白亜の幻
そんなことがあった日の夜、日が落ちたにも関わらず薄暗い教会内で志白はまだ働いていた。
聖堂内の比較的広いスペースに敷いたカーペットの上に座り、手のひらサイズの動物のマスコット人形とキャンディを靴下の形をした袋に入れ、丁寧にリボンを結んでゆく。傍らに置いてある籠の中にはもうすでに完成されたと思しきものが十数個入れてあるが、まだまだキャンディも袋も残っている。
入れては結んでの作業をひたすら繰り返す志白を黙って見ていたソルシエルは、我慢ならず礼拝堂の椅子の向こう側から声をかけた。
「なあ、何してるんだ?」
その声に志白は手を止めてソルシエルを見た。
「明日のプレゼントの準備です、ソルシエル様」
「プレゼント?」
「はい。明日はディユティ=ラクリマですから」
「ディユ・・・・・・?」
(ってなんだ?)
聞き慣れない言葉に疑問符を浮かべたソルシエルは、さらなる説明を請おうとしたが。
「ディユティ=ラクリマ。『光の涙』という意味の人間達の祝祭日です」
現れたティアヴィスリコールの声によって遮られた。その手には湯気をくゆらせるマグカップが三つ並んだ盆が乗せられていた。
ソルシエルは条件反射でティアヴィスリコールを牽制した。
「貴様には聞いてない!」
「これ以上マリアの手を煩わせないでください」
「なんだとっ!」
「あ、あのっ、二人とも。わたしは大丈夫ですから」
ぴしゃりと切り返したティアヴィスリコールに尚も食って掛かろうとするソルシエルに、志白は慌てて口を挟んだ。その声にソルシエルはむすっとした。
「・・・・・・で? 何の日だって?」
その様子にほっとした志白は静かに語り始めた。
「神様がわたしたち人間のために涙を流してくださったと言われる日です。今夜は日が暮れる前に各々の仕事を切り上げて、大切な人との時間を大切にする日なんです。良い子には明日の朝、プレゼントが用意されているんです。これは教会に来てくれる子供たちにあげるプレゼントです」
微笑みながら説明する志白の手には、ささやかだが優しい思いのこもったプレゼントが包まれている。
「今夜は人々の願いが神様のところまで届けてもらえる日でもあるんです」
「神・・・・・・」
そうにっこりする彼女の手に、ティアヴィスリコールは「どうぞ」とマグカップを渡した。ソルシエルは警戒を緩めない。
「それは何だ」
「あ、ホットチョコレートです。よろしければソルシエル様も――」
「彼の分はこちらに。ま、どうせ飲まないでしょうけど」
「当たり前だ! 誰が悪魔の用意した代物など受け取るか!!」
拒絶の声は思いのほか聖堂内に響いた。立ち上がって睨みつけてくるソルシエルを、志白の隣に屈んだままのティアヴィスリコールは失笑し、ソルシエルの分だというマグカップを彼の前の椅子の上に置いた。
「飲まなくて結構です。が、こぼして聖堂を汚さないでくださいね」
きっちり釘まで刺しておく。
自分の行動を言い当てられて、ソルシエルは歯噛みする。
「マリア。カップの中身が冷めますよ」
「ぁ・・・・・・そうね。ありがとう、ティア。いただきます」
険悪なムードに呆然と様子を見守っていた志白は、慌ててカップに口をつけた。
ティアヴィスリコールも志白の前に座り、何事もなかったかのように自分の分を飲む。
ひとりばつの悪い顔をしたソルシエルだけが、立ち尽くしたまま次の行動を起こせずにいた。
ふと、何かが動いた気がして窓を見た。じっと見ていると、何かが上から下へ横切った。白くて小さなものが徐々に数を増しながら、ひらひらと窓の外を舞っている。
「まあ・・・・・・雪ですね」
「雪・・・・・・?」
「はい。いつから降っていたのでしょう。積もるかしら」
「寒いはずですね」
