032 衛生概念と衛生改善
「「ごめんなさい!!」」
僕と、さくらの誠心誠意、心の込もった謝罪から始まる。
何故こうなったのかと言えば...
僕達は先程、さくらと協力する事で、オリーブオイルを作成したところだ。
これは教会の衛生環境を変える為、石鹸を作る為にも必要な材料だからだ。
そう、そこまでは良かったのだ。
オリーブオイルを作成したまでは良かったのたが、その作る過程で全身を汚してしまっていた。
教会や孤児院にとって貴重な衣服を汚した事で、メリルとメリダに酷く怒られていると言う訳だった。
「もう!こんなに汚して、どうするのですか!?」と、「汚れを落とすのは、私達なのですよ!」と。
それはそれは鬼気迫るもので、つい先程までずっと怒号が飛び交っていたのだ。
僕の母親代わりのアナスターシアや、さくらの母親のアプロディアは、「無邪気な子供達のした事ですよ?」と、笑って許してくれたと言うのに。
...あれっ?
人間、恐怖を前にすると足が竦んでしまい、勝手に震えてしまうようだ。
僕は以前に終末の日と言う、人類滅亡の瞬間に立ち会っていると言うのに、何だか可笑しな話だ。
どうやら、怒られる事に慣れていない僕は今。
メリルとメリダに対して、あれ以上の恐怖を感じているらしい...
「「汚してしまって、ごめんなさい」」
僕と、さくらはメリルとメリダに対して丁寧に頭を下げて謝った。
確かに、この世界にはまだ漂白剤が無い。
その為、オリーブの果汁の色が付いた服は汚れを完璧に落とす事が出来無い。
だが、今この時が教会の皆の固定観念をぶち壊す時だ。
僕がそう思った瞬間。
僕は既に行動を開始していた。
「この汚れ、落ちにくい物ですよね?水洗いでゴシゴシしても、色が取れる訳ではありませんよね?寒い時期だと尚更で、指の手荒れやひび割れなどを引き起こしますよね?ですが、これを使えば服の汚れや、手や身体の汚れを落とす事が出来るのです!」
それは実演販売をするかの如く、然も当たり前のように商品説明へと移っていた。
僕は、オリーブ採集の時に持ち帰ったサボン草を解り易く皆に見せた。
僕自身もサボン草を使うのは初めてになるのだが、プロネーシスに聞いた事前情報通りに実演をし、皆にその効果を知って貰う事が目的だ。
これは、教会内部の衛生環境を改善する為に必要な事。
さくらに伝えていなかったが、怪我の功名では無いが、この機会を利用させて貰う。
「じゃあ、さくらも一緒に手伝って貰って良いかな?」
「私も、手伝えば良いの?うん!一緒にやる!」
その効果を実演する為にも、僕と同じように汚れている、さくらに手伝って貰う事に。
一人よりも二人の方が、効果を確認し易いからね。
「やり方は簡単で、この草の根茎を千切って、水を含ませて手の中で揉んで行くんだ」
「...こうかな?」
使い方は簡単。
サボン草の根茎を細かく千切って、手の中で水に濡らして揉むだけ。
これだけで泡立ち、手の汚れを落とす事が出来るのだ。
まあ、その泡も、現代社会を知っている僕からすれば泡と言うよりも、ネットリとした液体みたいに感じるけれど。
さくらは僕の真似をして、同じ行動を取る。
「まあ?それは一体何でしょうか、ルシウス?」
「さくら?それは何が起きているのですか?」
アナスターシアが、僕の手の中から溢れる“何か”を見て声を出して驚いた。
アプロディアも、さくらの前でアナスターシアと同じ反応をしている。
と言うか、メリルも、メリダも、手伝ってくれているさくら自身も、全員がその“何か”に驚いていた。
僕は、その手の中の“何か”を皆に解るように言葉で説明して行く。
「これは、“泡”と呼ばれる物です。手の汚れた部分を泡で包み込んで水に流せば...この通り綺麗になります!」
先程まで、オリーブの果汁でベトベトだった僕の手は、サボン草の泡の力で汚れを包み込み、水で流すだけで綺麗になった。
まあ、サッパリとまでは行かないが、これでも十分な効果だろう。
「凄い!綺麗になっている」
さくらも、手の中のベタ付き感が取れ、すっきりとした表情を見せている。
