お母さんの約束
ショートショート、童話です。
公園の広場は、刻一刻と変わりゆくオレンジ色の光にあふれていた。そろそろ夕暮れも終わる。さっきまで正一といっしょに遊んでいた友達は、暗くなるからと一足先に帰ってしまった。
屋根の上に半分だけ顔をのぞかせたお日様を眺めていると、亡くなる直前の母がまざまざと思い出された。
正一は、薬臭い病室で横になった母の細い腕にすがり、
「はやく帰ってきて。ねえ、おかあさん」
「ごめんね。それが無理みたい。がまんしてくれるかな」
「やだ。帰ってきて、おねがい」
駄々をこねて泣きじゃくる我が子を、母はやさしく抱き寄せた。
「そのうちに必ず帰るから」
「ほんとに? やくそく?」
「約束する。ずっと、しょうくんのそばにいるよ」
それが最後の会話だった。
錆びたブランコに腰掛けた正一は、くろぐろと伸びる自分の影に眼を落として、ため息をついた。父の洋介は、今日も仕事で遅いだろう。新しい家には美雪さんと妹の沙羅、それに温かい夕飯が待っているだろう。
けれど、そこには帰りたくなかった。自分の居場所がないと思うから。
「父さん、再婚することにした」
正一がそう言われたのは、母の涼子が病気で亡くなった翌年のこと、夏休みの終わりが近い雨の日だった。
「どういうこと?」
「家のことも、お前の世話も、父さんだけじゃ手が足りない。だから、新しいお母さんに来てもらおう」
父の言葉は正一の心を傷つけた。
僕のお母さんは一人だけだ。ニセモノのお母さんなんて、いらない。
それから間もなく、丸くて重そうなお腹を抱えた女の人が家にやってきた。
「よろしくね。正一くん」
白い歯を見せて笑う美雪さんは、綺麗な人だった。お母さんほどじゃないけれど。
その日から、美雪さんは何くれとなく正一の世話をやいてくれた。優しい姉さんができて喜んだのも束の間のこと、沙羅が生まれてからは、みんな赤ん坊の世話にてんてこまい。朝から晩まで沙羅、沙羅、沙羅。
「ちぇっ。何だよ。妹ばっかり」
それだけではない。カーテンも、クッションも、お風呂の洗面器も、みんな真新しいピンク色に変わり、母の匂いがするものは見えないところへしまい込まれた。
このままじゃ、お母さんの思い出が消えてしまう、そう思った正一は、タンスの奥からアルバムを引っ張り出した。
会いたい。もう一度だけでいいから、お母さんに会いたい。
四角い枠の中で、元気だったころの母が笑っている。知らず知らずに涙がこぼれた。
きゃっきゃと笑う声に振り向くと、沙羅がこちらへ手を伸ばし、よたよたと歩いてくる。とても可愛い。妹が笑えば、まわりの誰もがつられて一緒に笑ってしまう。
でも、お母さんが生きていてくれた方が、何倍もよかった。正一は、そう思ってしまうのだ。それがちょっぴり後ろめたい。
「・・・くん」
沙羅が正一を見上げて、何かを言おうとしていた。
「しょう、くん」
小さな口を懸命に動かし、兄の名前を呼んでいるらしい。
「まあ・・・沙羅がしゃべったわ!」
美雪さんが目を丸くして口に手を当てた。
正一もびっくりして幼い妹を見つめた。不思議なことがあるものだ。しょうくんというのは、亡き母が正一を呼ぶ時の愛称だった。
それからしばらくして、家の庭に霜が降りたある日のこと。沙羅は、いつものように正一を見つけて駆け寄ると、
「しょうくん」
「なんだい?」
正一の手を握り、声を上げて笑った。かたわらの洋介と美雪も、微笑ましい二人の様子を見て、思わずいっしょに笑った。
「ずっと、いっしょ」
幼い妹は兄を見上げてささやいた。そして静かにうなずいた。
「やくそく。ずっと、いっしょ。ね?」
正一は亡くなる前に母が遺した言葉を思い出し、ふと胸が熱くなった。
そうだ、やくそくしたっけ。
「ありがとう」
正一は沙羅を抱きしめた。頼りないほどに妹は小さかった。ふわりと頬に当たる柔らかな髪は、なつかしい匂いがした。
了
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