036 平等と公正
昨日は、素材集めの最中、恵みの森の支配者である熊に襲われた。
その際、さくらは生死を彷徨う瀕死の重傷を負うが、僕と魂を共有する事で、その難を無事に乗り越えた。
こうして魂の回廊を繋げる事で、お互いの身体の傷を治す事が出来たが、僕は自分の魂(寿命)を磨り減らした結果、思ったよりも疲労が溜まっていた。
(身体の...疲れか?精神の...疲れか?...気怠さが、残ったままだ)
教会に帰ってから日を跨いだ今になっても、思うように身体を動かせない。
頭が、「ボーッ」と靄が掛かっている。
(転移・転生をしてから、初めてかな?取り敢えず、今日は無理せずに休もうかな)
その為、今日は完全休養日とした。
ただ昨日の出来事を思い返しても、疑問に残る事が、三点あった。
一つ目は、恵みの森の変化。
マナの活性化から、植物や生物の成長と増加についてだ。
「プロネーシス?恵みの森は、何で突然、変化が起きたの?」
『はい。マスター。それは、変化が起きる前と変化が起きた後の違い、それらの要因を考慮しますと、教会での魔力放出が関係あると思われます』
今まで僕がこの世界に転生をしてからは、恵みの森に大幅な変化が訪れた事は無かった。
変化が起こる前日に、恵みの森を訪れた際も、今まで見て来た恵みの森と、何ら代わり映えの無いもの。
だが、翌日に恵みの森に来てみると、急激な変化が訪れていた。
そこで「変化前と変化後の間に起きた出来事は何か?」と考えれば、当てはまるものは一つ。
「魔力の放出...それは、教会での聖典の読み上げが、関係あるって事?」
『はい。マスター。マスターが聖典を読み上げた際に、体内の魔力が大量に消費されております。その消費された魔力は、聖堂に刻まれていた(隠蔽されていた)魔法陣をなぞり、魔力を集約した光の柱を発生させております』
僕は、教会の聖堂にて、アナスターシアに渡された聖典をその場で読み上げた。
すると、僕の体内から自動的に魔力が消費(吸収)され、床に隠蔽されていた魔法陣が起動したのだ。
その魔法陣からは、魔力を集約された光が立ち上がり、塊(柱)となって魔力が放出されたのだ。
『その魔法陣から放出された魔力は、大地に還元され、領地のマナを増幅させております。ただ、マスターの消費魔力量と、領地に還元された魔力量は、同等では無く、大地へと還元された魔力量の方が、何倍にも増幅されております』
魔法陣の効果は、吸収した魔力を倍増させて、領地へと還元する仕組み。
此処で言う領地とは部分的なもので、山(恵みの森)に限定されているが。
魔力が還元される事で、領地のマナが増幅するみたいだ。
「確かに。僕の消費魔力量だけでは、恵みの森に変化を起せる程の魔力量の足りないもんな」
『はいマスター。魔法陣の解析が、全て出来ている訳ではありませんが、結果(環境の変化)を見れば、増幅と供給で間違い無いです。ただこの魔法陣の効果(役割)は。ゲーム時代には無かったもの。この世界、独自のものだと思われます』
プロネーシスは、ゲーム時代の魔法陣の型式を全て網羅している。
それが「記憶と思考」の能力だからだ。
だが、教会の聖堂に隠蔽されていた魔法陣は、そのどれにも当てはまらないもの。
これは、プロネーシスの記憶外の未知なる情報。
『この結果、教会での出来事が、恵みの森を成長させて変化を起こさせたのです』
