表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラグナロクRagnarφk  作者: 遠藤
転移転生・新世界
36/85

035 魂の回廊と共有

 石鹸を乾燥させてから数日が経った頃。

 僕達は、自作の木箱から中身を取り出して確認して見る。


「やはり、固形状になるのは難しいか...」


 木箱の中身の物体は固形にはならず、のり状のままだった。

 つまり、作成した時から進展が無いと言う事だ。


「ねえ、ルシウス?これで、完成なの?」


 さくらは石鹸の実物を見た事が無い。

 その為、これが完成した状態なのか解らなかったのだ。


「これは...石鹸としての効果はあるけれど、僕が求めている形には、ならなかったかな」

「じゃあ、失敗したの?」


 さくらは表情では無く、その声で悲しさを表す。

 視線がずっと木箱の中身に夢中の為だ。


「大丈夫だよ、さくら。これはこれで失敗では無いから。僕達が作成した石鹸は、もともと材料的に固まる事が難しい物だからね」

「そうなんだ!それなら良かった」


 さくらは、胸に手を当てながら息を吐く。

 一生懸命作成した物が失敗した訳では無い事を知って、安堵した様子だ。


「何故、僕が石鹸を作ったかと言うとね、教会や孤児院の皆を病気から守る為に作ったんだ。それに、“におい”が無い事が重要だったからなんだ」

「においが...無い事が重要なの?」


 普段生活をしている上で、“におい”は切っても切れない関係

 さくらは、その理由を教えて欲しそうだ。


「それは、“におい”には、良いにおいの“匂い”と、悪いにおいの“臭い”があるからだよ」


 教会にも、様々な“におい”が溢れている。

 但し、それは悪いにおいの方の臭いになるのだが。


「え~っと、お母様達は、良い香りの匂いで、トイレとかは嫌な香りの臭いって事かな?ルシウス、これで合っている?」


 僕の親であるアナスターシア、さくらの親であるアプロディアは、自然と良い匂いが香っている。

 それは香水のような物でにおいを誤魔化しているのでは無く、彼女達が持つ天然のフェロモンによるものだ。

 もしかしたら、これはゲーム時代には無かった、“におい”に関するスキルがあるのかも知れないが。

 そして、嫌な臭いのトイレは汲み取り式のトイレ。

 現代のような水洗式では無く、所謂いわゆるボットン便所と呼ばれている物。

 これの特徴は、深い穴の中に排泄物を溜める事。

 それゆえに、強烈なアンモニア臭が漂っているのだ。


「そう。だから“におい”は人によって好みが分かれるもの。さくらも自分が好きな“におい”があるでしょ?」

「うん!好きな、“におい”はお母様の匂いでしょ。それから、森の匂いに、太陽の匂い。この間食べた鶏肉さんの匂いも...」


 さくらは頭の中で、そのものが放つ匂いを想像しながら指を折っては好きな匂いを確認していた。


「...でも、一番好きな“におい”は、ルシウスの匂いかな!」


 さくらが前屈みになって僕の顔を覗きながら(においを嗅ぎながら)言葉にする。


(えっ?僕のにおい!?うそ!そんなに、におうのかな?...もし、これが汗のにおいだったら...嫌だな)


 自分の“におい”は自分には解らないものだ。

 僕自身、臭いには気を遣っているつもりではあるけれど。

 でも、好きと言われているくらいなので、臭いと言う訳では無さそうだ。

 (えっ、そうだよね?)と、疑問に思いながらも勝手に良い解釈として捉えた。

 僕は一瞬、視線が宙を浮きながらも、直ぐさま、さくらへとお礼を伝える。


「ありがとう。僕も、さくらの匂いが一番好きだよ」


 アナスターシアにアプロディアと言ったお母様達は、確かに良い匂いがするが、僕はさくらの匂いが一番好きだ。

 一緒に居ると心が落ち着くラベンダーのような花の香り。

 僕がそう伝えると、さくらは顔を伏せてモジモジしていた。

 この言葉に出来無い照れている感じが、とても可愛いと思った。


「でも、においは人によって感じ方が変わるものなんだ。だから、においのついていない石鹸は誰もが使える物。これなら皆が欲しくなるでしょ?」

「うん!だから匂いや、臭いがしない事が重要なんだね」


 においが無い事が万人受けをする。

 例えば、魔法を使用して洗浄や消臭が出来るなら別だが、教会では、そのような魔法が使用された事が無い。

 これは、街でも一緒だ。

 洗浄や消臭が出来るのならば、街の至るところで臭いが充満している筈が無いのだから。

 それならば、石鹸は商品として十分に価値を持つ物だ。


(石鹸があれば、汚れだけでは無く、臭いも落とせるからね)


 最初はにおいの無い石鹸を販売して、後から匂いのついた石鹸を販売するつもりだ。

 僕は現代の知識を利用した上で、それらを商売へと活かす。

 何故なら、これから先の事を考えれば、何をするにしてもお金が必要になるからだ。

 お金があれば教会の生活を、しいては街や国の生活を豊かに出来る。

 僕達、親のいない孤児が、望んだ未来を選べる世界に出来るのだ。

 生まれ(血筋)や能力(技能)によって断定的に決められた未来(運命)では無く、個人が望める(選択出来る)未来を求めて。


(そう言えば、現実化したこの世界では、僕が所持していたものはどうなったんだろう?アイテムや武器に、それからホーム拠点...ゲームのシステムと切り離されたこの世界では存在しないものなのかな?ホーム拠点があれば、すぐにでも改善出来る事が一杯あるんだけど...)


 ホーム拠点があれば、その設備を利用して、所持アイテムを利用して、物作りが出来る。

 現状、教会に足りない物、その全てが補えるのだ。

 だが、魔力はあっても魔法の使えない僕。

 拠点に帰還する魔法が使用出来無い。


(それに...アルヴィトルは、どうなったのか?)


