陰陽師:飛鳥井シンジ
不定期連載になります。よろしくお願いします!
上空にはぶ厚い雲が渦を巻き、その中心に不気味に光る陣を描いていた。
二千二百××年。
――日本は未曽有の危機に瀕している。
黒雲に触発されたように雷が鳴り響き、大気を震わせていた。
鎮守の森には物々しい装甲車が詰めかけ、男たちが慌ただしく機械を並べて警戒態勢を取っている。
「金の君をお守りしろっ」
「陰陽師、配置に着け!」
「第一結界、展開っ!」
「了解。第一結界展開します!!」
装甲車には神祇省を表す三本足の鴉が付いている。そこから伸びた石柱が結界の展開を補助した。
その内側にいる陰陽師たちが祝詞をあげ、巫女が舞う。華々しい祭りに似た雰囲気だが、緊迫した空気が祭りではないことを示している。
雲から一筋の光が差し込み、神社を包み込もうとするのを、石柱で強化された結界が弾いた。
おお、と歓声が上がるのを男の声が叱咤する。
「次っ! 第二結界の準備だ、急げっ!!」
神官装束に太刀を佩き、冠を飛ばす勢いの彼に、スーツ姿の男が走ってきた。
「飛鳥井!」
「近衛! 来てくれたか……っ」
飛鳥井と呼ばれた神官装束の彼は近衛を見て、ほっと顔を綻ばせた。近衛は飛鳥井シンジが唯一ライバルと認めた男だ。実力はお墨付きである。
「あたりまえだろ……!」
近衛が飛鳥井を叱りつけようとした時、ズン、と地面が揺れた。地震の揺れではない。上空からの衝撃波だった。
はっとして見れば、第一結界にヒビが入っている。
「……近衛、第二結界を頼む」
「おう。お前は金の君のところへ行ってやれ」
飛鳥井の顔には焦燥と苛立ちが見て取れた。励ますように肩を叩いた近衛は、集まってきた神祇省の者たちに、俺の装束をよこせと叫んだ。
これが二人の、最後の会話になった。
「近衛様!」
赤い装束の集団に呼ばれた近衛はそちらに走っていった。また地面が揺れる。ちっ、と舌打ちした近衛が空を見上げた。
「この日ノ本の神が神隠しに遭うとは……。冗談じゃないぜ」
渦の中心から、禍々しい光が再び差し込んだ。
磨き抜かれた神社内は、揺れによって落ちてきた埃でところどころ白くなっていた。あちこちで物が壊れ、宮司や巫女たちが大急ぎで片付けている。
床に這い蹲るようにして陰陽師が結界陣を描いているのだ。ここで歪んだり間違いが起きてはたまらない。
「飛鳥井様! 結界は……!?」
「近衛が来た。第二はじきに完成するだろう。俺は第三結界に行く。金の君は?」
「飛鳥井様を待っておられます。なにとぞ、なにとぞ金の君を……」
宮司と巫女は、この神社が祀っている神に仕える、いわば使用人だ。結界を張れるほどの力はない。
飛鳥井シンジは、その神が見初めた婿だった。
もはや人間といっていいのかどうかもわからない存在。彼らにしてみれば、神と同じく仕える相手だ。
その婿君に縋らねばならない現状が悔しく、ふがいない思いを噛みしめていた。
「わかっている。嫁さん一人守れないようじゃあ男が廃る」
安心させるように笑って奥の殿に向かう飛鳥井は、腰の太刀を無意識に触った。
奥の殿の扉には、一枚の札が張られている。
扉といっても開かない仕組みだ。札に描かれているのは蜷局を巻く蛇、ここの神である。
迂闊に開けて神を目撃しないようにできているのは、それだけ危険だという証拠だった。
「金の君、大丈夫だ、何者にもあなたを触れさせん」
この先に行くことができるのはただ一人、婿である飛鳥井のみである。
扉の向こうに飛鳥井が話しかけると、ずるりとなにか大きなものが蠢いた気配がした。
「現在、神祇省の総力を挙げて結界を構築しております。相手が何者なのか不明ですが……。金の君、どうか何があってもこの扉を開けられませんように」
第一結界は鎮守の森を囲むように、第二結界は社殿を囲むように、そして第三結界はここ、奥の殿を囲んで展開中である。できるだけ相手の力を削ぎ、第三結界で押し返す計画だ。
日本は元より八百万の神のおわす国である。
