第六話 あの絵本をもう一度
食堂前から離れ、神田さんの視界から逃れるように階段を上っていく。
元々あまり体力はないのですぐに息が上がったが、止まることなく屋上まで到達した。
「ハァ……、ハァ……」
「へぇ、屋上が開放されてるんだ。珍しいね?」
確かに今時屋上が開放されている学校なんて珍しいと思うけど、それはともかくとして虎太郎君はなんで息も切らさず余裕そうなのだろうか……
位置関係上私が引っ張るカタチになっていたとはいえ、同じ速度で階段を上ってきたというのに……
ひょっとして虎太郎、この見た目でありながら結構体を鍛えていたりするのだろうか?
だとしたら、まさに「ゲインロス効果」の化身のような存在である。
「……ねえ日葵ちゃん、さっきの話だけどさ、部活……、行ってないの?」
「……」
正直知られたくはなかったけど、あのやり取りを見れば余程の鈍感系でもなければ察することくらいできるだろう。
だから、あそこに神田さんが現れた時点で、状況としてはほぼ詰んでいたと言っていい。
「デリカシーなくてゴメンね? 僕、思ったこととか気になったことをすぐ口にしちゃうタイプでさ……。それもあって、実は今でも問題児のままなんだよね」
虎太郎君はそう言って「あはは……」と自嘲気味に笑う。
確かに記憶に残る虎太郎君は、感情表現が豊かな子だった……ような気がする。
それは言い換えれば、隠し事のできない明け透けな性格とも言える。
そういったタイプは誠実ではあるのだが、歯に布着せぬ物言いはトラブルの元にもなるので、問題児という表現もまあ間違ってはいないだろう。
ただ、それは結局受け取る側の性質や立場によっても印象が変わることなので、私からすれば問題視するようなこととは思えない。
むしろ、本音を隠したりお世辞ばかり言う人間の方が余程信用できないと思う。
……それに今の状況は、正直気遣われる方がしんどい。
あえて聞こえなかったフリをしてくれるのも優しさなのかもしれないが、当たり障りなく気遣われる方がキツイこともあるのだ。
「……もしかしてさ、日葵ちゃんもスランプだったりする?」
「え?」
私がどう答えるか考えあぐねていると、沈黙に耐えかねたのか虎太郎君が別の質問をしてくる。
その内容が私の回答候補とは全く異なっていたため、素っ頓狂な声が漏れてしまった。
「実はさ、僕も今スランプ中なんだよね」
「……えっと、それって、執筆のって、こと?」
虎太郎君は私の絵本を読んだことで、作家を目指していると言っていた。
恐らく、なんらかの文章作品を書いているのだと思う。
「うん。こう見えて僕、佳作とか特別賞みたいな小さな賞なら取ったことあるんだよ?」
「えっ!? す、すごい……」
つい最近コンテストで惨敗した身からすれば、入賞したというだけでも凄いと思ってしまう。
同時に、夢に向かってしっかり前進できていることに尊敬の念も感じた。
「ありがと。正直全然凄くないよ~……って言いたいところだけど、僕以外の賞を取った人達に失礼になっちゃうからね」
完全に一言多い系の発言だとは思うが、そこを理解している点はしっかりしていると思う。
つい最近も、優秀賞を取った誰かさんにコレをやられたので、私の精神はガリガリ削られた。
アレが意識的なのか無意識なのか、私には判断できないし、したくもなかったけど……
「僕が作家を目指したのは日葵ちゃんの絵本がきっかけだけど、モチベーションを上げてくれたのは間違いなくそういった成功体験だ。文章を書くのが楽しくて楽しくてさ、お陰で視力がガッツリ下がっちゃったよ」
「あ、だから眼鏡なんだ」
「そういうこと♪ コンタクトも一応あるけど、面倒だから基本的に眼鏡だね」
美少年のくせに見た目に無頓着というのが、ヤンチャ坊主だった頃の名残を感じさせた。
それにしても、成功体験か……
確かに、私もそれで絵を描くのが好きになったようなものなので、虎太郎君の気持ちは凄く理解できた。
何の実績もない私が共感するなんて烏滸がましいと自分で思わなくもないが、クラスで表彰されたり絵本にしてもらえたことだって、個人レベルでは十分な成功体験と言っていいハズだ。
ただ、それなら何故虎太郎君はスランプになんて陥ったのだろうか……?
「だ、だったらなんで、スランプなんかに?」
「まあ、理由は一つってワケじゃないんだけど、一番の理由はやっぱり両親の離婚かな」
「っ!」
正直、転校してきた理由についてはある程度察していたけど、改めて言われると少し胸が痛くなった。
記憶にはほとんど残っていないが、優しそうなお母さんが迎えに来ていたのは印象として強く残っている。
どうして、そんなことになってしまったのか――
「原因は親父の不倫でね。正式に離婚が成立するまでは、まあ酷い状態だったよ。いや、成立してからもしばらくは荒れてたかな。僕の名字が変わったのも、母さんの目にできるだけ山田という文字を入れないようにするためだったんだ」
「……? それって――」
「ん……? ってああそうか、普通は知らないか。離婚すると母親は原則として旧姓に戻るんだけど、子どもはたとえ母親に親権が移ったとしても別途手続きをしなきゃ名字が変わることはないんだよ」
「そう、なんだ……」
そんな決まりになっていたなんて知らなかった。
まあ普通学校で離婚の仕組みなんて習わないので、実体験でもなければ知ることはほぼない気がする。
「まあそんなこともあって、能天気な僕でも流石に凹んでね……、最近は中々結果が出ないこともあって元々少しスランプ気味だったんだけど、この件で完全に文章を書けるような精神状態じゃなくなってしまったんだ」
「……」
これも少し、共感できる話だった。
私は虎太郎君のように壮絶な体験をしたワケじゃないけど、自信を失い、コンクールで凄まじい敗北感を味わったことで、現在絵が全く描けない状態になってしまっているのである。
美術部をサボっているのも、主な原因はそれだったり……
そういう意味では、確かに私もスランプ状態と言えるのかもしれないか。
「でも、日葵ちゃんと再会できて、今は少し文章が書けるような気がしてるんだ。単純だと思うかもしれないけど、やっぱり僕は文章を書くのが好きだからね」
「……虎太郎君は――」
「うん?」
強いね、と言おうとしたが、口には出さずに飲み込んだ。
そんな風に言ってもらえてもモチベーションが上がらない自分が、酷く情けなく思えたから……
「……なんか暗い話をしちゃってゴメンね。でも、日葵ちゃんにはどうしても話しておきたかったんだ。僕にとって日葵ちゃんは尊敬する存在で、目標だったから」
「っっ!? わ、私が、目標!?」
「うん。昼休みの話では伝わらなかったかもしれないけど、僕にとってはあの絵本と、それを描いた日葵ちゃんは今でも変わらず輝いていて、目指すべき憧れの存在なんだよ」
「~~~っ!」
ここまで言われると、嬉しさよりも恥ずかしさや情けなさの方が勝ってくる。
だって、少なくとも今の私は、そんな風に憧れられるような存在じゃないから――
「それで、一つお願いがあるんだけど……」
「……?」
「もし、まだ残っていたらでいいんだけど……、もう一度僕に、あの絵本を見せてくれないかな?」