 僕専属のNPC、アルヴィトル。

 ヴァルキュリーと呼ばれるクラスに就いた、最強のパートナー。

 もし、アルヴィトルがこの世界にいるのなら、その保有する能力だけで世界を牛耳れる支配者になれるだろう。

 でも、それは僕の憶測に過ぎない。

 今、僕がいる世界は、一度世界が崩壊した後で新しく時を重ねた世界。

 ホーム拠点は異空間に設置されている拠点(ゲーム設定)なので、世界が崩壊しても別に存在をしているとは思うけれども。


(魔法が使えれば、ホーム拠点には戻れる筈?だけど、魔法が使えるならば、ホーム拠点に行く必要も無くなる...よね)


 魔法が使えるならば、ホーム拠点の設備に頼る必要が無く、自力で望む物を作れる。

 石鹸作りも、魔法を使用したら楽に出来るのだ。

 オリーブオイルなら、より純度の高い物を。

 木灰よりも、高性能な苛性ソーダも、雷魔法の応用で電気分解して作れる。

 ミネラル水なら、水魔法で精製する事も出来る。

 何なら、ハーブや果汁から匂い成分を抽出した製油も作れてしまうだろう。

 魔法さえ使えるならば、道具に頼らなくても、それらが作成出来るのだ。

 だが、魔法が使えない僕だからこそ、ホーム拠点の設備が必要になるのだ。

 そして、そのホーム拠点に行く為には、魔法が必要になると言う矛盾。


(僕は、ずっと無い物ねだりばかりだな...それにしても、生まれ付き僕が欲しい物は簡単に手に入らないようだ)


 基本的に欲しいものは、何かを積み重ねる事でしか手に入らない。

 それは“力”も、“お金”も、“もの”もだ。

 だが、生きる事が難しかった転生前の僕とは違う。

 いずれ望むものを全て手に入れる為に、僕が今出来る事を一生懸命に積み重ねて行く。

 それは、地道に。

 確実に。

 僕の心の根底にある、生きる喜びを再認識した瞬間だった。

 そして、さくらとの会話に戻る。


「これで、においが無い事が重要だと伝わったかな?」

「うん!流石、ルシウスだね!」


 さくらの声には、感情が乗る。

 それは、歌だけでは無く、言葉にも。

 その気持ちが乗った言葉で、褒められると余計に嬉しいものだ。

 心の中で拳をグッと握る。

 後は、石鹸の品質を向上させて行くだけだ。


「サボン草を使ってから、教会の衛生環境はだいぶ良くなった方だけど、教会全部を洗浄する為には、サボン草が大量に必要でしょ?でも石鹸なら、サボン草の量よりも少なくて済む。それに洗浄の効果を比べても、石鹸の方が効率は良くなるからね」

「確かに、石鹸の方が汚れが落ちるよね。それに石鹸作りも慣れれば、もう少し簡単に作れそうだもんね」


 石鹸作りの工程は、さほど難しいものでは無い。

 魔法が使えない子供の僕でも、簡単に石鹸を作る事が出来るのだから。


(...そうか。僕達で作る事が出来るなら、素材さえあれば孤児院の皆でも作る事が出来るんだ!)


 今、僕達が作成している物は軟石鹸と硬石鹸の中間。

 僕が望む最低限の硬石鹸を作成するには、その材料や道具を集めるのにお金が必要になる。

 更に、それを作成する為の専門の技術者と人員がだ。


(孤児の皆に手伝って貰えば、石鹸を量産する事が出来る!そうすれば商売につなげる事が出来るんだ。そして、お金があればちゃんとした硬石鹸が作成出来る!人員は孤児で賄えるとして...後は、それを扱う技術者か?)

『マスター。それならば、技術者をマスター自身が育ててみては、いかがですか?』


 プロネーシスが頭の中で助言をくれた。

 人を雇うのでは無く、孤児の中から技術者を育てるのだと。


(そうか!足りない知識はプロネーシスが持っているんだもんね。それだったら僕でも育成が出来る!)

『はい。マスター。マスターが望む事は私が全て助力致しますので』


 僕がこの世界に転移・転生をした中で、一番の幸運はプロネーシスがいる事だ。

 それは、知識に情報は簡単に入手出来るものでは無いのだから。

 ましてや、人間の記憶なんて曖昧なもの。

 完全記憶を持っている人間ならまだしも、正直、僕は周りでそう言った人を見た事が無い。

 それに、僕はゲームが上手いだけの少年に過ぎない。

 一つの事をやり抜く意思の強さは僕の中で一番の長所かも知れないけど。

 だけど、これは人によっては頑固と捉えられる短所なのかも知れない。

 そんな事を考えながら、次回にでも孤児院長であるアナスターシアにお願いして、孤児に手伝って貰う事を了承して貰おうと思っていた。


「ルシウス?今日は、これからどうするの?」


 僕はいつも通り、さくらと一緒に行動をする。

 石鹸の確認が終わったので、此処からが今日の活動の始まりだ。


「そうだな。これから山に行って、岩塩と蜂蜜を採りに行こうかなって思ってるんだ」


 出来れば一度に胡椒も取りに行きたかったが、時間的にも二つが限界だろう。

 また帰りが遅くなって、メリルやメリダに怒られる事は避けたいからね。

 なので、その二つだけに絞って採集をする事を決めた。


「がんえん?はちみつ?」


 さくらの辿々しい言葉が、その疑問を表していた。

 岩塩と蜂蜜。

 この教会(街)では基本、素材のまま食事を召し上がる。

 味が濃いのも健康上問題だが、薄すぎるのも問題だ。

 教会では、ほぼ毎日、代わり映えの無い同じメニューの食事を摂る。

 こうした何の代わり映えの無い食事は、とてもつまらないものだ。

 味気の無い食事程、寂しいものは無いだろう。

 ただ、食べられない事が最も辛い事ではあるが。

 転生前の僕にとっての食事は栄養補給の点滴が常だった。

 食べられない。

 味も無い。

 常に一人で、独り。

 だから、僕は今、皆と一緒に食事が出来るだけでも嬉しいのだが、もっと美味しいものが食べてみたいのだ。


「岩塩も蜂蜜も、調味料になる物なんだ」

「調味料?」

「さくらは、確か...鶏肉が随分、気に入っていたよね?」

「うん!凄く美味しかったね!」

「調味料があれば、その鶏肉をもっと美味しくする事が出来るんだ。岩塩は、しょっぱい物で鶏肉の美味しさを引き上げてくれるし、蜂蜜は、甘い物で鶏肉を柔らかくする事が出来るんだ」

