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ただいま、イル・カノーネ




「…………ほんと遅いわね」


先ほどの出来事を記憶の彼方に追いやって、さらに待つこと約30分。


すぐに戻ると言ってどこかへ向かった千明は、未だ現れる気配がない。


温かい飲み物を買いに行ったとしても、さすがに遅すぎる。

いったい千明がどこに何をしに行ったのか、凡人の私には皆目見当がつかない。


「あー寒い寒い……」


口に出すとより寒くなると解っていても、言わずにはいられない北の大地。

立ったまま静止していると、そのまま身体が凍りそうな気がして、足踏みしたり無意味に屋上を徘徊したりして寒さを紛らわせる。


「千明くんめ……戻ってきたら絶対文句いってやる……」


そのとき、ふと気づく。


「……千明くん、か」


再会してからの私は、ずっと彼のことを『千明くん』と呼んでいる。

昔は普通に呼び捨てだったのに、なんで私は開口一番に彼を『くん』付けで呼んでしまったのだろう。


他人行儀に思われてないか、ずっと不安だった。


けれど千明も千明で、私はずっと呼び捨てで呼んでたのに、彼だけは昔から一貫して私のことを『沙夜ちゃん』と言う。これはこれでずっと不満に思っていた。


私の知る限り、千明が下の名前で呼び捨てるのは、従妹である遙香ただ一人。

千明にとって遙香は実の妹同然だし、それに嫉妬するのはお門違いだってことくらいは解る。けれど、やっぱりずるい。


いつか絶対私のことも『沙夜』と呼ばせてやる。


「……よしっ」


そう決意すると、なんだか寒さも大分和らいだ気がした。


待つことにはもう慣れている。

5年の歳月を思えば今さら1時間や2時間、どうということはない。


「……な、なにが、よし、なのかな……はぁはぁ……」

「ち、千明っ!?」


空に向け渾身のガッツポーズをキメた瞬間、千明が戻ってきた。


「お、遅くなって……はぁはぁ……ごめんね……」

「……どこまで行ってたのよ、そんなに息切らして……――っ!?」


私は千明の姿を見て、言葉を失う。


「これを取りに戻ったら……思った以上に時間掛かっちゃって……」


そう言って千明は背中に背負った黒のヴァイオリンケースを前に出した。


「どうして……? この前、弾かないって……」

「今の僕に……沙夜ちゃんに返せるモノって考えたら……これしか思い浮かばなくて……」

「……とりあえず、待っててあげるから息を整えなさい」

「うん……助かる……」







それから約5分。

千明の体力が回復したところで、私は最初に言わなくてはいけないことがある。


「ヴァイオリンを取りに戻ったことは、まあ許しましょう」

「はい」

「けれど、年頃の女の子の部屋に無断で侵入したことについては話が別とは思わないかしら?」

「異議あり」

「どうぞ、被告人」

「沙夜ちゃんのお母さんに事情を説明をしたら、『どーぞどーぞ好きなだけ上がって何でも持っていってちょうだい』と、物色の許可をいただきました」

「判決。被告人及びその共犯者に有罪を申し渡す」

「昔、僕の部屋に勝手に上がり込んで好き放題やってた人が身近にいるんですが、その人はどうなんでしょうね?」

「……上手く逃げたわね、千明くん」


こうして千明が私の部屋に無断で立ち入ったことは不問に付すことになった。そもそも私は本気で怒ってなどいないし、千明もそれは解ってる。


……本当は叫びたいくらい嬉しくて、それを誤魔化すための照れ隠しだってことは、さすがに解らないだろうけど。


「じゃ、用意するからちょっと待ってね」


手軽な料理を振る舞うような感じで、千明はヴァイオリンケースをベンチの上に置いた。


私はその様子を見て、今の彼にとってヴァイオリンを弾くことは、そこまで忌諱することでも無くなったのかな、と少しだけ安堵する。


けれど、それは一瞬のことで――


「…………っ」


ヴァイオリンケースの留め具を外そうとする千明の手が、少しだけ震えていたことに気づいてしまう。


「ここまできて何だけど、別に無理しなくても……」

「……大丈夫だよ、僕は」


まるで自分に言い聞かせるように、言った。

このケースの中には、千明が失ったすべてが収められている。


やがて彼は小さく頷き、そっとケースを開く。


「ただいま、イル・カノーネ」


この5年間、いつか戻って来ることを信じて、ただひたすらに主人を待ち続けたヴァイオリンが、そこにあった。




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