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空へと祈る  作者: あつき
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聖女と悪魔

 ソルシエルにとって、長い一夜が明けた。

 生粋の高位天使であるソルシエルは、暗闇に慣れていなかった。

 そのほとんどを楽園である第一層世界で過ごしてきたソルシエルにとって、光は常に降り注ぐものであり、星明かりだけとなってしまった人間界の夜はひどく落ち着かない時間だった。それでもなんとか耐えられたのは、魔界での戦争の経験と、この家を包む神聖な空気のおかげだった。

 その神聖なオーラの持ち主である志白は、朝から出かけていた。リビングのテーブルには『学校に行ってきます』と書かれたメモが置いてあった。

 ソルシエルは庭に出ると、朝の日差しを全身に浴びて伸びをした。

 そうして翼を広げると、意を決して昨日と同じように空に向かって羽ばたきだした。

 しかし、五時間、六時間……どこまで飛んでも天界の姿は影すら見えなかった。そしてまた、地上を振り返ればすぐそこに人間界がみとめられた。

 こんなに長く飛んでいれば地上の景色も自然と遠ざかるはずだが、まるでソルシエルがそこから一歩も動いていないかのように人間界は常にソルシエルの背後に控えていた。そこには、何か目に見えない大きな力が働いているように感じた。

(くそっ! なんで帰れないんだよ! まさかホントに堕天使になっちまったのか、オレは!?)

 焦りと疲労だけが募っていく。気付けば空は茜色に染まりだしていた。

(時間切れか……くそっ)

 光を糧とする天使は個人差こそあれ闇に弱い。力が尽きれば飛べなくなる。

 ソルシエルはふらふらと地上に足を降ろした。力を温存するために背中の翼をしまう。

 自然と俯きがちになる姿勢を気力だけで上向かせる。

 その時になって初めて、ソルシエルは背の高い建物に気が付いた。

(何だ、ここ)

 昨夜泊まった家の裏手の場所にそれはあった。

 屋根がほっそりと尖っている、全体的に白っぽい建物の大きな扉は大きく開け放たれており、容易に中を覗くことが出来た。

 天井が高く、室内には横長の椅子が均等に並べられている。正面の大きなステンドガラスが、日の光を取り込んで床に綺麗な模様を浮かび上がらせている。

 誘われるように足を踏み入れた場所が、ふいに帰ることの出来ない懐かしい世界を思い出させた。

「…しゅ…」

「いかがしました?」

 誰もいないと思っていたソルシエルは慌てて室内の奥を見た。そこには見知らぬ男が立っていた。背はソルシエルより高く、艶のある黒髪を短く切りそろえて眼鏡をかけている。

「え、あ、すみません。勝手に入って……」

「構いませんよ。ここの扉は万人に開いております」

「はあ…? あの、あなたは?」

「この教会で神父代行をさせていただいております」

「教会…神父?」

 ソルシエルの怪訝な表情を察し、神父は説明を入れた。

「ここを訪れた方達の懺悔を聞き、神の教えを説いております。教会とは人が神に懺悔し感謝する場所です」

「神に!? 我らが主を知っているのか? 主はどこに――……」

 ソルシエルは驚いて神父に詰め寄った。

「神の力はこの教会に。あなたはすでに神の御前にいらっしゃいますよ」

「えっ!!」

 ソルシエルは周囲を見回した。

「ほら、神はすぐそこに」

 神父は柔らかな微笑をたたえたまま、すっと片手を持ち上げてソルシエルの視線を正面の巨大な十字架へと運んだ。

「…?……あの…?」

 意味が分からず当惑するソルシエルに、神父は優しく告げた。

「神はあの十字架に宿り、常にあなたを見守っておられます」

 衝撃がソルシエルを襲った。

(なんだ、この男は。まさかあの装飾に主がおられると言っているのか?)

 物知らずの自分を馬鹿にしてるのか!?