そう言ってティアヴィスリコールは、パチンと指を鳴らせてみせた。すると空中にオレンジ色の球体が数個現れた。
悪魔の術を目の当たりにして黙っているソルシエルではない。
「今何をした、悪魔!」
「いちいち煩い。見て分かりませんか。この部屋を暖めているんです。このままではマリアが風邪を引いてしまいます」
聖堂内を照らす光は仄かに温かい。確かにこんな弱々しい力では破壊力は無に等しそうだが。
そう思い直して改めて椅子に腰掛けようとしたソルシエルは、なんとなく視線を移した窓の外を見て、そこに信じられない『もの』を見た。
「!?」
視線はそのままにふらりと聖堂の入り口の方へ歩き出したソルシエルのことを訝しんで、志白は名を呼んだ。
しかしその声はソルシエルには届かなかったようだ。慌てた様子で扉に駆け寄ると、大きく開け放ち雪の降りしきる宵闇へと飛び出した。
「天界・・・・・・天界だ!!」
歓喜の声を上げて、ソルシエルはそのままの勢いで純白の翼を思いっきり広げて空へと向かった。
「迎えが来たのか! やった! これでやっと天界に帰れ――」
ガシャーンッという金属音が響き、間を置かずに翼を強い力で引っ張られた。
「痛っ・・・・・・!?」
羽根をもがれるような激痛に、ソルシエルの意識が一瞬遠のいた。
勢いを失った身体はそのまま地上へと引きずられた。
「ソルシエル様!」
「・・・・・・っ」
受け身もとれず、背中から地面に激突した。ソルシエルは痛みに呻く。
「大丈夫ですかっ?」
すぐさま駆け寄ってきた志白を無視して、ソルシエルは上体を起こした。再び飛翔しようと力を入れた翼は、しかし上手く開かなかった。
「何が――・・・・・・」
ふらふらと歩いたところで心なしか身体が重いと感じた。
ジャラッ。
小さな音に背後を振り返ったソルシエルは。
「・・・っ・・・?・・・・・・な・・・・・・?」
信じられない状況に言葉を言葉を、ただ言葉を失った。
「な、なんだよ、これっ・・・・・・オレの翼がっ!」
ソルシエルの翼には鎖が巻き付いていた。これでは飛べないはずである。
「くそっ! このままじゃ・・・・・・っ」
(上に帰れない!)
ソルシエルは大剣を掴んで鎖を切ろうとした。だが、押し当てたはずの剣に手応えはなく、刃はするっと鎖をすり抜けた。
「!?」
(この剣じゃ切れない!?)
諦めず今度は素手で引き千切ろうとしたが。
「いっ・・・・・・!!」
思わず片膝をついた。鎖を握りしめて力を加えると羽根が痛んだのだ。激痛にのたうち回りたいのを我慢するために、片手で自分の肩を抱いてうずくまった。
「くっ・・・・・・そ、外れな・・・・・・っ」
少し離れた所には志白が困惑気味に立っていた。ためらいつつもソルシエルに手を伸ばす。
その手がソルシエルに届く前に、ずっと黙っていたティアヴィスリコールがそっと掴んだ。
「ティア・・・・・・?」
その声に、ソルシエルはぴくりと反応した。
「風邪を引かれます、マリア。中に戻りましょう」
静かに言って、志白の肩にショールをかけた。
「あ、ありがとう・・・・・・でも」
「・・・・・・貴様か」
志白の声に被さるように発された言葉。常にないほど険しく尖ったソルシエルの低い声音に、志白は驚いてソルシエルを見た。
一方のティアヴィスリコールは我関せずと、志白を聖堂内に促そうとしている。
ソルシエルの視界が怒りで真っ赤に染まる。
「・・・・・・っ・・・・・・この、悪魔がああああっ!!」
衝動のまま愛剣を手にティアヴィスリコールへと斬りかかる。
ソルシエルは武官だ。悪魔との戦闘能力は、他の天使よりも群を抜いて高い。ティアヴィスリコールに向かって風の速さで大剣を振りかぶり切り込んだ。