すると、周囲の皆が、汚れを落とした後の手の質感を確認し始める。
「先程までベトベトに汚れたものが、綺麗になっているだと!...お湯を使えばまだしも、水で洗っただけでは、こうはならないぞ!?」
最初に、僕の手を取って汚れをを確認したメリルが驚く。
それもその筈。
通常なら、今回のように果汁で手を汚した場合、二~三日程、手にベタ付き感が残ったままだ。
お湯を使って手もみ洗いをすれば、まだ多少は良くなるのだが、手洗いの為だけにお湯を使う概念が無い世界。
そもそもが、火を起こしてお湯にする事自体が、とても労力の掛かる事だからだ。
火属性魔法に至っても、主であるアナスターシアに使用する事を除いては、魔法を使う事が無いのだ。
その為にも、お湯を使用して手を綺麗に洗うと言う感覚が根付いていなかった。
それが目の前で、得体の知れない草から千切った根茎と一緒に水洗いをしただけで、汚れが綺麗になったのだから驚く事も無理は無い。
これには当然、周りも不思議がっていた。
「この草は、僕が裏山で遊んでいる最中に見付けた物です。そうですね...この草の事は、今後に解り易くサボン草と言い表しますね!」
元の世界に、もともとある名称をそのまま使わせて貰う。
これは、正直。
他の名称を考える事が面倒もあってだ。
「ここからは注意をして聞いて下さい。この泡と言うものは、他の草で試してみたところ泡が出る事は一才ありませんでした。ですが、この形状の草だけが水に濡らすと泡が出たのです」
サボン草を手に取り、皆に良く見て貰う。
このサボン草は、自然界きっての天然洗浄石鹸。
そして、あくまでも洗浄効果があるのは、このサボン草だけだと周知をして貰う。
他の野草では、毒を持っている場合や、使い方次第で毒を生む場合があるので、決して間違わないように説明して行く。
「これを使えば、手を綺麗にする事だけでは無く、衣類の汚れを落とす事も出来るので、洗濯時にも使えます」
教会では洗濯をする際、水で濡らして、こすり洗いや踏み洗いをするだけだ。
サボン草を使えば、それらの行為よりも、少ない回数で汚れを多く落とす事が出来る。
今回のオリーブのような果汁が付いた場合はその限りでは無いが、労力の負担や手間が減る事を考えれば、心強い主婦の味方となるのだ。
「同じように、この草の根茎を木桶の中で水に浸して泡立てて行きます。この泡で衣類を一緒に洗えば、ただ、水洗いをする時よりも、断然汚れが落ちるのです」
但し、それは軽い汚れを落とせるだけ。
今回のように、オリーブの果汁の色が衣類に付いてしまった物はそのままだし、黄ばんでしまった衣類、その繊維の奥底に染み付いた汚れは落とす事が出来無いのだ。
それでも、今までの洗濯の仕方よりは汚れを落とす事が出来て、臭いもある程度取り除く事が出来る。
「ふむ。確かに、いつも通り洗濯をする時よりも、汚れが落ちているな?」
「はい。お姉さま。しかもこれは、臭いも落ちていますね!」
どうやら、洗濯を担当しているメリルとメリダが、その効果を一番実感しているようだ。
良かった。
実演の効果がハッキリと表れてくれたよ。
これで少しは、教会内部の衛生環境を改善出来ると言うものだ。
「ルシウス。凄いですね...やはり...」
アナスターシアが僕の目の前まで来ては優しく頭を撫でてくれた。
ただ、「やはり」の後の言葉が、何を言っているのかは良く聞き取る事が出来なかった。
それでも、純粋に褒められた事が嬉しく、心が躍るように舞い上がった事は忘れない。
と、此処までが、昨日のオリーブオイル作りの話になる。
そして、今日。
さくらと一緒に石鹸作りを試す日だ。
僕は教会の広場にて、さくらの準備が出来るのを待っていた。
「プロネーシス?もう一度、確認なんだけど、石鹸作りに必要な物は、オリーブオイル、灰、ミネラルの少ない軟水で良いんだよね?」
『はい。マスター。そちらで問題ありません。ですが、灰に関しては、木灰よりも、海藻灰の方が硬い石鹸に仕上がります。ただ、この地域には残念な事に、近い距離に海がございません。出来上がった物は“軟石鹸”と“硬石鹸”の中間の物になりますが、先ずは、そちらから作って行きたいと思います』