「教会での出来事が、恵みの森の変化に繋がったのか...その理由は解ったけど、じゃあ何故、あの場に熊が現れたの?」
二つ目の謎。
それは、恵みの森を支配している熊が、突然、僕達の目の前に現れた事。
普段は、山の頂上付近に生息をしている筈だが、昨日は何故か、僕達がいる山の中腹まで下りて来ていた。
その理由が、いまいち解らないのだ。
『はい。マスター。こればかりは推察になりますが、私達の前に熊が現れた原因は、山を掘った事が起因だと思われます』
「えっ!?山を掘ったこと?」
僕達は昨日、岩塩採集の為に山を登った。
目的地は、岩塩が眠っている山の中腹を目指して。
そこまでは問題無く進む事が出来たのだ。
だが、その目的である岩塩を採集する為、山の地面を魔力で掘り進めていた時、突然、目の前に熊が現れた。
『はい。マスター。私達が山を掘る事で、熊の住処である、恵みの森が破壊されると思われた事が原因です』
「それは、熊の縄張りみたいなもの?...でも今までに、オリーブや、川の天然水、それにフォレストコッコを捕獲した時は、何も無かったけど?」
山全域が熊の縄張りならば、そこにあるもの全てが含まれる筈だ。
僕達は今までに、オリーブオイル作りの為にオリーブの実を大量に採集している。
石鹸作りの為に、川の天然水を汲んでいる。
そして自分達の食を豊かにする為に、フォレストコッコを捕獲した。
どれもこれも、僕の都合で山から奪った物で、今回の岩塩採集と変わらない出来事。
その為、僕には今回の岩塩採集と、今までの採集の違いが、何なのか今一つ解らなかったのだ。
『はい。マスター。私には熊の思考が解る訳ではありませんが、山を傷付けた事、その一点が原因と考えられます。マスターがこれまでに採集した物は、言ってしまえば山にマナが満ち溢れていたら勝手に増える物』
精霊が住まう森では、魔力があればその量によって作物が育つ。
川の水も、自然の雨によって出来た副産物。
そこに住まう生物も、勝手に増えた物。
これらは熊が管理する物では無く、自然の中で勝手に生まれた物なのだ。
『ですが、山そのものに対しては、考え方が違うみたいです。これは、今の環境を生み出している山そのものが破壊されれば、そこに住まう生物の生態系が崩れてしまいますし、その結果、自分の住処が無くなると感じたのでしょう』
「なるほど。違いはそこにあったんだ。そうなると、熊が僕達の目の前に現れた事は、“山を護る為”だったって事だ」
熊が、人間のように喋れる訳では無いので、本当のところは違うかも知れないが、その行動は自分の縄張りを護る為、しいては、山の環境全てを護る為の行動だった。
確かに、そう考えれば合点が行く。
熊にしてみれば、侵略して来た者を排除する為のごく自然な当たり前の行動なのだから。
言ってしまえば、今回の争いはお互いの勘違いから生まれたもの。
お互いに、何かを護る為に行動をしたのだ。
片方は、山を護る為に。
片方は、さくらを護る為に。
お互い護る為に傷付け合う事になってしまった訳だが、もしもこの時、お互いに話し合いが出来ていれば結果は違っていたのだろう。
無益に、熊の命を奪う事が無かった筈だから。
「プロネーシス。じゃあ、これが一番聞きたい事なんだけど、何故、熊は魔物化したの?」
昨日の出来事を二度度繰り返さない為にも、この振り返りが重要なポイント。
そして、これが昨日の出来事で最も核となる部分。
三つ目の謎である、野生の熊(只の生物)が何故魔物化したのか?