自然信仰のみならず万物に神宿るという考えは、二千二百年代に入っても変わらなかった。むしろサブカルチャーと科学技術と祭り好きな民族性により、神はより身近な存在となってそこにいた。
神が目に見えるようになったのである。
これには二千二百十五年に起きた大震災により富士山が噴火し、日本中の霊脈が刺激されたせいだが、目に見えるようになったのにはある者たちの存在があった。
古来より神に仕えてきた人々の末裔――陰陽寮である。
天文を司り神々を守ってきた秘密主義の彼らが立ち上がり、日本各地にあった結界を復活させるべく御柱をたてた。霊的技術と科学技術の融合により神や妖が顕現し、人々の目に映るようになったのである。
霊的要素のある者には覿面であった。信仰を取り戻した人々の祈りにより神が復活し、日本は物理的経済的に沈没することを免れたのである。
ちなみに神が顕現したことは、海外から「クレイジー国家日本」「HENTAI発祥の地」「オタクの神髄を見た」と散々な評価だった。いっておくが文字が伝来する以前から日本という国には女装や擬人化がすでにあった。つまりは今さらというやつだ。当然誰も気にしなかった。沼に引きずり込むのが日本人である。
そんな人々の身近になった神や妖が攫われる事件が続出したのが二年前。まさか神が誘拐されるとは夢にも思わず、神祇省(これは神の顕現により陰陽寮を正式に官僚とするために生まれた省だ)は完全に後手に回った。
いなくなった神はいずれも人と親しんできた和魂だ。自分から神域に帰ったのならひと言くらい残していくだろう。
そしてなにより――神が消えた同時刻に、怪しげな雲が上空に渦巻いていたという目撃情報が相次いでいた。
そう、まさに今、起きているものと同じ雲が、我らが神を攫っていっているのだ。
「はっ。三百年ぶりの戦争が神を守るものだとは……陰陽師冥利に尽きるというものよ」
飛鳥井の呟きに、扉がカタリと揺れた。
――バキンッ。
不吉な音がして、結界が割れた。
「第一、第二結界が破られましたっ!!」
悲痛な叫びと共に、暴風が圧となって飛鳥井の黒髪を巻き上げた。
飛鳥井が太刀を抜く。
銘「一文字」の太刀は飛鳥井の霊力を受け、濡れたようにきらめいている。足に力を籠め、刀を構えた。
彼は霊力を磨くため、様々な鍛錬を積んだが、刀術が一番性に合った。
付喪神の宿る血を吸った日本刀と共に、流派を渡り歩いたものだ。
それもこれも、神の婿君に選ばれてしまったからである。
若い頃は逆らって人間の女と付き合うとしたが、相手がことごとく不幸な目にあるのを見て、諦めた。
生まれながらに持つ膨大な霊力と秀麗な見た目、声にまで霊力が宿る飛鳥井はすでに人の枠を超えていたのだ。
神は嫉妬深く、執念深い。それでいて飛鳥井に嫌われまいと加護を与えているのだから可愛いではないか。
そして何より良いのは、神は裏切らないことだ。飛鳥井の力を恐れず、飛鳥井一筋に想ってくれる。こんな女を好きにならないはずがない。
金の君は神であるが、飛鳥井の前ではただの女だった。ほだされたのだ。
だから。
「第三結界、展開っ。陣を押し返せっ!!」
ミシミシッと床が軋んだ。
上空から何者かの咆哮が響き渡る。
押し返そうとする力を、さらに強い力で潰そうとしてきた。
飛鳥井は、すぅ、と息を吸い霊力を調えた。
「――夜を照らすは鋼の月」
ビシッ、ビシッ、と第三結界にヒビが入った。
第一結界で力を削ぎ落されたはずなのにこれか。あの近衛が構築していた第二結界を破って第三まで突入してきた侵入者に、飛鳥井の額に汗が滲んできた。
相対する侵入者は、もしやいずこかの神かもしれない。
けれど、負けるわけにはいかなかった。日ノ本の守護たる神に、これ以上手出しはさせない。
なによりこの先にいるのは、彼の大切な妻なのだ。
「我が眼は星となりてすべてを見通す。我が魂は刃となりて其を滅ぼさん」
眉間にある第六チャクラを解放し、霊力を一文字に集中させる。
ビシッ!