 憤りかけたソルシエルは、だが怒声を発することができなかった。

(……オレが、悪いのか……? オレが変わってしまったから……)

 罪人とされ、さらに不本意とはいえ堕天までしてしまった自分には、すでに我らが主の気配にすら触れることも許されないということなのだろうか。

 だから目の前の男には感じられて、自分には何も感じられないのだろうか。

 だからいくら飛ぼうとも天界に、我らが主の御許に戻ることが出来ないのだろうか。

 自分は永劫、この地から抜け出すことが出来ないのだろうか。

 足場が何か音をたてて崩れていくような気がした。

 ぐらぐらと揺れる頭では、まともな思考など出来るはずもなく。

 ソルシエルはただ、冷たい廊下に立ち尽くした。



     *



「…――――ル様、ソルシエル様?」

 自分を呼ぶ声にハッとしたソルシエルの前には、いつからか分からないが志白がいた。

 心配そうにソルシエルの顔を見上げていた。その足元には黒猫を伴っている。

「あ…? 志白?」

「よかった。お声をかけても反応がないので心配いたしました。このような所にずっと立って、どうなさいました?」

 辺りはいつの間にかすっかり暗くなっていた。志白の持つランプだけがその場所を照らし出している。

 ソルシエルは夕刻に入った教会内の通路にずっと立っていた。あまりのショックに自分でも気付かないうちに深い物思いに陥っていたようだ。

「ぁ……オレ……オレは……」

 何か喋らなければと思った。

 だが、言葉がそれ以上出てこない。

(もしかしたらオレは知らないうちに我らが主の意思に反してしまったのかもしれない)

 きっと自分は今とてつもなく情けない顔をしているだろう。

 そう思いながら、ソルシエルは顔を隠すように俯いた。

 鼻の奥がつんとして、ますます歪む顔に、ソルシエルは無性に悔しくなった。

 ぐっと拳を握りこんだその時。

(……え……?)

 ふわりと両頬を柔らかいもので包まれた。

 志白の手だ。床を睨んでいた視線をおずおずと上げると、ソルシエルをまっすぐに見つめる志白の瞳と合った。

「大丈夫」

「……?」

「大丈夫ですわ…ソルシエル様は、ちゃんとわたしの前にいらっしゃいます」

「!」

(何も話してないのに)

 どうして分かったのだろう。

 主を見失ってしまった自分の在り処がどうしようもなく心許ないことに。

「志、白……」

「だから、大丈夫ですわ」

 そう優しく、しかしはっきりと言って微笑まれると本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。

 状況は何も変わっていないのに、安心感さえ生まれてくる。まるでマリアの腕の中にいるようだ。

(……やっぱり似てる…天界の聖なる母マリアに――……)

 何者より慈悲深く、全てを救済する力を持つといわれる天界の至宝の一つ・マリア。その清らかな歌声だけが天使の卵を孵させることが出来る。通常は特殊な結界に守られた天界の第二層世界に居られるという。

 ソルシエルは悟った。

 ああ。だから我らが主はこの人間をご所望なのか。

(皮肉な話だ)

 楽園を追放された堕天使が、楽園に招かれている人間の少女のもとに辿り着くなど。

 けれど不思議と惨めな気持ちにはならない。

「不思議な人間だな、お前は」

 ソルシエルは志白の目を見つめ返しながら静かに言った。

 その瞳に先ほどまでの不安は映っていなかった。それをみとめた志白は安堵で笑みを深くした。

 ソルシエルは、頬にあてがわれた志白の小さな手をゆっくりと握り返した。

(全て事は必然……)

 ならば、自分が志白に出会ったのも何か意味のあることなのだろうか。

 そんなことをソルシエルは考えていた。



     *



 次の日もその次の日も、ソルシエルは諦めずに翼を広げた。そして何の成果もなく地上へと戻ってきた。

 落胆のため息を吐いたソルシエルは、地に足をつけながら人型へと姿を変えた。と言っても、尖った耳が人間のそれになり、翼がなくなっただけで、肩を過ぎた美しい金色の髪も煌めく緑の瞳も純白の服もそのままだ。

 この姿で毎日のように教会へと足を伸ばしていた。

 相変わらず主の気配は掴めないが、神聖な場所には変わりない。いるだけで自己が浄化されるようで気持ちよかった。

 ソルシエルは十字架を見上げると、通路に跪き指を組む。どうかこの心が我らが主に少しでも届きますように、と願いながら。

 ソルシエルのその熱心な祈りの姿は他の教会利用者にも影響を与え、『敬虔な美少年』とすっかり評判になっていた。

 当の本人はそんなこととは知らずに、今日も祈りを終えて教会の裏手にある志白の家に入るべき扉に手をかけた。

 いつものように微かに漂う闇の者のような気配を無視してドアノブを回して開けると、何故か中にはこの数日で見知った神父の姿があった。

「あれ? 神父様。どうしたんですか、こんな所で」

 ソルシエルは、他の人間がこの男に対して「神父様」と呼び敬語を使っているのを見て自分もそれに習っている。

 神父は少しの間を開けていつもの微笑を浮かべて言った。

「これはこれは。貴方でしたか。今日のお祈りはいつもよりも切り上げるのが早いのですね」

「あ、はい。今日は天気が悪いようなので、ちょっと……。神父様こそどうしたんですか? 志白ならまだ学校だと思いますが」

「ええ。存じております」

 ソルシエルは眉間にしわを寄せた。家人不在の訪問は怪しい理由を連想させる。

(でも神父様に限ってそんなこと……)

