名もなき花
さる行商人が、森の中で馬車から、一粒の種を落としていきました。
黒く小さな種は、やがて森の中で、見たこともない美しい芽となりました。
森の植物、木や草花、動物、小鳥、虫、風、谷、石、はそのような美しい芽を見たことはありませんでした。
森中が騒然となりました。
周りを囲む木々や、草花はもちろん、空を飛び交う鳥、地面を這う虫が、美しい芽の話を、遠くの谷や、岩や、石、草花に話して聞かせました。
森の南、小道のまたその奥に、なんとも美しい芽ぶきが生まれたとか。
どこにもない、青々しく可愛らしい芽だとか。
いや、実は舶来の方から、運ばれてきた、非常に稀な花の芽だとか。
花が咲いたら、それはどんな花だろう。白いのか、桃色か、草色か、それとも紫か。
きっと花も美しく、素晴らしいものに違いない。
皆噂はそれぞれ好き勝手なものでしたが、芽を目に出来るのは周りを囲むほんの僅かな木々と草花と鳥と虫たちです。森中のものたちが、その美しさを一目みたいと、根の生えた己の足を、動けない身を、この時ばかりは恨まずにはいられませんでした。
やがて芽も成長し、りっぱな青い茎に、大きな紅のつぼみが灯りました。
ああ、やっぱり赤、紅だわ。ほら、あたしの言ったとおり。あたしの言ったとおりね。
花は己の美しさに惚れ惚れとし、頬をいっそう赤く染めました。
ええ、さようです。赤い、美しいつぼみです。あなたの言ったとおり。
そうよ、だって自分の色ですもの。あたしね、あたしがなんという名前で、どこからきたのかなんて、知らない。でも、色は覚えていてよ。きっと紅に違いないと踏んでいたわ。だって、あたしには紅が一番似合うもの。
さようです。あなたには赤が一番お似合いです。
花に滋養を捧げる土は、従順に同意します。
ねえ、もっと水をちょうだいな。もっと、もっと、あたし、瑞々しく、美しくなるよう、水を吸い上げたいの。
ええ、ええ。どうぞ存分に、お吸いくださいまし。
すっかり森中の噂を虜にした花は、美しい、可愛らしいと崇めてくれることに、誇りを持っていました。ですから、どんなことをしても、美しく、可愛らしい、誰もが惚れ惚れするような花を咲かせようと、必死で装いを整えていました。
もうすぐなの、もうすぐつぼみが開くわ。ああ、楽しみで仕方がない。どうして、こんなにつぼみが閉じきっていられるのでしょう!
豊満な、潤沢な花を咲かせますよう、つぼみが英気を貯えておいでですわ。もう少し待てば、……。
かたいつぼみも、それから日が三度訪れた朝、土のおかげか、ようやく大輪の紅の花を咲かせました。
やはり、誰も見たことのない、なんとも豪華で花やかな出で立ちでした。
森の背景にはいささか目立ちすぎるほど、その存在は皆を魅せ、夢中にさせました。
美しい、見事だ、見たこともない、真っ赤に燃えるようだ、素晴らしい。
その花の美しさは、森中の誰もが、知る事となりました。花は嬉しくなりました。
しかし、やがて、美しかった花も、何枚も重なる赤いはなびらが、地面にはらはらと舞っていきました。
そのはなびらを見るたび、花の根をはる土は、悲しそうに花を見ました。
やめて、風よ、あたしのはなびらを、散らさないで。どうか、お願いよ。土よ、そんなに悲しそうな目をしないで。あたしはまだ美しいわ。まだ、まだ、美しさを手放すわけにはいかないの。ねえ、お願いよ。風よ、止まって!
俺は、風など吹かせていない。俺のせいで、散っているわけじゃぁない。それはお前さんがよく分かっているはずさ。俺が吹かずとも、お前さんは、散ってゆく運命なのさ
風の言葉に花は絶望しました。
あたしが、散る? あの森で美しいともてはやされた、このあたしが? 散る? まさか。ああ、散ったら花はどうなるのだろう。散ったら、葉が枯れ、茎が枯れ、渇き、朽ち、土になるのだろうか。ああ、まさか、そんな、恐ろしいこと。
花の恐怖を感じ取ったのか、土が優しく、諭す、口調で言いました。
皆、そうなのですよ。皆、芽ぶき、花を咲かせ、やがて土になります。だから、心配しないで。あなたもそうなるだけ。
その言葉に、花はぞっとしました。
皆! 皆! このあたしが、皆と同じと言うの!? いいえ、あたしはまだ美しいわ。まだ、まだ、枯れたりしない。種も残せず、枯れ果てて、土になって、皆に忘れ去られるなんてこと、どうしてそんなことが出来ましょう! どうして、そんなことが……。
花はまた、自慢のはなびらが一枚地面に落ちることに気付きました。くすんだ紅でした。もう、何もかもが遅いのだと気付きました。
あなたと別れるのはつらいけど、これからも、ずっと一緒です。あなたはわたしの一部で、わたしはあなたの一部となったのだから。
ああ、醜い姿になるのだけは、皆に見られることだけは、どうしても耐えられない。ああ、いっそ一思いに、手折ってくれ、一思いにあたしを殺して。
涙ながらに、散ってゆく花が何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、懇願するので、土は風にお願いして、カマイタチを吹かせ、花を引き裂きました。
地面に落ちた花は、満足げに土を見て、それを見た土は、やはり、涙を流しました。
わたしももとは花なのです。白い、凡庸な花でした。けれど、皆、楚々として心が和むと言ってくれました。それからやがて、土になりました。私は私の一部があなたの一部となれて、幸せでした。わたしが悲しかったのは、あなたが死んでしまうことだったのです。
あなたも、そうなのね。と花は泣きながら笑いました。
ずっと一緒にいます。あなたが枯れても、死んでも、皆に忘れ去られても、ずっと一緒にいます。
それから花が腐り、土になり、皆が花の美しさを忘れ、また森に静寂が訪れても、かつて花だったふたつのものは、地面の中で一緒にいました。
今は無き、名も思い出せぬほど、昔の話にございます。