ひときわ大きなヒビが開くと同時にガラスが砕け散るような音を立てて結界が破壊された。
ぐわっと巨大な手が金の君を捕らえようと伸びてくる。
「夜刀流、六ノ形。六芒星滅消剣!!」
夜刀流には六までの形がある。
一ノ形から六ノ形まで、それぞれのチャクラを回して霊力を練り上げ刀に流す。飛鳥井が編み出した陰陽と刀術を融合させた技だ。
六芒星滅消剣はその最終奥義といってよい。眉間にある第六チャクラまでを解放し、剣筋に光を描いて敵を閉じ込め消滅させる。まさしく必殺の一撃だ。
金の君を守るために編み出した奥義である。失敗すれば命はないだろう。彼自身、実戦でこれを使うのははじめてだった。
ちなみにチャクラは七つある。七ノ形は禁じ手として金の君の許可が必要だった。人の身には余る力だからだ。
「くらえっ!!」
流星のように刀身が舞い、六芒星を描いて『手』を閉じ込める。籠目の中心目掛けて飛鳥井が飛び込んだ。
閃光が手の平を突き抜け、世界が光りに包まれた。
………………。
…………。
……。
「ヴィルヘルム!」
バシッといきなり頭を叩かれた。
目を開けると、俺を産んだ女が鬼の形相で睨んでいる。手には扇。おそらくそれで叩かれたのだろう。
「……なんでしょうか、奥様」
「こんなところで寝ていないで、水汲みでもしてきなさい!」
「はい」
寝ていたわけではない、瞑想をしていたのだ。そう言っても無駄なので大人しく立ち上がる。
森の中で瞑想すると気分が違うのだが、それがわからないらしい。憐れむような目が気に食わなかったのか、きりりと目を吊り上げた女がまた喚いてきた。
叩かれたところで痛くはないけれど、腹は立つ。なにより醜悪な顔を見せられると気分が悪い。
あの時、俺は死んだのだろう。飛鳥井シンジは何の因果か転生して、ヴィルヘルムと呼ばれている。
奥様の去っていった方角には中世ヨーロッパを彷彿とさせる城が立っていた。見渡す限りの景色がこの家の敷地だというのだから恐れ入る。俺はその長男として生まれた。しかし家名を名乗るのは許されなかった。
理由は、俺が魔力を持たないからだ。
魔法のある……おそらく異世界。文字は俺の知るどの言語とも違っていた。もちろん、世界を探してみても日本という国はどこにもなかった。
何の因果か、といったけどそれもわかっている。あの時俺は金の君を攫おうとする『手』と戦った。死んだ記憶はないけど死んだのだろう。そして俺の魂は、金の君の代わりに攫われたのだ。
誘拐犯の世界だ。日本から攫われた神と妖はきっとここにいる。だったら俺のやることは一つだ。
攫われたものたちを取り戻して、日本に帰る。
……まあ、その前に殺されそうだけどな。
井戸はやたらでかくて無駄に広い城の裏側にある。ものすごく遠い。しかもあまり使われないものだから古くて危険だった。水は魔法でいくらでも出せるのだから嫌がらせ以外の何でもなかった。
こんな調子でもう十三年経つ。よく生き残れたと我ながら思う。
魔法のあるこの世界では、魔法がすべてだ。貴族なら特に魔法の強さがそのまま爵位の高さに繋がる。
魔法を持って生まれてきた子供は感情を制御できずに魔力暴走を起こすことで魔法の発露を親に知らせる。俺はそれがいっさいなかった。
赤子のうちはまだ魔法に目覚めていないだけ、と俺を産んだ女も自分に言い聞かせていたらしいが、魔法の勉強を本格的に開始する六歳になり、正式に鑑定されて、魔力無しが判明した。
俺には感じ取れないが、魔力とは周囲に漂う魔素を自在に操る能力のことをいう。操る魔素が多ければ多いほど強い魔力を持ち、より大きな魔法を使えるというわけだ。
それを聞いた俺はなぜ魔力がないのか納得した。
俺は陰陽師だ。術は自分の霊力を使う。神や妖の力を借りる時はきちんと形式立てて祝詞をあげ、供物を用意してお願いする。見えないからと勝手気ままに搾取して酷使する魔法とは違うのだ。
とにかく魔力無しと判明した俺は家から名前を削除され、今まで一応されていた若様扱いはなくなった。お情けで置いてもらっているが部屋は城から納屋に移動させられたし、勉強も社交も取り上げられた。