『はい。マスター。ゲーム時代のメインストーリーの中に、魔核を移植する実験があった事を覚えていますか?』
「魔核の移植って、ミズガルズ世界の、ジュピター皇国での実験だったよね?それなら覚えているけど...それが今回のと、どう繋がるの?」
魔核の移植による魔物化は、メインストーリーで出て来たジュピター皇国の根幹となる部分。
どうやら今回起きた熊の魔物化は、それに関係があるみたいだ。
『ジュピター皇国では、人間を魔物化する為に魔核の移植を施していましたが、直接的な移植は肉体が耐えられずに失敗をしています。その代わりに擬似魔核を生み出す事で、人間を魔物化していましたが、それは単純に、魔物化させる人間の魂位が低い事が要因だったのです』
魔核そのものに人間が耐えられないのでは無く、単純に生物としての能力が低い事が要因だ。
魂位が上昇すれば、自ずと能力は上がるので魔核の移植に耐えられる。
『では何故、熊が魔物化したかと言いますと、要因は二つ考えられます。一つ目は、熊自体の能力が元々高い事。二つ目は、教会からの魔力の供給があった事です』
「熊の能力が人間よりも強いのは解るけど...二つ目の魔力の供給とは、どう言った関係があるの?」
元の世界でも、熊は生物界上位の強者。
そして更に、此処はゲームを基にした世界。
相手を倒せば、相手の力(魂)を吸収出来るレベル(魂位)のある世界。
熊は何年も、何一〇年も、自分が生きる為に、他の生き物を殺して食べて来た。
それは、魔物と呼ばれる物と比べたら、森に住まう生物は吸収出来る力(魂)は微小なもの。
だが、何年も、何一〇年と繰り返す事で、熊が魔物化出来る能力まで魂位が上がっていたのだ。
塵も積もれば山となるとは、この事だ。
『これは、魔力の供給があった事で、熊自身の許容量を超えて、魔力を過剰に摂取してしまい魔物化に至ったのです。魔物化は、条件さえ満たせば、どんな生物にも起こり得る突然変異に該当致します』
「能力の高さと魔力の過剰摂取か。そう考えると、この森にいるだけで危険って事?」
恵みの森は、魔力の源であるマナで溢れている場所。
この魔物化した条件を考えるならば、高濃度のマナを浴びているだけで魔物化してしまう事になるのではと考える。
『マスター。マナを浴びる分には問題無いのです。魔物化するに当たって問題なのは、過剰な魔力を浴びる事。教会から送られた大量の魔力が大地に還元する際に、頂上付近にいた熊がその魔力に直接触れてしまった事で、魔物化したのです』
確かに考えてみれば、僕は恵みの森に行ってから二年程経っている。
これまでに、恵みの森の高濃度のマナを浴びて来たが、身体にそのような異変が起きた事は無かった。
どうやら今回の魔物化は、偶然的に条件が揃った事で起きた事象。
「魔物化...これが魔物の誕生の原点みたいな事なのかな?」
『はい。マスター。魔物の誕生については、ゲームでの正式公表はありませんが、設定資料としては残っています。生物としての格を上げる事で進化して、その種類を増やして行った模様です』
魔物の誕生。
それは、今回と同じように偶然生まれたもの。
弱肉強食の生物界で、存在進化を続けた結果生み出されたもの。
「そうだったんだ。ゲーム時代は、当然のように存在する魔物の生態を気にした事が無かったけど、魔物の起源は、生物の魔物化から始まっていたんだね。確かに魂位が上昇すれば、能力は飛躍的に上昇する。だから、肉体強度も高まって、魔物化の変異に耐えられるって事か」
こうして今回一番の謎が解けた。
そして振り返りをした事で、僕自身気付けたものがあった。
これは、プロネーシスの能力を過信していた事に繋がるが、僕がプロネーシスに頼りきっていたと言う事実。
それもその筈。
プロネーシスの能力は、“記憶と思考”。
情報を無限に記憶する事が出来て、更にその情報を、精査、考察する事で思考をしている。
僕は今まで基本的に、プロネーシスと答え合わせするかのように自身の考えを寄せて行くか、プロネーシスから正解を教えて貰うまで受身の姿勢だったのだ。
それは、自分で考えるよりも、プロネーシスの考えの方が速くて正確なのだから。
(周りの状況を見る事も、プロネーシスに任せきりだったな...そのせいで、さくらを傷付けて...)
僕は、静かに拳を強く握っていた。
不甲斐ない気持ちが、情けない気持ちが心から溢れてしまったから。
プロネーシスの能力を活用する事は、なんら問題無い事だ。
だが、その能力以上に頼りきってしまう事は問題だった。
これは自分の考えを放棄するのと、今回のような緊急事態に自力で対応出来無いからだ。
(この世界は、ゲームの世界が基となっているけど、既に、ここは現実そのもの。ゲームのようにリセットが効かない世界だ。今頃そんな事を理解するなんて...情けないな)
僕はプロネーシスがいれば、問題無く史上最強の英雄になれると思っていた。
それは確かに、間違い無い事だろう。
だが、それを目指す道は犠牲を省みずにすればの話だ。
僕には心がある。
勿論プロネーシスにもだが。
元の世界で生きる事が不完全だった僕は、この世界では何も弊害無く生きて行ける。
病気に侵されていた僕は、普通の生活もままならなかったのに。
(健康で生きてられるだけでありがたい事だ。だけど...)
