第五話 名前呼び
午後の授業でも相変わらずドキドキさせられる瞬間はあったが、頭の中は冷静というか、別のことを考えていたからか大きく動揺はせずに済んだ。
考えていた内容とはやっぱり昼の小石川君の告白(?)についてで、正直疑心暗鬼に近い感情が胸の中を渦巻いている。
幼い頃の小石川君の言葉が私の将来の目標を決定づけたように、私の絵本もまた、小石川君の将来の夢を決定づけるきっかけとなった…………本当に?
私の絵本に、人の人生を変えられほどの影響力があった?
自分の才能に対する自信を失った私からすれば、そんなことはあり得ないという気持ちがある。
しかし、当時好きだった子に言われたたった一言の言葉で、人生の目標を決めてしまった私という例もある。
結局は受け取り手の感性次第ではあるのだが、それは言い換えれば波長の合う人間には劇的な効果があるという見方もできるのではないだろうか?
……我ながらポジティブな考え方ではあると思うが、実は私は元々ある程度前向きな人間なのだ。
今でこそ自己評価最低クラスの陰キャではあるが、元々私は絵を描くことが好きで周囲から褒められてきた経験もあるし、あんな風に言われてしまうと自己肯定的な感情がニョキニョキと芽を出してしまうのである。
つまり現在の状態は、後から植え付けられたネガティブ思考と、元から生えていたポジティブ思考がせめぎ合っている状態とも言える。
情緒的には、最悪な状態だ……
昔は表情を変えるのが苦手で無表情な子だと言われていたのに、今となっては無表情を保つ方が難しいというのだから笑える話である。
「……日葵ちゃん、さっきから大丈夫? なんか顔面痙攣してない? もしかして、疲れが溜まってるとか?」
「ダ、ダイジョブデス」
またしても読み上げソフト化してしまっているが、こればかりはどうしようもない。
反応できているだけ上出来だということにしておく。
結局、午後の授業はこんな状態のまま過ごすことになり、いよいよ試練となる放課後が迫ってくる。
私は事前にしたためておいたメモ書きを、誰にも見られないよう教科書で手元を隠しながら、素早く小石川君に渡す。
『一緒に教室を出ると面倒なことになりそうだから、食堂で落ち合いましょう』
『わかった』
小石川君はメモを読むとすぐに察してくれたようで、渡したメモに「わかった」と書いて返してきた。
落ち合う場所については一緒に昼食を食べた食堂を指定したので、余程の方向音痴でもない限りは問題無いハズだ。
「起立! ありがとうございました!」
学級委員の号令と同時に、素早く席から離脱する。
案の定人が集まり始めていたので、私の判断は間違っていなかった。
小石川君はあそこから自力で脱出しなければならないため少し可哀そうだが、私がいる方が状況が悪くなりそうなので致し方ない。
ということで食堂に来たのだが、どうやらウチの学校の食堂は昼休み以外の時間は開放していないらしい。
今まで昼休み以外に食堂に立ち寄ったことはなかったので、今初めて知った。
本当であれば食堂で水を飲みながらスマホでも弄りつつゆっくり待つつもりだったのに、完全に計算外である。
いや、別にここで待つこと自体は問題ないのだが、入れない食堂の前にいるのは正直ちょっと気まずい……
放課後にお腹を空かしてやってきた腹ペコさんと勘違いされる可能性もあるし、そうでなくとも「待ち合わせでもしてるのかな?」と思われそうな気がしてソワソワする。
実際待ち合わせをしているので間違いではないのだが、座って待つのと立って待つのでは、見られた際の印象が大分異なる……ような気がするのだ。
なんと言うか、その、デート感があるというか……
「お待たせ、日葵ちゃん」
「っ!? こ、小石川君!? は、早かったね!?」
え、ちょっと早すぎない!?
どんなスタンスで待つか考える間もなかったんですけど!?
如何に待ち人感を消すか――という方向に思考をシフトした瞬間に声をかけられたせいか、文字通り飛び上がるほどビックリしてしまった……
「転校初日で色々とすることがあるからって言ったら、あっさり解放されたよ」
「な、なるほど」
確かに、そう言われたら普通は退かざるを得ないだろう。
しかも、嘘はついていないから騙したというワケでもない。
そんな理由をパッと思いつくことからも、頭の良さというか、要領の良さが感じ取れた。
少なくとも私なら、そんな上手い切り抜け方はできなかっただろう。
「それにしても、日葵ちゃんから小石川君って呼ばれるのは、なんだか少し違和感があるね。できれば他の呼ばれ方がいいんだけど、ダメかな?」
「ほ、他の呼び方……? えっと、山ちゃんとか?」
「ハハッ、それはそれで不思議な感じがするかな♪ だって日葵ちゃんは僕のこと、普通に山田って呼んでたよね?」
「ま、まあ……」
確かに私は、子どもの頃小石川君のことを山田と呼んでいた。
周りのみんなは山ちゃんって呼んでたのに、なんで私だけ山田呼びだったのだろうか……
自分のことだというのに、理由が全くわからない。
「でも、今はもう山田じゃないから、流石に山田って呼ばれるのはちょっとな……。かと言って小石川って呼ばれるのも慣れてないし……、ということで、できれば僕のことは虎太郎って呼んでくれると嬉しいな」
「っ!?」
い、いきなり名前呼びするとか、難易度が高過ぎる!
それじゃまるで、恋人っぽくなっちゃうじゃない!?
……あ、でも、それを言ったら小石川君は最初から私のことを日葵ちゃんって呼んでたし、今更か?
「え、えっと、じゃあ、虎太郎君で……」
「うん、宜しく日葵ちゃん!」
謎のポジティブ思考であっさり名前呼びをしてしまったが、口に出した瞬間恥ずかしさでこみあげてき、メッチャ後悔した。
しかし、今更取り下げるのも――
「あれ? 吉澤さんと小石川君? どうしたの、こんな所で?」
「っ!」
「ん、ああ、神田さんか。これから日葵ちゃんに学校案内をしてもらう予定なんだ」
突然現れた神田さんに対し、虎太郎君は全く動揺せずに対応しているが、私は正直かなり焦っていた。
どうしてこんな所にはコッチのセリフなのだが、神田さんのことだから恐らく虎太郎君の跡をつけたのだろう。
本当に、厄介な人である。
「へぇ~、っていうことは吉澤さん、今日もサボりなんだ~?」
「…………」
「サボり……? ってああそうか、日葵ちゃんも美術部なんだし放課後は活動あるよね。もしかして、無理させちゃったかな?」
「無理も何も、吉澤さんは二学期に入ってからずっと――」
「だ、大丈夫だから! 行こう虎太郎君!」
神田さんがこれ以上余計なことを言い出す前に、虎太郎君の腕を引いて逃げるようにこの場から退散する。
流石に神田さんも追ってはこなかったけど、一瞬私を見る目つきが恐ろしく冷たくなった気がした。
後々何をされるかわかったものではないので、正直かなり恐ろしい。
でも、今はそれよりも、なるべく早急にこの場から離れたかったのだ……