 ひとり悩むソルシエルの想像を見透かしたように、神父が告げた。

「盗人ではありませんのでご安心を。忘れ物を取りに来ただけです。わたしもここに住んでいますので」

 寝耳に水な言葉にソルシエルは驚いた。

「えっ! そうなんですか。でも志白はそんなこと全然――……」

「きちんと言っていたと思いますが……」

「え?」

(そうだったか……?)

 ソルシエルが首を傾げるのと、強烈な気配を感じたのは同時だった。

 反射で振り向きながら擬態を解き、背中の聖剣に手をかける。

(悪魔!? どこだ!)

 家の中から飛び出したソルシエルが屋根の上から感じるオーラにつられて仰ぎ見ると、毒々しいほどに赤黒い服を纏った男が宙に浮いていた。その背には天使とは違う、コウモリのような形の大きな翼が広がっている。

 ソルシエルを見ると、しなを作り、長く伸びた爪の先で頬を撫でながら小首を傾げた。

「おや~、聞いてた情報と違うね~。なんだって天使のガキが出てくるんだ~?」

(こいつ……上級悪魔!?)

 悪魔には詳細こそ違えど天使と同じようなランク付けが成されている。底辺が下級悪魔、その上が中級悪魔、さらに上が上級悪魔である。ランクが上がるにつれて知恵と力がつき、人を惑わすために見た目も美しくなる。悪魔の頂点に立つ堕天使サマエル、またの名をサタンは、それはこの世のものとは思えないほど美しい姿をしているという。

 それから考えるならソルシエルの目の前にいる悪魔は、中級から上級クラスの悪魔ということになる。

「貴様、橋の上でもオレを襲ったヤツか!?」

「はあ~? 橋ってどの橋? 何のことだかさ~っぱり。それよりアンタなんかに構ってる暇ないの。分かったら大人しくそこどきな」

 どうやらこの悪魔は、ソルシエルを襲ったヤツとは無関係のようだ。

(それなら、どうしてわざわざこんな聖域にやって来た?)

「何が目的だ! まさか志白を殺す気か!?」

「アンタに関係ナイでしょ~。怪我したくないなら下がりなよ、坊や」

「誰が坊やだ!!」

 『坊や』扱いに腹を立てたソルシエルは翼で一気に上昇すると、悪魔目掛けて愛剣を振りかぶった。

 悪魔は慌てて避けると文句をいう。

「ちょっ、ちょっと! 何てもん振り回してんのよ! 危ないでしょ! こっちは裏切り者を始末しに来ただけだってのに」

「知ったことか! オレの仕事は悪魔を狩ることだ!」

 攻撃態勢を崩そうとしないソルシエルに対して、変な奇声を出しながら逃げ回っていた悪魔は、次の瞬間「待ってました!」と歓びの声をあげた。

「威勢がいいのも結構だけど、そろそろタイムリミットじゃな~い? ここからは悪魔の時間よ」

 空を見れば、太陽が完全に沈む寸前だった。

(やばい! 力が削られる…っ)

 ソルシエルが内心、焦りを感じたその時。


「そうですね。ここからは我々の時間です」


 そんな声とともに、家の中から凄まじいまでの闇のオーラが噴き出した。

(なっ何!?)