この世界での僕は、普通に生きられるのだ。
今までの動けない身体で、情報と言う知識だけしか知らなかった頭でっかちでは無く、自分で全てを経験して体感が出来る身体。
だが、そうは言っても、今の僕はまだ子供。
当たり前のように自力で出来る事は限られているし、周りの人に協力をして貰わないと出来無い事の方が、当然多い。
そして、その協力者は家族であり、教会で一緒に住む仲間達が受け持つ。
血の繋がりは無いけど、アナスターシアは僕の母親。
それは、形だけの母親では無く、僕に対して、しっかりと愛情を持ってくれている事からも伝わる。
一緒に住んでいるメリルにメリダも。
教会での生活の仕方や、見習いとして必要な事は二人に教わった。
しかも僕の事を叱ってくれる数少ない人だ。
そして僕のせいで、命の危機に瀕したさくら。
この世界で唯一、僕と一緒に成長が出来て、喜怒哀楽を分かち合える幼馴染。
彼女達に、教会の孤児、そして僕を含めて、魔力や魔法がある世界だとしても、死んだらその時点で御仕舞いなのだ。
(今回は、助けられたから良かったけど、もう二度と、同じ事を繰り返しちゃダメだ。これは、僕自身が、もっとしっかりと考えて行動をしないとダメなんだ!)
プロネーシスに頼るのでは無く、プロネーシスと共存をする。
それは、僕自身が成長を果たす為に必要な事。
与えられた知恵を、僕の知識として活用する事。
プロネーシスとの会話で答えを待つのでは無くて、自身で答えを引き出すように。
これは、僕の理解力を上げる為にも、プロネーシスとの会話のタイムラグを防ぐ為にも、必要な事なのだ。
(大丈夫...僕は一人では無いし、お母様も、メリル様も、メリダ様もいる。教会の皆だっているし、それに、さくらがいてくれる。皆の為なら頑張れる!)
この世界は、お世辞にも環境が良いとは言えない。
だが、魔力がある世界だし、プロネーシスの知識(情報)がある。
その劣悪な環境は、自分の手で改善する事が出来るのだ。
僕達は簡単な物だが、石鹸を作った。
その品質は、順次向上させなくてはならない物だが、衛生環境を整える為の第一歩だ。
後は、衛生の天敵である温度をどうにか出来れば、衛生環境は飛躍的に改善出来るもの。
まあ、これが最も厄介な部分で、用意するのが大変なものだが。
(環境は変えられる!衛生環境だって、それに食事環境だって)
僕達は鳥を捕まえて、養鶏、鶏卵に手を付けたところ。
食事環境の改善だ。
これは後々に、鳥だけで無く、牛、豚などの家畜にも手を付けて、野菜の種類、穀物の種類と、同時に生産を増やして行くつもりだ。
(そして、生活用品だって整えてみせる!)
後は、雑貨や衣類の用度品。
現代社会のように、生活の補助として活用出来る物を作成して行く。
但しこれは、環境を配慮した上で最上級の物だけを。
便利な物と、必要な物は違う。
そして日用品と、趣向品も。
(元の世界で、参考になる部分だけ考慮して、本当に必要な物だけを作成する。食品の年間の廃棄量。環境問題。絶滅の危機にある生態系。それらを考慮した上での、公正な世の中)
これは、人間に欲がある事で規制が難しいものだが、情報を統制する事で何とかなる事だろう。
本来、自由とは素晴らしいもの。
現代社会のように、選択出来る自由はとても魅力的な事で、自分の好きなように生きる事が出来るもの。
学校に通う事も、進学をする事も。
そして働く事も、働かない事も。
お金の使い方から、遊び方まで。
それは、人間関係を含めて、友達から恋人。
そして家族。
だが、その自由がある事で、不自由を感じる事も。
何故なら、自由であると言う事は、自己責任でもあるのだから。
その場の勢いで学校を辞めてしまった者。
働かずに親のお世話になる者。
散財をして借金をする者。
遊びに夢中になって生活が破綻する者。
人付き合いを遮断して一人で生きる者。
家族を持たない物。
これらは本人が、自由に選択をした結果。
自由を選択した結果の成れの果てで、自己責任と言う形で問題無いだろう。
だが、このように目先の欲に眩んだ結果、たちまち自由に制限が掛かる世の中でもある。
それに、人は生まれた瞬間から平等では無い。
家庭環境。
金銭事情。
そして病気(持病)。
僕は、この病気のせいで何一つ自由に出来なかった。
それは、家庭環境も、金銭事情も含めてだ。
僕が生まれた時には、既に両親がいなかった為、住む場所から学校など、何一つ僕が選んだ事は無い。
唯一、僕が選んだ自由は、死が確定した後に得られたもので、擬似世界を体験、体感出来る、此処の基となった世界ラグナロクRagnarφkだけ。
それだけなのだ。