志白が短い悲鳴をあげた。
だが、ティアヴィスリコールは背後に志白を庇いつつ、ソルシエルの渾身の一撃をいとも容易く止めてみせた。大剣の刀身を片手の、しかも指先で摘まんで防いでいるティアヴィスリコールの様子はいつもと変わらない。その眉は不愉快そうにひそめられている。
「・・・・・・騒ぐなら他所でやってください」
「うるさい! 今すぐこの鎖を外せ!!」
「知りませんよ。喚かないでください」
鬱陶しそうに顔をしかめるティアヴィスリコールの態度は、どこまでも涼しげだ。冷静なその様が、ソルシエルの怒りを逆撫でする。
ソルシエルは尚も腕にギリギリと力を込めるが、掴まれた剣はびくともしなかった。
「貴様の仕業だろっ!!」
「違います、ソルシエル様っ・・・・・・ティアは何も――」
「マリア。危ないですから下がって」
「でも・・・・・・」
こちらもなかなか引こうとしない志白を見て、ティアヴィスリコールはため息を吐いた。
「仕方ありませんね。まったく、面倒な」
そう独りごちて、ティアヴィスリコールは掴んでいた刃を突如ぐいっと引き寄せた。当然だが、剣に力を込めていたソルシエルの身体もティアヴィスリコールの方に引っ張られる形となり、寄ってきたソルシエルの身体をティアヴィスリコールは躊躇なく思い切り蹴り飛ばした。
「かはっ・・・・・・!?」
軽々と雪の上にその身を飛ばされたソルシエルを見たティアヴィスリコールは、ほおっと感心した。
「今の状況で剣を手放さないとは、なかなか。褒めて差し上げますよ」
「くっ・・・・・・けほっ、このっ・・・・・・」
数メートル離れた位置まで飛ばされたソルシエルは、呼吸を整えようと喘ぐ。
「――――だが、知っていますか?」
一瞬でソルシエルの傍までやって来たティアヴィスリコールは、仰向きに倒れたままの彼の大剣を片足で踏みつけると見下ろした。志白の前では決して見せない、悪魔独特の底冷えしそうな黄金色の鋭利な瞳で。
「剣というものは、振るえなければ意味がない」
「・・・・・・っく・・・」
愛剣を引き抜こうと力を込めるが、びくともしない。至近距離で強力な悪魔の力に当てられて、ソルシエルは一瞬だが不覚にも怯んでしまった。
(殺られるっ!)
ぎゅっと目をつぶったソルシエルは次の瞬間、顔面にとても冷たい何かをぶつけられた。
「ぶっ・・・・・・!?」
気付けば、先ほど一瞬だけ感じた殺気は霧散していて、ソルシエルは恐る恐る瞳を開いた。
(生きて・・・る・・・のか、オレ?)
視界は悪いが、空からは絶えず雪が降り続いている。
「ソルシエル様!」
志白の声にハッとして彷徨わせた視線の先、自分の傍らに立って憎らしいほど静かに自分を見下ろしてるティアヴィスリコールがいた。
ソルシエルと目が合うと、これまた不愉快そうに。
「まだ暴れますか」
と、ひと言。
何も言い返せないソルシエルは、せめて悪態をつくくらいのことしか出来なかった。
「うるせぇ・・・・・・どかせよ、足!」
失笑してみせたティアヴィスリコールは、剣を踏んでいた足をすっと引いた。
ひったくるようにして取り戻した愛剣を抱きしめたソルシエルは、無言で立ち上がると天を仰いでふわりと軽く浮き上がった。
(冷静になってもう一度飛べば・・・)
その横顔にベシャッと、何か冷たくて濡れたものが当たった。正確には投げつけられた。隣にいる、長身の悪魔に。
「て・・・・・・めぇ、何するんだよ、さっきから!」
「貴方こそ何をしているのですか」
質問を質問で返された。ムカつきながらも、律儀に答えるソルシエル。
「帰るんだよ、天界に!」
「どうやって?」
「飛んで戻るに決まってんだろ! 分かりきったこと聞くな!」
「その翼でどのようにするのですか」