「えっ!?あんなに美味しかった鶏肉が、あれ以上に美味しくなるの?」


 さくらは、嬉しそうに驚いている。

 鶏肉を食べた時の、あの雰囲気を思い返せば当然だ。

 あんなに蕩けた表情で鶏肉の味を噛み締めていたのだから。


「そうだよ。それにその二つは、さくらのその綺麗な髪の毛にも役立つ物なんだ」


 どうやら、さくらは髪の毛を綺麗と言われた事が嬉しいみたいだ。

 口には出していないが、恥らいながらも照れている事が解る。

 そして、岩塩と蜂蜜はどちらも調味料になるものだが、シャンプー作成に必要な素材でもある。

 この世界に住む人々は髪の色が千差万別で、とてもカラフルな色をしている。

 ただ、水だけで髪を洗っていた時は、その髪の毛の艶が失われていた。

 一応、石鹸が出来た事で汚れは落とせるが、髪の毛の艶までは補えない。

 このままでは、折角の髪色が勿体無い事になってしまうのだ。

 アナスターシアに、メリルにメリダ、アプロディアに、そして、さくらの髪の毛がだ。

 皆が皆、美しい髪色をしていると言うのに、髪の艶を失っている所為で、そのポテンシャルが最大限発揮されていない。

 そこで、それを解決する物が(リンスイン)シャンプーになるのだ。


「サボン草で髪の毛を洗った時に、汚れは落ちたけど、何だかゴワゴワと軋んだでしょ?」

「うん。髪の毛は、さっぱりとしたけど、乾いたら髪の手触りが悪かったかな?」


 これはサボン草では、髪の毛の油分まで余計に落としてしまうからだ。


「新しく出来た石鹸で洗っても同じ結果なんだけど、もし、そのシャンプーが作れれば、髪の毛の汚れを落とした上で、髪の艶を保つ事が出来るんだ」

「つや?」

「こればかりは、実際に試す事が出来たなら、直ぐに違いが解るのだけれど、言葉だけだと、少し説明が難しいかな?シャンプーが出来たら試そうね」


 僕は、さくらにそう伝えて笑った。

 それを見たさくらが一緒に笑ってくれる。

 ああ...

 人と笑い合える事は、こんなにも楽しい事なんだと理解する。

 この気持ちは一人の時では知り得なかった感情だ。

 お互いに共有する事で、その気持ちが何倍にも膨れ上がるのだから。

 さくらと共に成長出来ている事が、一番嬉しい事だ。


「じゃあ、岩塩と蜂蜜を取りに山へと向かおうか?」

「うん、楽しみだね!」


 僕達は、背中に小型の篭を背負って山へと向かった。

 目的の岩塩は地中深くに眠っている物だ。

 地中深く掘る為の道具や機械は無いけど、代わりに魔力を代用して掘る。

 もう一つの目的である蜂蜜は、そのまま蜂の巣から搾取するだけだ。

 その際、蜂は倒さずに蜂の巣だけを貰うつもりではあるけれど。

 僕達は、何気無い会話を交わしながら山を登って行く。

 だが、前回登った時と比べて森の環境が変化をしていたのだ。


(何だろう?森の中の生物の数が...増えている?)


 森の中に生存する、小さな微生物から大きな動物を含めて、その数が増えている。


(それに、周りの植物も成長しているのか?何だか、広場の桜の樹も大きくなっているみたいだし...)


 周囲に植生している木々が、前回来た時よりも青々しく樹径が太くなっていた。

 そして、広場の中心にある桜の樹も急激に成長をしていた。

 それは、幾年もの時が、幾年もの時代が経ったかのような、急激な成長を遂げて。


(マナが増加しているのか?この変化は...一体何なんだ?)


 僕が生まれた時から恵みの森全体は魔力で満たされていた場所。

 それは、昨日まで一切変わり無くずっとだ。

 それが突然、今日になって急激な変化を遂げていたのだ。

 この急激な成長は何故起きたのか?

 その要因が全く検討つかなかった。


「わあ!恵みの森が大きくなっているね!光が...濃くなっている」

「っ!?...やはり、さくらもそう思うよね?この森に...一体何が起きたんだろうか?」


 さくらは、その成長ぶりを全く気にしていない様子だ。

 何故なら、森の普通や常識と言った事が解らないのだから。

 現代知識がある僕とでは、常識の概念も異なり、その思考がとても柔軟なものだ。

 それもそうか。

 此処は魔法がある世界。

 ましてや、そう言った知識を勉強する環境も無い。

 子供の発想は限界が無く、壁を一切作らないのだから。


「山の中♪森の中♪光の中♪」


 さくらのテンションが上がり、適当なメロディが付いた言葉を口ずさんで行く。

 それは一目瞭然で、さくらはこの状況を楽しんでいるのだ。

 一日で急成長を遂げた山。

 昨日よりも今日の方が森は生い茂り、山の中の空気が一段と澄んでいた。


(すーっ...空気が美味しいな)

「♪♪♪~」


 ああ、段々と感情が歌に乗って来ているみたいだ。

 そのさくらの感情が乗った歌が森の中で反響をして行く。

 その音は何処までも遠くに、際限無く響いて行きそうな程に。


(今日の歌には、いつも以上に動物達も反応をしている?何だか、精霊の動きも活発なようだし)


 さくらの歌に合わせて動物達も鳴いている。

 様々な動物や生物の鳴き声が重なり、まるで合唱をしているみたいに。

 妖精達は踊っているのか?

 さくらの周りを光を発しながら漂っている。

 それはスポットライトが当たったように、さくらの周囲を光の渦が巻きつくように。


(この光景を独り占め出来るだなんて、全く最高の贅沢だな。きっと元の世界なら、この光景を見る為に見た事も無いようなお金が動くんだろうな...)