一番ひどいのがあの奥様で、母と呼べばとたんに魔法か手が出てきた。
どうやらこの家は、彼女の魔法で出世したらしい。家で一番偉いのが彼女なのだ。その奥様に疎まれている魔力のない長男なんて予想外、家の恥にしかならなかった。そんなの日本にだってあった。特に珍しい話ではない。聞くのとされるのとは別だが、座敷牢に閉じ込められるよりましというものだろう。
しかし、仮にも我が子、兄弟を殺そうとするのはいかがなものか。あわよくば、と思うのはしょうがないとしても、それなら養子に出せばいい。あるいはどこかの孤児院に捨てるとか。それも駄目っていうのだから異世界の常識はよくわからなかった。
「よいしょっ、と」
井戸の中に釣瓶を落として持ち上げていると、背後で魔法の気配がした。振り返ることなく手を放してしゃがみこむ。
ごうっと音を立てて突風が吹き抜けていった。
「ちっ」と舌打ちして去っていったのは繰り上がり当選確実になった実弟――若様だ。
ちなみにもう一人姫様もいて、こいつも殺意高い。今はもう名前で呼ぶこともできなくなった弟妹だが、こんなに簡単に人を殺そうとするなんて、君たちの将来が心配ですよ。
「やれやれ。もう一回やり直しだな」
鶴瓶が落ちてしまっている。太いロープをえっちらおっちら持ち上げて、水瓶に流し込んだ。
そこに、様子を窺っていたらしい、白い獣が擦り寄ってくる。
『なあなあ、アイツ、やり返してこようか?』
そんなことを言うこの子の正体はカマイタチだ。俺より先にこの世界に連れ去られ、ずっと隠れ住んでいた、日本でも馴染み深い妖怪である。
名前は疾風丸。名前が欲しいというので「ノロイ」はどうかと提案したのだが、それはなんか最終的にやられちまいそうでヤダ、と却下された。速さが売りのカマイタチに鈍いとは何事だ、と憤っていたがそうではない。白いイタチといえばノロイと相場が決まっているのだ。しかし本人の希望もあって「疾風丸」になった。こっちのほうが漁船みたいだと思うのだがどうだろう。
「いいよ、別に。いつものことだし」
『だけどよう。オレらのアスカを殺そうとしといて、あれでも弟かよ?』
前世の名前を教えたら疾風丸はアスカと呼ぶようになった。俺も前世の意識が強く、ヴィルヘルムという名に執着もない。
疾風丸との出会いは敷地内の森の中だった。ある日瞑想していたら、霊力を感知した疾風丸が仲間かとやってきたのだ。
まさか人間の魂を攫って転生させたとは想像していなかったらしい、たいそう驚いていた。懐かしい、故郷の友である。
「んー、たぶんだけど、俺が疾風丸たちを取り返そうとしているのを本能的に感じているんじゃないかな。魔法が使えなくなるのは死活問題らしいし」
『むかつくな。あいつらのせいでオレ様の毛並みが乱れてるんだぜっ』
ぷんぷん怒る疾風丸は、この世界では精霊に分類されるらしい。そこにいるだけで魔素を生み出してくれる存在だ。
だが、疾風丸にしてみれば風の魔法が使われるたびに断りなく毛を毟られているようなものだという。魔法の使い手が近くにいたり、強い魔法を使われると、それが顕著になるそうだ。さっきの魔法は初級の風魔法で、そのせいか毛並みがぼさぼさになってしまっている。
「疾風丸でそれなら、他の神はどんな扱いをされていることか」
疾風丸は攫われた時、あの手からするりと逃げ出すことに成功した、野良カマイタチだ。どこにも誰にも縛られずに済んでいる。
カマイタチという自然現象から生じた妖だったのが幸いした。風の精霊にされただけあって、捉えどころがなかったのだろう。
『社持ちは祀られてねえときっついからな。下手すりゃあ使い潰されてるかもしれねぇぜ』
「日本と差がありすぎる。というか、異世界で本来の力を発揮できるのか?」
『馬鹿言え。無理矢理魔法とやらにされてるんだよ。オレ様だって腹立ってんだ。名のある神なんてさぞやお怒りだろうよ』
「うわぁ……」