「そう思うなら外せって、さっきから言ってんだろ!!」
ふざけているとしか思えない言葉の応酬に、ソルシエルは余計にイライラしてくる。
「私は何もしていませんよ」
「はあ? ふざけんのも大概にしろよっ。今この場で貴様以外の誰にやれるって!? せっかくのチャンスが――・・・・・・」
「何の?」
「すぐそこにあんだろ、天界が!! きっと主のお許しが出たんだ」
興奮するソルシエルに対して、ティアヴィスリコールはどこまでも冷静だった。
「どこに? そんなものはありません」
しらけるようなことを言うティアヴィスリコールに、ソルシエルは得意げに返した。
「じゃあ、悪魔の貴様には見えないんだ」
それを聞いたティアヴィスリコールは軽く頷いた。
「なるほど。一理ある。いかにも私は悪魔です。故に天使にしか見えない幻も見えませんね」
「幻・・・・・・?」
「そう。ただの幻影です」
ティアヴィスリコールの言葉に、半笑いでソルシエルは抗議した。
「いい加減なこと言うな!」
珍しく饒舌なティアヴィスリコールだった。
「事実ですよ。なんならマリアにも尋ねてみるといい。彼女ほど澄んだ魂の持ち主なら、貴方のいう楽園とやらを見ることも容易いでしょう」
意気込んで志白の方を向くソルシエルは、笑顔で志白に問うた。
「志白! 見えるよな!」
そこに天界があると信じて疑わないソルシエルの断定にも近い問いかけに、志白はすぐには返答出来なかった。しばらく言葉を探した後におずおずと口を開いた。
「・・・・・・あの・・・・・・申し訳ありません・・・・・・わたしにも、天界は・・・・・・・・・。見えるのは、ただの・・・・・・雪景色、だけです・・・・・・」
その言葉に、ソルシエルは笑顔のまま固まった。
「・・・・・・ゆ、志白は、人間だから見えないんだ。うん。そうだそうだ」
「まあ、確かにそう言ってしまってはそこまでですが」
ティアヴィスリコールの言葉に、四面楚歌のソルシエルの心はビクリと震えた。
「な、何を根拠に幻だって言うんだ!」
「今夜は聖なる夜ですからね。神の力が一年で最も強まります。罪には罰を・・・・・・ということではありませんか」
「罪・・・・・・」
呆然と呟くソルシエルに、ティアヴィスリコールは核心を突いてきた。
「堕天した天使がそう易々と神の御許に戻れると本気で思っているのですか。相当おめでたい頭ですね」
「でも・・・・・・オレは・・・」
「神の許しが出たというなら、どうぞお帰りください。誰も止めはしませんから」
「だから、この鎖が邪魔だって――」
「よく見なさい。ただの鎖ではありません」
そう言われたソルシエルは半信半疑で背中の翼にじっと目を凝らした。そうして驚愕した。
「えっ・・・・・・これって・・・・・・深紅の・・・茨・・・・・・!?・・・・・・なんで、だってこれは、我らが主の――・・・」
(我らが主の力の証・・・・・・)
ソルシエルの翼は、深紅の茨に絡め取られていた。無理に飛ぼうとしても、おそらく翼を失うだけだろう。
「これで納得しましたか? 貴方のその剣で切れない理由も」
加えてソルシエルの持つ大剣は対悪魔用のものだ。基本なんでも切れるこの剣は、唯一神の力だけは切れない。
「手の届かない幻をわざわざ見せつけるなんて、貴方がたの崇拝する神も悪魔並みにサディスティックですね。貴方の大好きな主からの贈り物ですよ。罰という名のね」
「ば、つ・・・・・・」
ソルシエルの呟きは、しんしんと降り続く白い雪に吸い込まれていった。
ティアヴィスリコールは志白を連れて聖堂内に戻っていった。ソルシエルはただ、空に広がる眩いほどに白い幻を前に独り佇んでいた。その頬にひとしずく涙が伝った。