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星空の演奏会




「沙夜ちゃんは何かリクエストとかある?」


手慣れた動作で弓に松ヤニを塗りながら、千明は私に訊ねた。


「特に希望はないかな。千明くんの好きな曲で」

「うーん、僕の好きな曲かあ……」


千明は悩みながらも、器用に弓を動かしながらもう片方の手でペグとアジャスターを回し、基準となる442ヘルツに調弦する。絶対音感と相対音感の両方がなければできない芸当だ。

やはりどれだけブランクがあっても、身体で覚えているのだろう。


私も趣味レベルでヴァイオリンは弾くけれど、やはり一つ一つの所作が、私と千明ではまるで違う。所詮プロとアマチュアの違いだと言われれば、それまでだけど。


「で、そろそろ標題は決まった?」

「まあね」

「ちなみになんて曲?」

「それは、聴いてからのお楽しみ、かな?」

「ふふっ、それはさっきの意趣返しのつもりなのかしら?」

「やられてばかりは性に合わないんでね」


そう言って千明はヴァイオリンを顎に乗せ、弓を構える。


私はそれ以上、何も言わなかった。

どんな曲でもいい。

千明がまた弾いてくれるのなら、ただそれだけでよかった。


そうして、星空の演奏会が幕を開ける。



「………………っ!」



千明が弓を動かした瞬間、私は声にならない声を上げ、全身から湧き上がる震えを抑えることができなかった。


弦を押さえる彼の指先に、まばゆいばかりの〝光〟が宿っていたから。



『Pachelbel - Canon in d』



かつて圧倒的な超絶技巧で一世を風靡した天才ヴァイオリニスト・東雲千明が選んだ曲。それは、卒業の定番ソング――パッヘルベルのカノンだった。


初級者向けの簡単な曲。だからこそ余計に、弾き手の腕が素直に表れる。


彼が一つ指を動かせば、弦の上を滑る弓が、絹の様な滑らかな音色を生み出す。

彼が一つ腕を動かせば、威厳のある力強い低音から、高貴で張りのある美しい高音を生み出す。


どうやったら、ひとつの音色にこれほどまでの深い感情を込められるのか。


まるで千明の放つ光に共鳴するようにして、ヴァイオリンが歌を歌っている。


6年の眠りから覚めたその腕と指先は、少しも色褪せることはなく、昔と変わらない旋律をこの星空の下で紡ぎ続ける。


「…………」


5年前、千明が東京に引っ越したあの夜。

見送った駅のホームで一人見上げた星空を思い出した。


星座の形はそのときと全く同じだった。

天球の中で輝くそれらは、プラネタリウムのように廻ってはいない。


それでも……。


もし私たちがこうして再会したことに『縁』があるのだとしたら。

めぐり巡っていま、こうしているのなら。


――星々はもう廻る必要なんてない。


今の私たちを、そのまま見つめていて欲しかった。


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