 音楽と言うものが、世界も、次元すらも超えて感動を与えてくれる事を知った。

 そうなると、元の世界のように、さくらの歌を消費されるだけのものにはしたく無い。

 元の世界では、これだけ人を感動させられる歌ならば、本人が望む望まないにしろ、否応無しにお金が絡んでは無駄に消費をさせられるものだ。

 でも、此処は元の世界とは違う異世界。

 僕は、元の世界の良い部分、悪い部分を参考に音楽の力を、そして歌い手である個人の力を守る。

 知識や情報を、こういう事に使うのが正しい事なのだと信じて。

 そうして、さくらの歌に聞き惚れていた僕は、感動を噛み締めたままに山道を登った。

 途中で休憩を挟みながら目的地を目指して。


「ねえ、ルシウス?目的の岩塩は...何処にあるの?」


 地道に進みながら目的地の場所へと辿り着くと、さくらが不思議そうに周囲を見渡して僕に尋ねた。


「それはね。“ここ”にあるんだよ」


 僕は、地面を指しながらさくらの方を見た。

 すると、さくらは下を見て驚く。


「えっ?...地面?...土?ねえ、ルシウス?“ここ”には何も無いよ?」


 僕が指した“ここ”には、地面があって土しか無いのだから。

 それに対して僕は、無駄に格好をつけて拳から突き出した人差し指を「チッチッチっ」と横に振りながら答える。


「表面じゃ無いんだな。地面の下の、もっと下にあるんだ」

「えっ?地面の下って、どう言う事?う〜ん、土しかないけど?」


 さくらは、地中に岩塩があるとは思っていなかった。

 畑の手伝いで土を掘った事はあるが、地面を掘っても土しか無いのだから。


「その土を、もっと下に掘ったところに岩塩があるんだ」

「もっと下に?...でも、それなら道具が無いのに、どうやって掘るの?」


 それはそうだ。

 僕達が持っているのは、篭だけなのだから。

 地面を掘削する為の道具を何一つ持っていないのだから。


「えっと、さくらはこの力が見えるんだよね?」


 僕は魔力を形状変化させて、手の先端にドリル状の魔力を形成して行く。

 ゲーム時代にマナブレイドと言う無属性魔法があった。

 これはそれと同じで、属性変化をさせる必要が無い魔法だ。

 僕はそれを参考にして魔力を収束し、凝縮する事で作り上げた魔力変化。


「うん。ルシウスの周りから、特に、手の先で光っている力だよね?」

「そう。その通り。この力は、さくらも使っているものなんだけど、自覚はしていた?」


 さくら本人は、無自覚な上での魔力操作をしていた。

 それは歌う事によって、感情の高鳴りよって引き出される能力。

 もしも、これを意図的に使用出来るならば、歌に属性を纏う事が出来る筈なのだ。


「私も?う~ん、いまいち解らないかな?」

「...そうなんだね。でも、これが見えているなら、さくら自身、魔力を自覚する事が直ぐに出来るようになるよ」


 僕の周囲を纏う光。

 この魔力が見えているならば話は早い。

 それに、さくらの魔力総量も順調に増えているのだから。

 このまま一緒に成長が出来るならば、その魔力量がどうなって行くのか想像つかないものだ。


「で、今回は、地中深くを掘る為に、この力を使うんだ」

「手の先が尖っていて、形がギザギザしたもの?」


 やはり、さくらは目が良い。

 それは視力を指すのでは無く、魔力の些細な機微に気付けると言う目の良さだ。


「そう。これを回転させれば...ねっ?簡単に地面が掘れるでしょ?」

「凄いね、ルシウス!!こんなに簡単に地面に穴が開いて行くだなんて!」


 この作業は僕の魔力量に依存するが、魔力で出来たドリルは伸縮自在。

 それは大きさも、長さも、どちらを含めてもだ。

 そして、魔力で作ったドリルとは別に、魔力を自分中心に円形に広げる。

 こうする事で、地中の成分をプロネーシスのデータと照合して貰う為だ。

 そうして解析をした結果、このまま地中深くまで掘り進めれば、岩塩がある事が確認出来た。

 本当にプロネーシス様々だ。

 だが、僕達はこの時。

 作業に夢中になるあまり、周りの状況が全く見えていなかったのだ。

 これから僕達に訪れる危機に対して、あまりにも無防備だったのだ。

 それは、僕は魔力を変化させて地面を掘る事に夢中で、さくらは初めて見るその作業に夢中になって。

 そして、プロネーシスも、元の世界とは異なるこの世界の地中成分から岩塩のデータを照合する事に、その大半の思考が捉われてしまって。


「ぐあっ、ぐあっ、ぐあっ!!」


 低く口ごもった鳴き声が、突然、聞こえ出した。

 普段のプロネーシスならば、周囲に近付いて来るものに対して敏感に反応が出来ていた筈。

 なまじ、これまでの経験が僕の危機管理意識を低下させたようだ。

 それは、子供の身体で森にいても無事な事だったり、山を簡単に登ってしまった事で。

 これから僕達に訪れるものは、様々な要因が重なった事で見落としてしまった最大の危機。


「えっ!?」


 僕が気付いた時には、既に遅かった。

 僕達の目の前に、三mを超える巨大な熊が走りながら現れたのだ。

 どうやら熊は四本足で勢い良く森の中を駆けて来たようだ。

 熊が通った道は草や枝をなぎ倒し、森が左右に掻き分けられていたのだから。

 それも、僕達が全力で逃げ出しても間に合わない速さでだ。


「何で、こ!?」


 僕は、不意に驚きの声を上げた。

 だが、その言葉は全部言い切る前に遮られてしまった。

 熊が、森の中を駆けて来たその勢いのままに、僕に体当たりをして跳ね飛ばしたのだから。


「がはっ?」


 僕の身体からは言葉が、声にならない音が漏れていた。

 それは内臓を圧迫され、肺から空気が溢れる音。

 もしも、車に跳ねられたら、このような衝撃を受けるのだろうと頭の中を過ぎった。

 その突進された痛みは、僕の表面(胸)から裏面(背中)を突き抜け、アバラにヒビが入り内臓が潰されてしまった。

 胃の方から口に向かって、勝手に血が込み上げて来る。

 その苦い鉄の味が喉元を通る時、呼吸がし辛くて、とても苦しいものだった。

 痛みと言う痛みが、僕の感覚全てを支配していたのだから。


「ルシウス!!」


 僕が吹き飛ばされる様子を見ていたさくらが叫んだ。

 これは子供が咄嗟に驚いた事で、ただ単に僕の名前を叫んだだけなのか、僕の安否を確認する為のものなのか解らない叫びだ。

 だが、その言葉からは、悲痛な想いが伝わって来る。

 さくらの身長を何倍も超える熊の大きさに、目の前で簡単に人が宙に浮くと言う事実。

 その衝撃は計り知れないものなのだろうから。