 下を見ると、暗黒のオーラを身に纏った神父が喋りながら出てくるところだった。

「サマエルも酷なことをする。よもや私に勝てるはずもない貴方ごときを寄越すなんて」

「う、裏切り者は黙らっしゃい!」

「大丈夫。一瞬で終わらせますよ。マリアが帰ってきますからね」

 次の瞬間、悪魔は真っ二つになっていた。その身体はすでに端から塵と化している。

 消えゆく悪魔の後ろにはいつの間に回り込んだのか、長身で長髪の黒衣の男が、同じく黒く光る剣を手に屋根の上に立っていた。その背には紛うことなき悪魔の翼が広がっている。

「そ……んな……、この……ティアヴィスリコール――っ!!」

 悪魔の最期の断末魔が響き渡った。あっという間に塵となり風に舞って消えてしまった悪魔を呆然と見送った後、ハッと我に返ったソルシエルは剣を構え直した。

「き、貴様、悪魔! どこから現れて……神父様をどうした!?」

 この悪魔が現れるまであった神父の気配がなくなっていることに、ソルシエルは気付いた。ソルシエルは最悪のケースを思い浮かべて顔色をなくした。

 だが、その心配はある意味杞憂だった。地上に降りてきた悪魔は事も無げに言ってのけた。

「神父など最初からいません。あれは私の仮初の姿。それに勘違いも甚だしい。こちらの縄張りに勝手に入ってきたのはそちらでしょう。天使を名乗るのならば、命の恩人に礼の限りでも尽くしてほしいものですね」

「ふざけるな! 悪魔にくれてやるものなんかあるか!」

 吠えるソルシエルに、悪魔――ティアヴィスリコールの目がすっと細められた。片方の口角を上げ静かに告げる。

「懺悔ならば聞いて差し上げますよ。坊や」

「このっ……!」

 途端にカッと頭に血がのぼったソルシエルは衝動のままティアヴィスリコールに斬りかかった。しかし、単調な動きはあっさりとかわされ、気付けば地べたに倒れていた。

 何が起こったのか、一瞬の出来事で把握できない。

 ティアヴィスリコールは、目を見開き固まったままのソルシエルの背を踏みつけにしたまま、その頭上から声を落とした。

「堕天使が、この私に道徳を説いてくださると……?」

 ぎくっと身をすくめるソルシエルを、ティアヴィスリコーリはさして面白くもないという目で見下ろす。

(『堕天使』……)

「違う!!」

 心の臓にナイフを突き立てられたような衝撃を受けたソルシエルは、しかし戦慄く唇を動かして、あの日あの白い空間で聞き入れてもらえなかった心を懸命に訴えた。

「違う…っ…オレは、我らが主を裏切ったことはない!……こんな所に落ちたのだって事故で、オレの意思じゃない!」

「はっ、馬鹿をお言いなさい。そのように都合よくここに辿り着くわけがない」

「何をごちゃごちゃと! 悪魔ごときがこのオレに触れるな!」

「本当に随分と威勢のいいことで。己の状況をもっときちんと把握した方がいいんじゃないですか。……目障りだ」

 ティアヴィスリコールの闇の力が触れようかとしたソルシエルは思わずぎゅっと瞳を閉じた。

 だが。

(……っ……?……なんだ? まだ生きてる……?)

 すっと魔力の気配が掻き消えた。代わりに聖なる力が辺りを包み込む。

 硬く閉じていた目をそっと開けてみると、細く白い足が映った。続いてここ数日で聞き慣れた声。

「ただいま戻りました」

「おかえりなさい、マリア」

「……志…白?」

 ソルシエルは呆然と少女の名前を呟いた。

「あの……お二人とも、こんな所で何を?」

 玄関先に立つティアヴィスリコール。その足元に剣を片手に這いつくばるソルシエル。この奇妙な光景に、志白は疑問符を浮かべた。

 それに応えたのはティアヴィスリコールだった。

「いえ、何でもありません。申し訳ありません。進路を塞いでしまって。さあ、貴方もいつまでもそんな所に寝転んでいないでください。邪魔です」

「誰のせいっ…ぐえっ!」

 ティアヴィスリコールはそう言うとソルシエルの襟首を掴み、引き摺るようにして無理矢理立たせた。

「まあ、ティア。そんな風に乱暴な振る舞いはいけないわ。大丈夫ですか、ソルシエル様」

「ティア……?」

 志白の言葉にハッとなるソルシエル。

「今、『ティア』って言ったか?……ティアは黒猫の名前……てことは、まさか……貴様、あの猫…!?」

 ソルシエルはわなわなと震えながら目を見開きながら指差した。

「人を指差さないでください。邪魔だと言っているでしょう。出入り口を塞がないでください。さ、マリア、早く中へ。外は風が冷たいですからね」

「おい! 無視するな!」


 こうして、天使と人間と悪魔という、種族の垣根を越えた共同生活が始まったのだった。

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