結局、自分が出来る範囲で自由を選択するしかないのだ。
そしてその出来る範囲とは、自分を取り巻く環境によるもの。
僕みたいに選ぶ事が出来無い人は、現代社会では少数派で、生きる事だけで精一杯なのだ。
これだとチャンスも何も無い、不公平な世界。
僕は自分が生まれた時から、全員が平等な世界を作る事は不可能だと思っている。
だが、その後に訪れる機会は、本人の努力に基づいた公正な世界であるべきだと思っている。
これは転生後に、教会の皆と知り合ってから、自身の境遇を照らし合わせた結果の考え。
純粋に、強さだけを持ち合わせているのでは無く、周りを思いやれる心を持った真の英雄へと。
ただ世の中には、それらを度外視したはみ出し者や、どうしようもないロクデナシは存在するものだ。
それらを正す為にも、英雄としての力を発揮する為にも、持てる能力を強化する事が優先事項。
「プロネーシス!今一度、真の英雄を目指して頑張ろうね!」
『はい。マスター。全てにおいて、史上最強の英雄を目指して頑張りましょう』
こうして今日は、振り返りをして昨日の出来事を見つめ直す日となった。
僕が今日みたいに、訓練を含めて何もしない日は、転生後初めての日だった。
赤児の時でも、魔力操作の訓練に明け暮れていたのだから。
だが、何もしない一日は身体を休める(回復させる)事から、精神を休める(回復させる)事へと繋がる。
でも、僕の中で一つだけ気残りだった事はさくらの様子。
魂の回廊を繋げる事で、お互いに魂を共有する事で、傷は残らずに元の状態へと戻った訳だが、熊に襲われたと言う、恐怖を体験した事。
(トラウマになっていても、おかしくない出来事だよな...教会に戻っている最中だって、さくらは「ルシウス気にしないでね」って、笑顔で言ってくれたけど...あんな事になっても、自分の事より僕の心配を...)
僕は、命の危機が訪れた時に、自分の生命よりも他人の生命を気遣えるのか?
そんな疑問が頭の中を駆け巡っていた。
だが、僕は自覚していないらしいが、プロネーシスから見た僕も同じだと言う。
自分の限界を超えて、さくらを護った事。
寿命を減らす事を気にせずに、さくらを助けた事。
『マスターは、自覚していませんが、自分の事よりも、しっかりと相手の事を思いやっていました。ただ、この行動は何か特別なものな気がします...これは、私にはまだ理解出来ていない、特別な感情なのかも知れませんが』
これは、プロネーシスが僕に伝えなかった想い。
魂を共有する前から、僕とさくらは何かで繋がっていたと感じ取ったようだ。
それを僕に伝える事は無かったが。
そして完全休養日を経て、日付が変わった次の日。
今日は、僕の母親であるアナスターシアに、孤児院の事で相談をしようと思っている。
教会の生活をする上で、様々な環境を改善する為にも、人手が必要だからだ。
元からあった教会の畑や、穀物のお世話から収穫は、孤児が担当をしている。
その流れで、新しく始めた石鹸作りに、養鶏、鶏卵の手伝い。
これから着手する、衣類や装飾品の作成。
そしてそれらを販売する事で、お金を稼ぐ。
その為の準備だ。
「ルシウス。では、今日はこの曲が良いかしら?」
今はアナスターシアの、教会や孤児院における個人業務が終わった後のフリー時間。
僕が身体操作の訓練を始めてからは、この時間が減ってしまったが、こうして今でもアナスターシアの音楽を聴きながら、二人で雑談をしているのだ。
アナスターシアが僕の名前を呼ぶ時は、いつも優しく語り掛けて微笑んでいる。
演奏する曲は、その日の気分によって違うのだが、どれも心地良いものだ。
「はい、お母様。楽しみです!」
「では...♪♪♪~」
ハープに似た楽器で、曲を奏でる。
曲によって強弱はあるのだが、一音一音、音の粒が揃えられていて、自然と感情移入が出来てしまう。
僕は今日までに、様々なアナスターシアの演奏を聴いて来た。
それは、どれも素晴らしく、聴き入ってしまうもの。
「♪♪♪~」
一度、アナスターシアに「どうしてそんなに感情がこもっているのですか?」と聞いたところ、驚く事に、アナスターシアは、過剰に感情を込めて演奏をしている訳では無いとの事だった。
それは、僕には難しい事だったが、感情を込めて演奏をしてしまうと、制御が出来ずに人が聴くに耐えないものになるらしい。
あくまでも聴かせる為の抑揚であり、それらは技術の集大成らしい。
決して独りよがりでは無い、感情が込められているように感じさせる技術なのだと。
(僕には、演奏の事は解らないけど、それでも、お母様の演奏は素晴らしいものだと思う)
何が、良い歌なのか?