 顔は青ざめ、両手は胸の前に、その恐怖から自然と身体全身が震えていたのだから。

 だが、それで熊の行動が止まる訳では無い。

 熊は突進して来た勢いを僕にぶつける事で無理矢理止めて、さくらの目の前で止まった。

 熊の巨体が立ち塞がった姿は、さくらの方から見れば影になって黒く不気味に映る。

 熊のだらんとぶら下がっていた右手が上に持ち上がり、振り下ろす勢いそのままに鋭利な爪を使って、さくらを上段から切りつける。


「イヤー!!!」


 さくらは頭を両手で押さえて精一杯叫ぶが、その心情は恐怖により気を失う一歩手前。

 熊の爪による攻撃が、さくらを襲った。


(何故こんなところに熊がいる!?お前はいつも森の深く、山の頂上付近にいる筈だろうが!くそっ!見落としていた!!僕のせいで、さくらが...さくらが!?)


 僕は吹き飛ばされながらも宙に浮いた状態でそれを見ていた。

 さくらの叫び声が無情にも森の中で響いている事。

 熊から振り下ろされる右手は丸太のように太く、先端にはナイフのように鋭利な爪が伸びている事。

 そして、その振り下ろされた右手が、さくらの身体を切りつけた事をだ。


(...さくら?...血が、流れている?)


 さくらの身体から真っ赤な血が飛び散り、その場を赤く染めて行く。

 その様子を目撃した僕の鼓動が徐々に大きく跳ね上がる。

 「ドクン!」、「ドクン!!」と、自分では抑えられない衝動だ。

 この時、僕の内側からドス黒い感情が全身を駆け巡った。

 さくらを傷付けてしまった悲しみに、守る事が出来なかった自分の不甲斐無さ。

 それらの感情が交差し、その原因を作った自分自身に対して、さくらを傷付けた熊に対しての抑えられない憎しみが途方も無く溢れて。

 腹の底から込み上げる憎しみは、やがて怒りを生み出し、僕の感情を支配して行く。

 熊に跳ね飛ばされた衝撃や痛みは、怒りから来る脳内麻薬アドレナリンが掻き消した。

 全身に流れる血が沸騰するように熱くなり、体内の魔力が荒々しく周囲に漏れ出す。

 

「ブチッ!」


 その瞬間、僕の中で何かが弾ける事を確認した。

 こめかみには血管が浮き上がり、瞳の毛細血管が切れて赤く充血をする。

 すると、体内から漏れ出す魔力と、周囲からマナを集め出す僕。

 相反するその行為が、僕自身に膨大な魔力を生み出して行く。

 普段は可視化されていない背中の翼も、その魔力によりハッキリと具現化されていた。

 僕は自分の身体が傷付いた事より何よりも、さくらが傷付いた事が許せなかったのだ。

 さくらは熊の攻撃により、正面の肩口から腰に掛けて斜めに切られていた。

 ただ、幸いだった事は、さくらが恐怖で腰を抜かした瞬間だった事。

 そのおかげで熊の鋭い攻撃は、さくらの表面(皮膚)だけを切りつけて、内臓まで届く事が無かったのだから。

 だが、それでも傷から血が溢れている。

 このまま時間が経てば、出血多量で確実に死が訪れてしまう。


(さくらを...護る!!)


 熊にふき飛ばされた僕は、空中から地面に着地する瞬間。

 衝撃を分散させる為に地面を回転しながら受け身を取った。

 うん。

 まさか、こんなところで役に立つとは思わなかった。

 今の状況は想定外なのだが、受身の練習をしていてこれ程良かった事は無い。

 ただ、今この状況では、さくらは傷を負っている為に自力で動く事が出来そうに無い。

 僕一人ならまだしも、さくらを背負って逃げたところで、簡単に熊に追い付かれてしまうだろう。

 だが、初めから僕の中でさくらを残して逃げると言う選択肢は無い。

 それで自分が死ぬ事になってもだ。

 それでも勝てないのならば、さくらと運命を共にするだけ。

 どうせ死んでしまうのならば、此処から逃げ出せないのならば、僕は戦った末に、どうしようも無く死ぬ事を受け入れるだろう。

 だが、そんな事はさせない。

 この状況を否応無しに、そのまま受け入れたりなどはしない。

 二人して生き残るのだ。

 どんな事をしても。

 何としてでも。

 僕はその為に最善を尽くすだけだ。


(何が何でも...二人で生き残ってみせる!!)


 僕は着地と同時。

 熊に対して即、反撃に出た。

 さくらが傷付いた事で、僕の内側で何かが暴れている。

 それは、ドロドロとした感情が渦巻き、全身を流れる血が灼熱のように熱いもの。

 抑制と言う理性の(たがが外れ、内に秘めたる凶暴性が解放された瞬間。

 相手が殺意を向けるならば、僕は容赦をしない。

 殺される前に殺す。

 ただ、それだけだ。


「お前を...殺す!!!」


 僕は走りながら手の先端に魔力を収束させ、剣を形成する。

 これは、無属性魔法のマナブレイドに似せた、“マギーシュヴェールト”だ。

 魔法の使えない僕は、魔力を収束させるだけでそれを模倣する。

 高密度に凝縮された魔力は、鉄や鋼よりも硬い。

 その鋭く伸びたマギーシュヴェールトで熊に攻撃をする。


「はあ!!」


 僕は、魔力を出し惜しみせず、自身が使える能力を何重にも重ねて行く。

 魔力で身体強化。

 魔力で武器作成。

 精密な魔力操作で別々の力を自由に操って。

 そして、傷付いて動けないさくらを護る為に、さくらと熊の間に割って入る。


「あれは、翼?...ルシ、ウス?」


 この時、さくらは僕には聞こえない声で言葉を発していた。

 熊と対峙している僕には聞こえない音で。


「天使、みたい...」


 さくらの薄れ行く意識の中で、心の声が漏れていたようだ。

 この意識を失う前に見た光景。

 光と魔力が混じり合い、翼がはためいている僕の姿。

 幻想的に映し出し出されたその光景は、僕の姿も合わさる事で、とても神々しく見えたようだ。


(先ずは、ここから)


 さくらと熊の間に入った僕は、その決意を行動に変えて行く。

 これは、さくらを護る為の第一歩だ。

 浮遊してしまえば遠くから攻撃出来るが、それではさくらの安全を護れない。

 さくらは、既に傷付いて瀕死の状態。

 これ以上、二次被害を出さない為にも。

 相対する巨大な熊は、全身を筋肉の鎧で守られていた。

 目の前に立つと、尚更それがハッキリと解る。

 熊と人間(子供)では身体の大きさから身体能力まで、もともとのスペックが違い過ぎるのだから。

 その圧倒的な存在感。

 その目の前の恐怖に呑まれたら、身動き出来ずに蹂躙されるだろう。

 相手の攻撃は、どれも一撃必殺になり得るものなのだから。


(これくらいの威圧など!こんなものは、今までに何度も経験して来ただろう!思い出せ!終焉での戦いを!)