強引に攫われ、縛りつけられ閉じ込められて力を奪われた神が、解き放たれた瞬間どのような報復行動に出るのか想像し、乾いた笑いが漏れた。
日本の神は、基本的に復讐大好きである。
恨みを買えば祟るし呪う。何もしていなくても祟る。なんならむしゃくしゃしている時にたまたま通りがかったなどというとんでもない理由で呪うこともある。
その代わり、一度でも愛されたらそれこそ骨までしゃぶるように愛するのが日本の神だ。死んだからといって手放すどころか、これ幸いと神域に連れ込む。
『アスカに付いてきゃ日本に帰れるのは間違いないな。金の君の加護となりゃあ他に捉われてる神も妖も安心するだろうぜ』
「あ、やっぱりわかる?」
『そりゃあな』
今の姿は金の髪に金の瞳という、金の君そっくりの容姿だ。安心すると同時に異世界でも逃げられない神の執着に背筋が薄ら寒くなる。
そうする予定だった男を横から掻っ攫われた神の怒りはいかばかりだろう。この世界がどうなろうと知ったことではないとはいえ、ここまでされるととばっちりが来そうだ。早く帰らないと。
『愛されてるねぇ。日本だったら足跡から稲穂が伸びてくるだろうに、もったいない』
「生神様かよ」
この世界でそんなことになってみろ、家どころか国家ぐるみで囲われて救出に旅立つこともできなくなる。
そう言うと「それもそうだな」と疾風丸が神妙にうなずいた。
「さて。そろそろ水を台所に持っていかないと。奥様に叩かれる」
『気を付けろよ、アスカ。オレ様もみんなのこと、調べてくる』
「ああ、頼む。疾風丸も捕まるなよ」
ぴゅうっと風が吹き抜けた。さすがはカマイタチだ、もう見えない。
カマイタチは風を操る妖だ。耳がよく、風の噂を集めてくる。
俺のほうはそろそろ捨てられる気配を感じていた。一つ違いの弟は魔法で実力をつけて学校でトップだというし、妹は外面の良さから早くも見合い話が来ているらしい。俺がいなくていい状態が固まってきているのだ。不幸な事故かなんかで死んだことにして放逐されるという話を聞いた。
一応これでも長男だったので、いろいろと情報は入ってくる。奥様旦那様新若様に姫様は使用人なんて話もろくにしていなかったが、実際に家で働いている人を無下にするとしっぺ返しがあることを知っている俺としては日々の働きに感謝していた。貴族の嫡男(当時)がそうするのは非常に珍しいことだったのか、奥様に見えないところでは今でもやさしくしてくれる。やはり感謝はしておくものだ。
「水汲んできました」
大きな水瓶を抱えながら台所に行くと、休憩中らしき下働きのおっちゃんとおばちゃんが手伝ってくれた。
「あらまあ、ここまで大丈夫だった?」
「うん」
「坊、おやつあるから持って行きな」
「ありがとうございます!」
おやつは定番のクッキー。ただし、奥様達に出されるようなご立派なものではなく、余った生地を焼いただけのものだ。どちらかというとボーロに近い素朴な甘さ。
どうせ夕飯は今日もないとわかっているのでハンカチに包んで持ち帰ることにする。このハンカチも六歳の頃に買ってもらった物なのですでにぼろ布だった。鑑定の日以来、俺に新調された物はなかった。服や、下着でさえ誰かのお下がりという有り様。さすがに下着は嫌だったので、リネンをちょろまかして褌を作っている。
「……どうしたの?」
オーバーオールのポケットにボーロを入れたところで、なにやら気の毒そうにもの言いたげにしているおっちゃんとおばちゃんの目に気が付いた。
「ミル坊、そのな……」
俺の名前はヴィルヘルムだ。ミル、というのは奥様が命名したニックネームで「ごみ」という意味らしい。捨てる予定の子供はそう呼ばれている。
「その、いつ家を出されてもいいように準備はしておきなね?」
微妙な半笑いでおばちゃんが言った。
ピンと来た。下働きというのは基本なめられているのでよく愚痴吐き場にされているのを見かける。奥様や旦那様は無視するだけなので、そうした一家の態度に晒されているメイドや執事が彼らに言い捨てるのだ。告げ口される心配のない下働きは最下層、視界に入っていても目に留まることはない。
