第八話 大好きな二人
絵を描き終わった瞬間に集中力が途切れたのか、色々な感覚が一気に押し寄せてくる。
喉の渇き、尿意、空腹感、眠気、そして……羞恥心。
恐らくは一種のトランス状態だったのだと思うけど、こんなことってある……? という面白画像でも見たような反応をしてしまった。
それはともかくとして、尿意については非常にマズイ状態なので慌ててトイレに駆け込む。
よく漏らさなかったと自分を褒めたいくらい、決壊寸前の状態であった。
なんとか最悪の事態は避けたが、今度は乾いた口内の不快感に耐えられず洗面所でうがいをする。
このまま水も飲んでしまいたかったが、残暑厳しいこの気温の中水道水を直飲みするのは流石に躊躇われた。
濡れた口を拭い台所に向かった私は、冷蔵庫に常備された麦茶をコップも使わず一気に飲み干した。
ここでやっと、本当に生き返った気分になる。
依然としてコンディションは最悪だが、水分を取って少し解消されたということは、軽い脱水症状になっていたのかもしれない。
夕食も食べた記憶がないし、一体どれくらい水分を取ってなかったのか……
「日葵!?」
「あ、お母さん、おはよ」
麦茶を作り直すため容器を洗っていると、お母さんが慌てた様子で台所に顔を出した。
「おはよう……って、それよりも、大丈夫なの?」
「あまり大丈夫じゃないし、お腹減った……」
「それは、晩御飯食べてないんだから当たり前でしょ」
わかっていたのなら声をかけてくれればよかったのに――と一瞬思ったが、お母さん達も当然声くらいはかけてくれたのだろう。
生理的欲求すら感じていなかったくらいだし、恐らく声なんて全く聞こえなかったのだと思う。
「どうする? 学校、休む?」
「……いや、それは、ダメ」
今の私に、あの絵本の存在を隠す理由はない。
たとえ今の虎太郎君があの絵本を見て、ガッカリしたり何も感じなかったとしても、きっと揺らぎはしないだろう。
……いや、揺らぎはしないは嘘だ。絶対ショックは受ける。
でも、今は見てもらいたいという好奇心の方が強い。
「だったら、ちょっと急がないと遅刻するわよ?」
「えっ!?」
そう言われて時計を確認すると、確かに時間は普段私が家を出る時間を過ぎようとしていた。
今からまともに用意していては、とてもじゃないが間に合わない。
「声をかけに行くのが遅くなってごめんね? まさか、行くとは思ってなくて……」
「いや、お母さんは全く悪くないから」
学校に行くのか尋ねるのであればもう少し早くしてほしい……、というのは私の我儘でしかない。
休むだろうと予測しつつも私の意思を確認するよう尋ねたのだって、お母さんなりの気遣いからだったのだと思う。
お母さん達にはいつも感謝しているが、私が口下手なのに加え、今はそれを伝える時間すらないのが歯がゆいところだ。
部屋に戻り、一応女子として最低限の身だしなみ(あくまでも私目線でだが)を整えつつ制服に着替える。
カバンを掴み部屋を出る寸前で、肝心の絵本を忘れていることに気付いた。
木箱に入れると流石にかさばるので、とりあえずスケッチブックに挟んでカバンに押し込む。
部屋を出ると色々とお母さんがフォローしてくれたため、非常に助かった。
「はい、これ」
そう言ってお母さんがお弁当と、もう一つ別の布袋を渡してくる。
「……これは?」
「おにぎり。これならパパっと食べれるでしょ?」
「っ!?」
なんと、お母さんはこの短時間でおにぎりを用意してくれていたらしい。
正直早弁も辞さないつもりだったので、とても助かる。
「ちなみに、作ったのはお父さんだから」
「えっ!? お父さん!?」
お母さんに感謝の念を抱いていたら、別方向からパンチでも喰らったような気分になる。
完全に想定外だったので、自分でもビックリするくらい大きな声が出た。
「日葵、高校に入ってからあまり元気なさそうだったし、夏休み中は毎日のように描いてた絵も、二学期になった途端全く描かなくなってたでしょ? だから、私もお父さんも心配してたのよ」