 これ以上の恐怖を、これ以上の存在を、僕は知っている。

 現実化した創造神や神々との戦い。

 だが、その頃とは決定的に違う事が幾つもあるのは事実だ。

 僕の身体が子供になっている事。

 ゲーム時代との身体能力の違い。

 現在、魔法が使用出来無い事。

 それは、戦技アーツもスキルも、装備している武器も何もかもが違う。

 でも、こんな事で諦める僕では無い。

 そして、ただただ恐怖に呑まれる事も無い。

 それは、僕が生きると言う事に我武者羅だからだ。

 相手の攻撃を掻い潜っては、僕の攻撃だけを確実に熊に当てて行く。

 その技術は、その速さは、到底子供が出せるものでは無い。

 よく表現の例えで剣閃が糸状に走ると言うが、それが目の前で実際に起きているのだから。

 この場面を傍観している者がいたのならば、目の前で何が起きているのか全く理解出来無い事だろう。

 僕が唯一持つ規格外の魔力を、躊躇無く使用する事で可能とした戦闘法だ。


「グアーっ!!」


 熊の鳴き声が周囲に響き、血飛沫が宙を舞う。

 だが、これだけ強化した状態だと言うのに、熊の正面からの攻撃では致命傷を与えられていないのだ。

 それは、熊の皮膚(防御力)が僕の攻撃よりも硬いからだ。


(ただ、闇雲に攻撃をしてもダメだ!相手の脆い場所を、急所となる場所を狙う!)


 僕は、攻撃を止めずに熊を斬り付ける。

 動き続ける事は苦しい。

 ヒビの入ったアバラが軋む。

 酸素を取り込む肺は、既に活動限界に近い。

 ただ、この苦しみは死ぬ事を否定する為に抗っているからこその痛み。

 そして、この状況を打破出来るのは僕だけなのだから。

 僕達が生き残る為に必要なものだから。

 熊への正面からの攻撃では倒せない。

 それならば、生物の急所を狙って攻撃をするだけ。

 但し、今のままでは熊のその巨大さから、一番の急所である心臓や頭が狙えない。

 そして、その急所である心臓は強固な胸板で守られていた。

 では、僕が狙える急所は何処だろうか?

 それは熊の脳だ。

 生物では鍛えようが無い目を通して、その奥の脳を狙うのだ。

 ならば、やる事は一つだけ。

 熊の方から急所を下げさせれば良い。

 その為に僕は熊の下半身へと重点的に攻撃を加え、その体勢を崩して行く。

 足の指。

 アキレス腱。

 膝関節。

 股間。

 へそ。

 通常、急所以外の場所では皮膚が硬く、マギーシュヴェールトでは表面を浅く斬るだけだ。

 でも、身体の脆い部分は違う。

 熊であろうが、その攻撃がしっかりと通るのだ。

 だが、相手は野生の熊。

 自分が傷付いても、怯まずに攻撃をして来る。


「ガァアアアー!!」

「そんな大振り、当たるものか!!」


 僕は、目の前の事だけに集中をする。

 その集中力は感覚を研ぎ澄ませ、周囲の状況を鮮明に映し出して行く。

 それは、目の前で対峙している熊の全貌。

 背後に傷付いて倒れているさくら。

 周囲に生えている木から、その一枚一枚の葉。

 空に浮かぶ雲。

 この状況とは関係無い、周囲を飛び回っている虫までを。


(熊の体毛一本一本から、周囲の細かい状況まで良く見える!)


 このように、周囲全てを鮮明に捉えているからこそ、熊の微細な動きを事前に察知出来る。

 熊がその手で攻撃する直前、動き出す身体の筋肉から簡単に予測が出来る為、その軌道がハッキリと見えるのだ。

 相手の攻撃を避けて、僕の攻撃だけを当てる。

 言葉では簡単な事だが、実際行う事は難しい事。

 これが出来るのならば、死合(試合)などは成り立たなくなるのだから。


「さくらを、傷付けたお前を許さない!!」


 攻撃を繰り返す事で、三mを超える巨大な熊の重心は徐々に下がり、ようやく相手の頭が手に届く範囲まで来た。

 そこで僕は、躊躇無く相手の目に狙い済まし、脳まで破壊する突きを繰り出す。


「これで決める!!」


 魔力で形成したマギーシュヴェールトの一撃は、熊の目を捉えて確実に急所である脳に達した。

 すると、突き刺した直後。

 熊の動きは活動を止めて徐々に停止して行く。

 僕は、危機的状況を乗り越えて熊を倒す事に成功した。

 だが、此処で何故か、以前プロネーシスが言っていた言葉が頭を過った。

 「但し、熊に関してはまだ力不足です」と言う言葉がだ。

 不意に訪れた不安が僕の頭を過ぎるが、この言葉は確か捕獲が出来るかに対しての答えだった筈。

 それは、動物を殺す事よりも、生きたまま捕まえる事の方が難しいからだ。

 それに僕の一撃は、確実に熊の脳に達している。

 僕はマギーシュヴェールトを熊から抜き去り、傷を負ったさくらの下へと駆け寄った。


「さくらの傷を早く何とかしなければ!?」


 僕が気になるのは熊の最期よりも、さくらの怪我の状態だ。

 これが重傷ならば、魔法の使えない僕では治す術が無いのだから。


「さくら、大丈夫?話す事は出来る?」


 僕は、倒れているさくらを腕に抱えて、その意識を確認する。

 見た目では解らない事でも、相手が話せる事で今の状態を確認出来るからだ。


「かはっ!」


 さくらの口から血が溢れた。

 吐血した血は僕の顔を濡らす。

 目が虚ろで、目を開いている事自体がとても辛そうだ。


「ル、シ、ウス?」


 話せる事から意識はあるのだが、血を吐いたと言う事は、何処か内臓を損傷しているのかも知れない。

 それに、熊の爪で切られた傷から血が止まらない。


「さくら、大丈夫!僕が絶対助けるから!」


 明らかに、さくらの容態は悪いもの。

 僕はそれを払拭する為に、さくらの手を力強く握り宣言をした。


(だが、このままではやばい...魔法の使えない今の僕が出来る事は何だ?先ずは血を止めて止血する事...魔力なら傷を塞ぐ事は出来るか?)


