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葛藤



ヴァイオリン、グァルネリ・デル・ジェス。


明確な意志に従って切り出され、厳密な計算を以て整然と構築されたこの人工物には二つ名がある。それが――


『イル・カノーネ』


19世紀を代表する天才ヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニが、その爆発的な音にちなんで、私の大砲(イル・カノーネ)と好んで呼び、終生愛用した名器である。


僕はこの音色に惚れ込み、世界一のヴァイオリニストを志した。

5歳の時だった。


そして何の因果か僕が10歳の時、3/4サイズのヴァイオリンから、大人用フルサイズのヴァイオリンに買い換えるタイミングで、このイル・カノーネがオークションに出品され、僕は、迷わず落札した。


当時、プロのヴァイオリニストとしてそれなりの名声を得ていたといえ、決して安い金額ではなかった。それでも、CDの売り上げやオリジナル楽曲の版権など、全財産を注ぎ込んでまで僕はイル・カノーネをこの手で弾きたかった。


――けれど。


その頃の僕は、すでに崩壊を始めていた。

並列思考の副作用が、僕の心を蝕んでいた。

あれだけ恋い焦がれていたイル・カノーネが、いつしか歌うことを拒否するようになった。

まるで僕の心を反映するかのように。


そしてある日――


『千明、音色は心を映す鏡なのよ』


沙夜ちゃんのその一言によって、僕はヴァイオリンそのものに対する心が完全に離れていたことを自覚し、弓を置いた。


イル・カノーネを手にして僅か2年足らずのことだった。











「…………っ」


ヴァイオリンケースの留め具を外そうとする僕の手が、言うことを利かない。


「ここまできて何だけど、別に無理しなくても……」


沙夜ちゃんは、僕の現状をすべてを理解した上で言った。


今の僕にとって、このケースの中身は、すでに役目を終えた廃墟なのかもしれない。ひと時栄華を誇り、そして一瞬のうちに見放された、在りし日の歌声の残滓を未練がましく漂わせたままの。


『1日弾かないと、周りから3日分遅れるのよ』


あの頃の彼女は、まさか自分の一言が、僕がヴァイオリンをやめる引き金になるとは思ってなくて、こんなことを言っていた。


――じゃあ、いまから3倍弾けば?


思考の大海から釣り上げたその小さな声は、果たして僕の本心だろうか。


いずれにせよ、あの頃にように弾いて、歌って……それで元の自分に戻れるというのであれば5倍でも10倍でも悪くはない。


「……大丈夫だよ、僕は」


僕はその小さな声に耳を傾けるように、そう答える。


ある日突然歌えなくなってしまった。

そう言ってこの道を離れていく歌手は少なくない。

けれどその中に、死ぬまで歌い続けると誓わなかった者は、きっといないと思う。


ほどほどに稼ぐか、名前を売って引退する。

そんな覚悟で歩める道ではないことは、誰よりも僕自身が解っている。


けれど、今夜だけでいい――


「ただいま、イル・カノーネ」


どうか僕の声に、応えてほしい。


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