お母さんが心配してくれていることには気づいていたけど、お父さんも心配してたんだ……
私の口下手さはお父さん譲りなのだが、お父さんは元祖ということもあってか私以上に口下手だったりする。
だから正直何を考えているのかわからないことも多いし、最近は苦手意識も持っていた。
……でも、昔から私のことを大切に思ってくれているのは十分理解していたし、感謝だってしている。
そもそも、あの絵本を作ってくれたのはお父さんなのだ。
そういう意味では、真の原点はお父さんだと言えるのかもしれない。
「それなのに昨日の夜、声をかけても反応しないくらい集中して絵を描いてるもんだから、一体何事かと思ったわよ。しかも、子どもの頃みたいに凄く楽しそうに……。それでお父さん、余程凄く嬉しかったのかソワソワし始めてね? 夜中にお腹を空かして下りてくるかもしれないからって、作ったこともないくせにおにぎりを握り始めて……」
「っ……」
ヤバい、泣きそうだ。
私を想う二人の気持ちに対する喜びと、そんな二人を心配させていたという罪悪感が、胸の中でグチャグチャに混ざって形容不能な感情を生み出す。
「……二人とも、大好き」
そんなワケのわからない感情からポロリと零れた落ちた言葉は、感謝でも謝罪でもなく、ただ純粋に二人に抱いている気持ちだった。
「フフ♪ もちろん、私達もよ」
お母さんは嬉しそうに笑って応えながら、門の外に通学用の自転車を準備する。
この自転車は自転車通学用に購入したものだが、基本的には徒歩で登校しているため滅多に使っていない。
だというにしっかりと手入れされているのは、お父さんが定期的にメンテナンスしてくれているからだ。
……帰ったら、ちゃんとお礼を言おう。
「そういえば、日葵がまた楽しそうに絵を描けるようになったのって、もしかして山田君が関係あったりする?」
「っ!?」
「ははぁ~ん、そういうこと~」
「な、な、な、なんで、それを……」
「日葵も覚えておきなさい。出戻りするとね、ご近所ネットワークであっという間に噂が広がるの」
「~~~~~! い、行ってきます!」
最後に知りたくない情報を入れられたせいで、私は顔を真っ赤にして通学する羽目になってしまった。
◇
昨日以上に嬉し恥ずかしな授業を乗り切り、昼休みとなる。
今日も虎太郎君と一緒の昼食だが、会話の内容は昨日よりも他愛のない内容になっている。
「そういえば、一限目の授業で何かコソコソしてたけど、何してたの?」
「そ、それは、えっと……、おにぎり食べてた」
「おお~、食べ盛りだね!」
「ち、ちが……、今日は、その、朝ご飯食べる時間なくて……」
正確には昨日の晩御飯も食べていないので、空腹に耐えられなかったのである。
……ちなみに、おにぎりは結構美味しかった。
お父さんが一人で作ったように言っていたけど、多分お母さんも手伝ったのだと思う。
「そういえば、確かに今朝はギリギリだったね。寝坊?」
「……ま、まあ、そんなとこ」
寝坊どころか寝ていないのだが、その理由を説明するのは色々とマズイので誤魔化しておくことにした。
「なんか、体調も悪そうだね。今日こそ学校案内を頼もうと思ってたんだけど、やめておいた方が良さそうか――」
「っ!? だ、大丈夫! 学校案内、す、する!」
流石に人の目がある時間帯に絵本を渡す勇気はなかったため、渡すなら放課後と決めていた。
なので、学校案内という口実がなくなってしまうと、渡すタイミングがなくなってしまうのである。
「そう? 今日は僕も放課後少し用事があるから待ってもらうことになっちゃうし、また後日にしても――」
「わ、私も少し用事があるから、そのあとにでも……」
「あ、そうなんだ。じゃあ、折角だからお願いしちゃおうかな」
よ、よし、とりあえず放課後に一緒に会う口実はできた。
あとはそれまで、しっかりと心の準備をしてこう……