 さくらの身体から流れる血を止める事が先決だ。

 血や汚れで纏わり付く服を脱がし、直に肌を確認して傷を見る。

 すると、肩口から腰の辺りに掛けて三本の傷が刻まれていた。


(これは、さくらの身体が小さかった事が幸いしたのか)


 熊が狙いを定めた的が小さかった事が、爪による攻撃全てを受けずに済んだ。

 それに、表面に傷は刻まれているが、内臓までは傷付いていない。

 これだけでも助かる確率が跳ね上がる。

 医療機器や医療設備が整っていないこの世界では、内臓を治療する事は出来無いからだ。

 僕はさくらの傷を止める為に、魔力に指向性を持たせて引っ張り合う力を持った魔力を作り出す。

 それとは別に汚れを吸引させる力を持った魔力を、両手にそれぞれ作り出した。

 属性は変化させられないが、魔力の性質は変化させられる。

 そして、さくらの傷をなぞるように魔力で汚れを取り除きながら、傷口を合わせて行く。

 薬草やポーションが無いこの状況で、僕が出来る最大の応急処置だ。

 だが、これは傷が治った訳では無い。

 傷を塞いだだけでしか無いのだ。

 それに、熊の爪は目に見えない雑菌だらけのもの。

 このままでは感染症の恐れが高い上に、痛みや血を流し過ぎている事で、ショック死や出血多量で死んでしまうだろう。

 瀕死の状況は何も変わっていないのだ。

 (ここからどうすれば良いのか?)と悩んでいる時、何故かさくらが無理やり動き出した。

 それと同時にプロネーシスの声が聞こえた。


「っ、ルシ、ウス、うしろ」

『...マスター!?』

「!?」


 僕はさくら(プロネーシス)の言葉を聞いて、慌てて振り返った。

 どうやら先程、頭によぎっていた不安が現実のものとなってしまったようだ。

 

(急所を貫いたのに生きているだと!?何故だ!?)


 急所を貫いた筈の熊が、再び活動を再開していて僕の背後に立っていた。

 どうやら、プロネーシスは僕に注意喚起をずっとしていたみたいだが、僕はさくらの傷を止める事に夢中で、その声を聞いていなかった。

 気付いた時には、もう遅かったのだ。

 熊の振りかざした右手を僕は為す術も無く、もろに貰ってしまった。


「がはっ!?」


 僕は、勢い良く地面に擦れながら10m近く吹き飛ばされた。

 一応、戦闘が終わった状態でも、魔力による身体強化を切らずにいた事で、熊の斬撃を防ぐ事には成功した。

 だが、その背中ごしからの一撃は僕の腕をへし折り、ヒビの入っていたアバラの骨を完全に砕いた。

 その途轍も無い痛みが、身体中を駆け巡った。

 この一撃は、僕にとって致命傷とも言える一撃だった。

 身体能力を低下させ、身体をまともに動かせる状況では無くなったのだから。


(ここで...)


 でも、そんな状態で動きを止めれば、死ぬだけだ。

 それは、僕だけで無く、さくらも一緒に。

 何とか、さくらの傷は塞いだのだ。

 正直、僕にはこの後の処置が思いつかないが、生きてさえいれば何とかなる筈だと。

 それは、生命があればこそなのだと。


(ここで!!)


 ならば止まっている時間など無い。

 さくらは、魔力で傷を塞いだと言っても動けない状態に変わり無いのだ。

 もし、その状態で熊の攻撃を受ければ次は助からない。

 僕は、自分の壊れた身体を、魔力で補強して無理矢理動かす。

 抗って、争う。

 僕とさくらの、生命を護る為に。


(ここで動かなくて、何が英雄だ!?)


 丁度今、熊がさくらに攻撃を繰り出そうとしている瞬間。

 それを防ぐ為、僕は熊の下へと疾風のように駆け抜けた。

 その際ありったけの魔力を左手に込めて。


「いい加減、しつこいんだよ!!」


 僕は、熊のがら空きの側面に、ありったけの魔力を込めたバスケットボール程の大きさの魔力砲を打ち込む。

 魔力は、その密度によって硬さを変えられるものだ。

 今の僕の能力なら、鉄よりも固い魔力を形成出来る。

 それを一,八〇〇m/sの速さで発射する。

 これは戦車砲の威力と同等のもの。

 至近距離から放てば、流石の熊の化け物でもただでは済まない攻撃だ。

 

「跡形も無く、消し飛べ!!」


 鉄よりも硬い魔力砲が熊に直撃すると、その筋肉の鎧で出来た上半身は汚い花火のように弾け飛んだ。

 バラバラに細くなった肉片と拡散する血が宙を舞いながら。

 その場に残ったものは、下半身と体内から剥き出しになった妖しく光る結晶のみ。


(なっ!?あれは核!?と言う事はこいつは魔物だったのか!?)


 どうやら、目の前の熊はただの動物では無かったようだ。

 上半身が弾け飛び、内面が剥き出しになる事で判明した事実。

 この熊は、核によって動く魔物だった。

 僕が、この世界で初めて遭遇した魔物だ。


(再生が始まっているだと!?だが、核が剥き出しの状態ならば!!)