「うん、大丈夫。ありがとう」
恥知らずがようやくいなくなるわ、とでも聞いたのだろう。魔法を使えない、ろくに教育もされなかった子供の行く末を案じてくれたのだ。
俺にあてがわれた納屋に戻り、さて、と考える。
ここにはベッドとたんすくらいしかなく、仕方がないので煮炊きできるよう竈を作ってある。
魔法は使えなくても俺は飛鳥井シンジ、だてに陰陽師だったわけではない。山伏も真っ青の修行をこなし、何も持たずに山に籠ってサバイバルもした。眠らずに真言を唱えながら山道を歩き滝に打たれ、水だけで過ごしたこともある。そうして鍛えないと金の君の霊圧に耐えられなかったからだがそれがここでも役に立った。やってて良かった修験式。
「とりあえず米と味噌と醤油はあるし、糒を作っとけば数日はもつな」
稲は敷地の池に自生しているのを見つけた。ここでの主食はパンなので大麦と小麦はそこら中で栽培されているが、米は水辺で小鳥が啄む雑草扱いだったのが泣ける。
大豆は普通に畑で植えられていた。近くの村で収穫を手伝う代わりに分けてもらい、納屋の近くに畑を作って栽培している。
塩は台所から壺ごと取ってきた。そして詰め替えている。いきなりごそっと減るから俺の仕業だと気づいているだろうけど、他の物には手を付けていないから目こぼしされている。というか、一度不憫がったメイドに貰ったやつが毒入りだったので俺を消す手段として残してあるのだろう。毒入り塩は中身だけすり替えさせてもらったけどな。
「魚は干したのと塩漬けが両方ある」
魚は敷地内に流れている川で釣っている。味噌汁が飲みたかったのだ。
運が良かったと思えたのは、このファンタジーな異世界でも食べるものが変わらない、という点だ。
神が攫われたことを考えると、あちらの世界を模倣したか、輸入でもしているのかもしれない。そう考えると日本への帰り道も必ずどこかにある。たとえ一方通行であっても道があれば通れるはずだ。
「……いや、今はそれより家を出た後のことだ」
とりあえず、飯が確保できれば数日は生きていける。近くに村があるし、そこから別の町に行って必要な物を買い足そう。
村の手伝いで少しずつ稼いだ銅貨と、この家でこっそり拾い集めた宝石の付いたイヤリングなどを換金すれば宿にも泊まれるだろう。宝石は盗品といって差し支えないが今までの慰謝料と養育費代わりだ。ちっとも心は痛まない。
「なんとかなると思うけど、一がいないのはきついな」
『贅沢言うなって。そっちの木刀だってたいしたもんだぜ』
夜中に帰ってきた疾風丸にぼやく。一というのは最期まで手放さなかった一文字太刀のことだ。古い付喪神は俺にとって剣の師匠でもあった。
刀がないのは心もとなかったので木刀を作った。飛鳥井の紋も不格好ではあるが彫ってあり、霊力を流しやすいようにしている。
黙って家を出なかったのは、縁切りを済ませておきたかったからだ。この世界の縁がどのようなものかわからないが、血縁、親子の縁というのはあなどれない。親の因果が子に報う、という言葉があるように、どこをどう辿って還ってくるか読めないのだ。
だからこそ、双方の合意を持って縁切りをしておく必要がある。俺が家を出た後でやっぱり帰ってこいと連れ戻そうとしても、できなくしておくわけだ。
『さっさと申し出れば良かったのに』
「向こうに捨てたって思わせることが大事なの。上手く話を持っていけば手切れ金貰えるかもしれないし」
『ちゃっかりしてるなぁ』
そんなことを言っていた翌日、家令に呼び出されて「今日中に出ていくように」と告げられた。
数年ぶりの城内はもはや馴染みのないものになっていた。応接室には久しぶりに顔を合わせるというのに敵意を隠そうともしない奥様と、我関せずの旦那様。よほど嬉しいのかにやにやと笑っている若様と姫様が揃っている。
綺麗なドレス、仕立ての良いスーツを着た彼らと、古着のシャツにオーバーオールの俺。これが血の繋がった家族なんて誰も思わないだろう。