何が、良い曲なのか?
それは、人の主観によって変わるだろう。
万人受けする歌(曲)は作れるかも知れないが、それは全員が良いと呼べる物では無い。
全ての他人が良いと思える歌(曲)。
そんなファンタジーな、魔法な歌(曲)があれば、世界は争いの無い平和な世界になるのかも知れない。
(そんな歌(曲)があるなら、一度は聴いてみたいよね。でも、ここは魔法がある世界。ここでなら実現出来るのかも知れない...よね?)
そんな夢物語みたいな歌(曲)。
アナスターシアの演奏を聞きながら、ふと頭の片隅で考えていた。
「♪―...」
アナスターシアの演奏がフェードアウトをして行く。
その音の残滓までもが、芸術の域に達している。
僕は、自然と拍手を鳴らしていた。
「お母様。今日の演奏も、とても素晴らしかったです!」
「まあ、ルシウスったら。お世辞でも嬉しいものね」
アナスターシアは少しおどけた様子で、口に手を沿えて隠すように、口を開いて驚いていた。
マナーと呼ばれる物が浸透をしていないこの世界でも、その作法はお淑やかで綺麗なものだ。
この世界のマナーは、元の世界のマナーと比べると、簡易なものやあまり上品では無いもの。
それでも出来る事を最大限、丁寧に見せている。
そして、アナスターシアは僕が褒めると、とても嬉しそうに笑ってくれる。
その笑顔は、可愛さも、美しさも、両方兼ね揃えた、とても美しいものだ。
「お母様本当ですよ!決してお世辞ではありません!僕はこの時間がいつも楽しみなのです!」
「ルシウス...ありがとう」
この時のアナスターシアの表情が、とても印象的だった。
何処か切なさを含んだ、感情を無理矢理隠しているような、そんな苦しそうな笑顔だった。
(お母様が、作り笑顔?...でも、ありがとうは本心から出ていた言葉だし...)
僕は出生後の環境から、人の感情の機微には敏い。
独りでは生きられなかったので、他人の顔色を伺って生きて来た結果だ。
でもアナスターシアが言ったありがとうは、その本心から来るものだと言う事は伝わった。
作り笑顔は、僕の気のせいか?