 核を保有する魔物は、核が破壊されない限り肉体を再生させて動き続ける。

 だが、核さえ破壊出来れば一撃で倒せるのだ。


「これで最後!!」


 僕の身体の中の魔力は、ほぼ底をついた状態。

 使えるものは周囲に散布してあるマナぐらいだ。

 僕は、そのマナを利用して右手にマギーシュヴェールトを形成する。

 だが、今の僕の技量ではナイフくらいの大きさにしかならない。

 それでも剥き出しの核を破壊するには充分な大きさだ。

 僕は、その最後の一撃に全身全霊を懸ける。


「ハアアアア!!!」


 その一撃は、魔物化した熊の核を見事、真っ二つにして破壊した。

 すると、核を破壊された熊はその状態を保て無くなり、身体が崩壊を始めた。

 核から光が抜けて行く事が解る。

 そして、相手の核から抜けた光は魂の力だ。

 ゲーム時代と同じように魂の力は僕へと吸収される。

 この感覚は久々だった。

 魂位が上昇し、能力全体が向上する感覚。

 自分の魂の格が上がる瞬間だ。


(身体から力が漲る!...やはり、この世界でも魂位は上がるもの。全てを把握出来ている訳では無いけど、変わった部分と変わらない部分...それも全て調べて行かないと)


 魂位が上昇する感覚を久しぶりに受けては、ゲーム時代のように強く成れる事を実感した。

 だが、魔物化した熊を倒して魂位が上昇した事よりも、重要な事はさくらの容態だ。

 傷は魔力で塞いでいる状態だが、このままでは血を流しすぎた所為で死んでしまう。

 それは、何をしてでも阻止しなければ成らない事だ。

 この状況で頼りになるのはプロネーシスだけ。


『マスター。熊の襲撃にお役に立てず申し訳ありませんでした』

「いや、プロネーシスは悪くないよ。データを照合するのにその能力を使っていたのだから。それよりも僕の方がいけないんだ。さくらに魔力で形成したドリルを褒められた事で浮かれていたんだから...プロネーシス!ここから、どうすれば助かる!?」


 そう。

 今回の一番の不注意は僕にあるのだ。

 さくらに褒められた事で格好付けて調子に乗ったのだから。

 そのくだらない感情の所為で、さくらを危険に晒したのだから。


「プロネーシス。何をしてでも、さくらを助けたいんだ...でも、僕は魔法を使えない...」


 僕は、動揺していて冷静でいられない。

 このままだと、助けたい気持ちだけが残り、何も行動出来ずにさくらを殺してしまう。


『マスター。一つだけ方法がございます。ゲーム時代に、試練の塔を登った時を覚えていますか?』


 プロネーシスが僕を落ち着かせるように、順を追って説明をしてくれる。


『その試練の塔で、一度だけ魔法でもアイテムでも無く、マスターの身体の傷を治した事があるのを覚えていますか?』


 魔法でも無い、アイテムでも無い、全く別の回復方法。

 それは、試練の間・4Fでのエキドナとの戦闘後にあった出来事だ。


「っ!?エキドナとの戦闘後か!?あれが僕にも出来るって言うのか?」

『はい。マスター。あれは魂の共有であり、マスターとエキドナとの魂の回廊を繋げる事で、その全てを回復させたのです。但し、これには欠点があります。それはマスターの寿命が短くなる事』

「魂の共有...寿命が短くなる...」

『今現在、さくらを助ける事が出来る方法は、この方法だけです』


 魂を共有する事(回廊を繋げる事)で、僕の魂の力を消耗して、さくらの肉体の損傷を癒す。

 その所為で寿命が短くなるのだと。

 寿命が短くなるだって?

 そんなものは、さくらの生命が助かるのなら安いものだ。

 さくらの生命には代えられないのだから。


「僕の寿命なんてそんなものは、さくらが助かるならどうだって良い!!プロネーシス!!早くその方法を教えて!?」

『マスター。マスターは、その方法を既に知っています。順序良く、思い出すだけで良いのです』

「思い出すだけ?」


 僕は、あの時の事を思い返す。

 エキドナにされた時の事を、同じ手順でさくらに施して行く。

 先ずは、さくらを抱き抱えて僕の魔力で包む事。

 身体を重ねる事で二人の距離は近くなる。

 この時、素顔の現れた、さくらの顔が良く見えた。


(大丈夫だから!僕が、絶対に助けるから!)


 これは魂のエネルギーを共有する為に、必然的にお互いの距離が近くなるのだ。

 そして、さくらの魂の波長と僕の魂の波長が、重なるように一致して行く。

 すると、この時。

 お互いの感情が交差し始める。

 僕の想い、さくらの想い。

 その二人の感情が合わさるように、蕩けて行くように混ざり合う。

 お互いの精神が共有され、心地良い魔力に包まれた状態で魂の回廊が繋がって行く。

 この時の感覚は、今までに体験をした事の無い程の快感が全身を駆け巡った。

 そして、僕の身体の中の魂から急激に力が抜けて行く事が解った。


(これが魂の力...)


 僕の魂の力で、傷付いたさくらの身体の損傷を補填して行く。

 そして、さくらの魂の力で僕の身体も。

 一方的では無く、お互いに補い合う魂。

 すると、お互いに損傷した傷が見る見る内に治って行った。


「良かった...本当に良かった」


 どうやら、無事に成功したようだ。

 僕は、さくらの傷が治る様子を見て安堵した。


「ルシウス?泣いているの?」


 さくらの声が、いつも以上に優しい。

 僕は、知らずの内に泣いていたみたいだ。

 こんな状況でも、死が間近だった状況でも、自分の事より先に僕の事を心配するさくら。 


「それは...さくらが...生きているから」


 僕は、さくらが助かった事が何よりも嬉しかった。

 それは、自分が犠牲になってもだ。

 ただ、僕は犠牲になったとは思っていない。

 これは献身から来るもので、お互いの為の行動なのだから。


「ルシウス...ふふっ。ルシウスは泣き虫さんだね」


 傷が治ったとは言え、まだ安静にしなければいけない状態。

 そんな状態でも、さくらは僕に精一杯の笑顔を向けた。


「さくら...ありがとう」


 僕の所為で傷付けた。

 僕の所為で怖い思いをさせた。

 僕のくだらない感情と不注意の所為でだ。

 僕はこの先、何があっても、どんな事が起きても、さくらを護る。

 例えそれが、人類を敵に回す事になったとしても、神と呼ばれる存在を敵にしてもだ。

 そう僕の魂に刻んだ瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