金の髪は同じだが、若様と姫様の瞳は青い。金の瞳を持って生まれてきた長男に、奥様はたいそう期待していたらしい。妊娠中も奥様の子供ならさぞや強大な魔力を持っているのだろうと言われたのだとか。
それが生まれてみれば魔力無し。奥様がどれだけの屈辱を味わったのか、それがそのまま俺への憎悪になっている。
一言も口をきかない家族に代わり、家令がじゃらっと重たげな革袋を差し出してきた。
「これは餞別です。金貨五枚、銀貨三十枚、銅貨五十枚」
偉そうに言って手渡されたが……見た目に比べて軽すぎる。
「ありがとうございます。確認しますね」
「えっ」
革袋を開けて中身をテーブルにぶちまける。ぎくっとなった家令が目を反らした。
「……銅貨十枚と、あとはなんですか、コレ」
「……っ」
コインっぽくなっているけど貨幣ではない。銅貨は俺も見たことがあるから知っている。きちんとした貨幣にはこの国の始祖と紋章が刻まれている。
どうせ中身を見ずに喜んで受け取ると思っていたのだろう。中抜きしたか、それともはじめから、渡すつもりがなかったか。
「栄誉ある伯爵家が、追放するとはいえ長男に偽のお金を渡すとは、ありえませんよね? これでは家を出ていくわけにはいきませんよ」
六歳以降、いっさい外に顔出ししていなかったとはいえ、長男が生まれたことは他の貴族だって知っている。お披露目だってしたし、魔力鑑定では教会に行ったのだ。魔力無しを馬鹿にされた、と奥様が発狂していたしな。この上長男を騙して捨てたとなれば恥の上塗り、物笑いの種だ。
「ぐっ。し、しかし、これは奥様が用意されたもので……」
「奥様に責任転嫁するのはどうかと思いますよ? 仮に中身が入れ替わっていたのなら、それをフォローするのが家令の役目でしょう。自分で確認もしなかったのですか? これは誰かが奥様の名誉を傷つけようとした、れっきとした侮辱ですよ」
ぐたぐだ言わずにさっさと行け、と言うのを封じ、出ていってやるから出すものを出せ、と跳ね返す。ついでにねちねち煽るのも忘れない。
ぎりっと奥歯を噛んだ家令が、近くに控えていた執事に今度こそ本物の金を用意させた。偽物ではないと示すように、小奇麗なトレイに乗せて。
「はじめからこうしておけば余計な手間などかからなかったのに」
「…………」
一枚一枚じっくり確認しながら皮肉れば、家令の目の奥に怒りが灯った。
「……どちらが慈悲だったのか、思い知れ」
家族に捨てられ頼りの金も偽物だったと知り自死か野垂れ死にか、暗殺者に怯える日々か? 悪いがどちらもごめんだな。
「それではこれで縁切りということでよろしいでしょうか?」
「ああ」
金を入れた袋をポケットにしまい、改めて訊ねる。
返事をした家令を無視して奥様を見た。
「俺は今後家名を名乗らず、ヴィルヘルムの名も捨てる。代わりに不干渉を約束してもらいます。よろしいか」
あいかわらず凄まじい目で睨んでくる奥様は、忌々しげに眉を寄せ、うなずいた。旦那様と若様と姫様も悔しそうに睨んでくる。
「二度と顔を見せないで。ヴィルヘルムなどという子供は当家にはいないわ」
ふっと肩が軽くなった。縁切り成功だ。契約は成った。
「その言葉、忘れるな」
いや、それは俺のことだな。俺はけして忘れることはないだろう。この一家と、縁切りしたことを。
俺が泣いて「捨てないで」と縋りつかなかったのが彼らには不満らしい。馬鹿だな、と呆れてしまった。
自由を縛られた地獄と、自由な地獄なら、誰だって後者を選ぶ。そもそも俺にはこいつらを家族だなんて思ってすらいないのだ。異世界の、醜い簒奪者の貴族。それだけ。
いやはや、魔法が使えないというだけでさんざん虐待しておいて泣いて縋れとは、はは、馬鹿らしい。
若様が悔し紛れに放ってきた魔法をひょいっと避けて部屋を出た。ぎゃあぎゃあと焦った声がドアの向こうから聞こえてきたが俺のせいじゃないぞ。室内で火を放てばどうなるかくらい予想がつくだろう、バカ様め。
『あっという間に契約違反するとは思わなかったな』