「さて、ルシウス。今日は、どんなお話を聞かせてくれるのですか?」
「お母様。今日はお話では無く、相談でも宜しいですか?」
これまでは、僕がその日した事をアナスターシアに話して来た。
山に登って広場で遊んだ事(本当は訓練をしていた事)や、さくらと一緒にオリーブを取りに行った事。
オリーブオイル作りや、川まで水を汲みに行った事。
そして石鹸作り。
勿論、先日熊と対峙して瀕死になった事は内緒だが。
「ルシウスが私に相談ですか?それは、私で対応出来る事かしら?」
アナスターシアは許容範囲が広い。
通常ならば、子供だけで山に行かせる事は現代社会ならあり得ない事。
だが、この世界では、子供でも山に行って木の実を取ったり、大人と混じって畑を耕したり、掃除、洗濯をこなさなければならない。
これらは何ら特別な事では無く、この世界で生きる為には普通の事なのだ。
ただアナスターシアは、僕の事はそれ以上に特別視しているようだが。
自分でも話す内容を制限していないので仕方無い部分ではあるが、周りの同年代や、年上の孤児と比べても、明らかに知識があるのだ。
これは、普通の事では無いのに、魔法やスキルがある世界の為、怪しまれる事が無い。
よく「何でそんな事を知っているんだ?」みたいな展開があるけど、魔法がある時点でそんな常識は崩れるもの。
剣技のスキルがあれば、僕と同じ子供でも簡単に剣を扱える。
裁縫のスキルがあれば、僕と同じ子供でも簡単に衣類を作れるのだから。
それは、なんら特別な事では無く、スキルの恩恵と理解しているみたいだ。
なのでアナスターシアは、僕がやる事を一度も否定した事が無い。
「はい。お母様。それは、孤児の皆で物作りをしたいのです。それぞれ人によって得意な事は違うと思いますが、皆のその特性を活かしたいのです」
「特性?」
基本、教会では修道員になる事が、当然の目標。
それは、能力によってランクが変わるものだが、大多数の人は、灰色修道員で人生を全うする。
なので、個人の特性を活かす事など考えた事が無い。
「はい。孤児の皆にも得意な事が違うでしょう?裁縫が得意な者や、細工が得意な者。もしかしたら、剣が得意な者だって、魔法が得意な者だっていますよね?ならば、その得意な事、個人の特性を活かしたいのです。お母様は、僕が石鹸を作った話を聞いてくれましたよね?あの石鹸は教会だけでは無く、街にも必要な物です。この世界では、病気で死ぬ人が殆どなのでしょう?何故なら、石鹸はそれを防げる物ですから」
「まあ!そんな効果があったのですね?流石はルシウスです!」
何故か、アナスターシアが僕よりも誇らしげだ。
「お母様。現状、石鹸は売れる物なのです。手始めに、孤児の皆で石鹸を作って商売に繋げたいと思っています。そうする事で親のいない孤児でも、商人や作成者として暮らす事が出来ます」
「ルシウスは、そんな事まで考えているのですね...ええ、勿論。ルシウスの好きなようにして良いのですよ」
こんなにあっさりと了承してくれるには訳がある。
この教会では該当しないが、本来、孤児の寿命は短いもの。
そして親のいない環境の孤児を助ける者など、アナスターシアを除いて誰一人としていない。
教会に住む者は、アナスターシアの方針を受け入れているので、分け隔てなく接しているが、他の場所では、そのままのたれ死ぬのが通常。
なので、親のいない孤児が普通に生きていけるだけで奇跡に近いのだ。
「お母様。ありがとうございます。養鶏も、鶏卵もですが、行く行くは、他の物作りにも着手して行きますが宜しいですか?」
「ええ、問題はありませんわ。ですが、唯一つこれだけは守って下さい」
アナスターシアが今までに見た事も無い、神妙な表情で僕に言った。
これは、初めての展開だ。
「はい。お母様。えぇっと、それは、何でしょうか?」
「それは、どんな事が起きても最後までやり遂げる事。決して...後悔しないで下さいね」
何だ、そう言う事か。
アナスターシアが、神妙な表情で言っていたから身構えたけど、それだったら自身を持って言えるよ。
「はい。お母様!必ず最後までやり遂げて見せます!!」
「ええ、ルシウス...それでしたら私は問題無いわ」
アナスターシアは、今日一番の笑顔を見せてくれた。
だけど、何故か僕には、その笑顔が哀しんでいるように見えた。
僕は、人が抱いている裏の感情を読み取る事が出来るのだが、人生経験は短い。
僕自身、まだ知らない感情も、経験をしていない感情も、沢山ある。
正直、あの笑顔に込められた思いは、僕には解らなかった。
だが、孤児の皆で物作りをする事を、アナスターシアに了承を得る事が出来た。
これで、僕とさくらの二人で行うよりも、ずっと早く改善が出来る。
教会の皆が豊かになれるように、街の皆が豊かになれるように、そして、この国がもっと豊かになれるように。
「公正な世界を目指して頑張るぞ!」




