、いい意味で裏切られた感じ。
それにしても、彼女は何故あえて紅茶を用意したのだろう。
同じような状況で、好みを知らない相手に対してコーヒーと紅茶のどちらを選択するかと問われたら、おそらくほとんどの人が迷わず前者を選ぶと思うんだけど。
まあ、今はどうでもいいや。
それにしても紅茶はやっぱりいいなあ……。
いやあ……。
いいですねえ。
「…………ぷふっ」
良質な茶葉の香りと味に僕がにホンワカしていると、急にお隣さんが吹き出した。
「……なにか?」
「い、いえ、ただの紅茶でそんなに喜ばれると思ってなくって……すみません……」
「ただの紅茶だなんてとんでもない。これは、FTGFOPグレードのダージリンで、最高級品の一つですよ。ちなみにFTGFOPとはファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコーの略でして――……あっ」
僕はつい紅茶についてのうんちくを熱く語ってしまっていた。紅茶によるカフェイン摂取は、良質なほど逆に僕の並列思考を鈍らせる傾向があり、うっかりそれを失念していた。
「失礼しました。今の発言は忘れてください」
「…………」
ああ、これは絶対引かれてるね。
彼女は不審そうに、僕の顔を無言で覗き込んできた。
好意的、とは到底言い難い表情。
何にしても覆水盆に返らず。あとは読書でもしながら残りの1時間半を物言わぬ貝になって消化するだけだ。
「……紅茶、ごちそうさまでした」
「…………」
相変わらず僕の顔を凝視したまま固まったままだけれど、別になんということもない。ただの隣り合った人として、各々車内での時間を過ごすのみ。
「……恋のバイブル……紅茶オタク……やっぱり……」
やっと喋ったかと思えば、なんなんだこの人。
それに、僕が寝てる間に読んでいた本の中身を勝手に探っていたとは……。
僕の知る限り、こんなデリカシーに欠けた人はあの――
「…………あれ?」
改めて彼女と目を見合わせると、なんとなく見覚えがあるという感じ。この人を知っているではという感じ。髪の長さ、言葉遣い、その二点を除けば、とある人物像が僕の記憶に一致するという感じ。
ひょっとするとそれは相手も感じていることなのか、彼女は相変わらずじっと僕の顔を見つめてきている。
そして、先にゴールに辿り着いたのは、彼女の方だった。
「……千明くん、だよね?」
「……そういう君は沙夜ちゃんか」
時間にルーズでデリカシーの欠けた隣席の彼女は、なんと僕の幼馴染みだった。
「ひどいんじゃない、一目見てわかってくれないなんて」
「お互い様でしょ。まあ綺麗になっちゃって」
「昔は綺麗じゃなかったと?」
「昔は可憐だったから」
「今は可憐じゃないのかしら」
「その倨傲な態度は憐れっぽいかなあ、大人として」
「……一本取られたということにしといてあげる。あらためて、久しぶりね」
「うん、久しぶり」
5年ぶりに再会した彼女――羽代沙夜は濡れ羽色の長い黒髪に、モデルさんのような切れ長の目をこしらえた、大層な美人になっていた。
「東京、どうだった? かゎぃぃギャル文字覚えた? パギャルムリウチしまくった?」
「……相変わらずプ○イボーイしか東京情報ないんだ、あの町」
「あの町にだって『SA○IO』くらい入ってきてるわよ。そんなリアリティのないことを言って」
「昔の君の口癖じゃない」
「そうだったかしら?」
「そうでした」
ご町内の話題といったらゲートボール・ロマンスがあるばかり。
東京情報といったらプレ○ボーイ一誌があるばかり。
無闇に真っ直ぐな道。
アホほどでっかい空。
こんなところに若者のギラついたあれやこれやを満足させるものなんてあるはずないわ、というのが5年前の彼女の口癖だった。
「それにしても奇跡みたいな確率よね。5年ぶりに再会したのが列車の中で、しかも席が隣同士だなんて」
「ほんと。乗り遅れなくてよかったね」
「……見てたの?」
「うん、バッチリ」
「それは見なかったことに――って、そういえば、さっき私がよろけそうになった時、助けてくれなかったわよね!?」
「間に合わなかったんだ」
「それは嘘!」
「ごめんね」
「心がこもってない!」
「相変わらず注文が多いなあ……」
このわがままな話の進め方が、何か変に懐かしかった。寒いところの人間てのは、急ぎ足で喋るものだから、北海道に帰ってきた、という感じがする。
僕は、ついさっきまで誰だか解ってすらいなかったというのに、もう5年前に戻ったような居心地のよさを感じていた。
「……まったく。奇跡的な再会を果たした幼馴染みが目の前で傷物になったらどうしてくれるのよ」
「それについては反省してる。次は上手くやるから許して」
「ん、よろしい」
沙夜ちゃんは昔からさっぱりした性格で、謝れば大抵のことは許してくれる。見た目は変わったけど、中身は全然変わってないようで安心した。
「……で、そろそろ本題に入るんだけど」
「これまでのは前置きにすぎない、と」
「当たり前よ! なんで5年間なにも音沙汰がなかったのよ! 『年に1回は帰るかも』って言ってたじゃない!」
「だから、『かも』って言ったじゃん……」
「千・明・く・ん・?」
「屁理屈でした。ごめんなさい」
「絶対に許さない」
そういって彼女は秀麗な面差しを冷たく研ぎ澄まし、路傍の石ころを見下ろすように僕を睨みつける。
ほんとに、変わって、ないよね……?