納屋から米、味噌、醤油を引き上げ、下着などの必需品を布でくるんで風呂敷よろしく背中に背負って屋敷を出た。木刀はオーバーオールのベルトに差してある。
肩に乗ってきた疾風丸を撫でた。ばっかでぇ、とゲラゲラ笑っている。
「不干渉の意味がわからなかったのかもな」
単なる口約束ではない。金の君と繋がっている俺との、神の眷属との神前契約だ。破れば天罰覿面である。
『アスカ、ここから西の街道を行った先にシーデンスっていう港町がある』
笑いを止めた疾風丸が一転してきりっと言った。
「シーデンス?」
『ああ。そこの商家がここ最近で急激に栄えているらしい。……気にならないか?』
「福の神か? 商売繁盛の神といったら恵比寿か稲荷か……」
日本はいろんな神のごった煮だから見当がつかない。本来ではないご利益を銘打たれた神社もあるくらいだ。
「待てよ。商家って言ったな?」
『ああ。しかも商売敵が不思議なことに次々潰れてるって話だ』
「なんだ、それは」
そんなおっかない神は……いるな、うん。
『オレたちと同じだと思うか?』
疾風丸は自信なさげだ。
気持ちはわかる。神にしろ妖にしろ、日本生まれは人好きだ。理由もなく不幸を撒き散らすなどと思いたくないし、操られて自我を失くしているかもと思えば哀しくなる。
同郷の仲間だ。それがこちらの世界に染まっているなんて思いたくなかった。
「わからない。とにかく行ってみよう」
元よりそのつもりだったのだ。
荷物を背中に担ぎ、木刀は左腰に下げていつでも抜けるようにした。木刀はわざと重くしてある。鞘はないが鍔が付いているのでベルトで留めておけばいいだろう。
「暗殺者が来るだろうから、このほうが安心だな」
やっと自由になった。
西の街道は、城の周囲こそ整備されていたが村が近づくにつれ泥と砂利まじりのものになっている。魔法があってもこういうところに金をかけないのは領主として失格だ。日本の昔の政治家はおらが村に橋や鉄道を通すためにそれこそ命がけの直訴を起こした人がいるというのに、情けない。
村を抜けて道が森に入ると、さっそく矢が飛んできた。カンカン、と木刀で叩き落とす。
「他に誰もいないとはいえ白昼堂々襲ってくるとか。あの家にはアホしかいないのか?」
『物騒道って噂流してやろうぜ』
疾風丸が肩から地面に降り立ち、矢の方向目掛けて走っていった。
カマイタチは三匹一組の妖怪だといわれている。
一匹目が人を転ばせ、二匹目が人を斬りつけ、三匹目が薬を塗る。今ひとつ何がしたいのかよくわからない妖怪だ。
実際はあまりの速さに三匹いるように見えるだけだ。いわゆる「残像だ」というやつである。
疾風丸が走っていった先から「ぎゃあっ」と悲鳴が聞こえ、矢が止まった。しばらくして白いイタチが戻ってくる。
魔法は使えるくせに、ここの人たちに疾風丸の姿は見えない。見えないモノに切り付けられるのはさぞかし恐ろしいだろう。天罰だと思ってくれればいいが。
『やってやったぜ!』
「お疲れ、疾風丸」
肩に乗った疾風丸から血の匂いはしなかった。返り血もないことにほっとする。
それが伝わったのか、疾風丸が眉を下げた。
『アスカは死穢が苦手だろ? 殺してないって』
「そっか……。ありがとな、疾風丸」
『いいってことよ!』
殺したくない、という思いはもちろんあるが、陰陽師にとって死は穢れだ。神や妖にとってもあまり良いものではない。穢れが溜まると和魂が荒魂に変じ、祓うのが大変なのだ。
『とりあえず動けないようにしといたけど、やつらの荷物はどうする? 取ってくるか?』
「いや、いらない。下手に持って行っていちゃもんつけられたくない」
『そうか』
ただし矢じりは持っていく。もしかしたら毒が塗られているかもしれないと思うとわくわくした。
――後日、手足を切り落とされたが血の痕すらない奇妙な事件の話を聞いたが、俺たちには何の関係もないことである。
おなじみの妖怪や神様を出そうと思ってます。楽しんでいただければ嬉しいです。
必殺技って考えるの嬉し恥ずかしですね。私の中の十四歳が何度もダメ出ししてきました……。