元の世界で言えば、八世紀頃に普及を始めた『軟石鹸』。
その時は、動物性の脂と木灰から作られたもので、かなり臭いものだったらしい。
僕達が本来作りたい物は、一二世紀頃に普及が始まった『硬石鹸』。
オリーブオイルと海藻灰を原料とした物だ。
海藻灰とは、アラメ、カジメ、ホンダワラなどの海藻を干した物を蒸し焼きにした灰の事。
一八世紀に入り、アルカリ剤の合成に成功するまでは、六〇〇年近く、硬石鹸が主体として使用されていたのだ。
「取り敢えず、現段階なら石鹸が作れれば問題無いかな?」
『承知致しました。マスター。では、後々に改良をして行きましょう』
先ずは、石鹸を作る事から始める。
次に、ちゃんとした硬石鹸。
そして、硬石鹸から苛性ソーダを使用した石鹸へと、ランクアップさせる事を目標にして行く。
すると、さくらが準備を終えて、待ち合わせ場所となる教会の広場へと現れた。
「ルシウス、お待たせして、ごめんね。恵みの森に行く準備が出来たよ」
これは、僕が待たされた訳では無く、僕が早く待ち合わせ場所に来ていただけだ。
だと言うのに、さくらは申し訳無さそうに謝っていた。
何だか、気を遣わせてしまって悪い事をしたな。
「僕の方こそ、ごめんね。僕が決められた時間よりも早く待ち合わせ場所に来ただけだから、さくらは謝らなくて大丈夫だよ。僕が早くさくらに会いたかっただけだから。じゃあ...恵の森に向かおうか?」
僕達はこれから恵みの森へと向かい、軟水を汲みに行く。
これは、木灰を軟水で沸騰させて灰汁を作る為に必要な物だからだ。
軟水を汲む為には山の中腹まで登る事になり、しかも、僕の背中には空の瓶を背負っている。
この空の瓶だけでも結構重い物になるのだが、僕は魔力で身体を強化しているので、その重さを全く感じていなかった。
「うん!」
さくらは、相変わらず前髪で表情を隠していた。
だが、その声の雰囲気だけで楽しみにしている事が伝わって来る。
...僕は、さくらと仲良く慣れているのかな?
そうだったら嬉しいんだけどさ。
ゲームのようにパラメーターとして相手の気持ちが見えないから、もどかしいと言うものだ。
そうして僕達は、教会を出発して山を登り始めた。
「今日は山の中腹まで登って、その中域の川で軟水を汲みに行くんだけど、さくらはそれで大丈夫かな?」
これは、山の中腹まで結構な距離がある為、さくらの身体を心配しての事。
だが、石鹸作りに効果のある軟水を汲みに行く為にも必要な事なのだ。
水そのものには硬度が定められているのだから。
硬度とは、水の中に含まれる、マグネシウムイオンとカルシウムイオンの含有量を示したものだ。
元の世界では、国によって硬度の計算式は異なるのだが、基本的に、カルシウム塩の量とマグネシウム塩の量を合わせて、炭酸カルシウム(CaCO3)の量に換算した値(mg/L)を硬度としている。
この値が、一二〇mg/Lより小さければ軟水に、その値よりも大きければ硬水となる。
そして、僕達が欲しいのは軟水と呼ばれる水だ。
水は、採水地の土壌や地盤、川の地理的特徴によって、その硬度が決定される。
要は、地下に染み込んだ平地の水はミネラルが溶けて硬水となるが、山から流れる水はミネラルが溶ける機会が少ない為に軟水となるのだ。
「今一番気になっている石鹸作りの為だから大丈夫だよ!それに、ルシウスと一緒にいれる事が楽しいから、全然平気だよ!」
この年代だと良くある事なのだが、疲れると言う感覚よりも、楽しいと言う感情が大いに勝る。
その気持ちの浮き上がりだけで物事を難無くやり切ってしまうのだ。
だが、今回は自然が溢れている山登り。
山道は、僕達の足取りを簡単に奪い体力を容赦無く削る。
しかも、その自然に住まう動物が見境無しに襲って来るかも知れないのだ。
「それなら良かった。僕も、さくらと一緒にいる事がとても楽しいよ!だけど...一つだけ約束して貰っても良いかな?疲れた時は我慢しないで、ちゃんと僕に伝えてね?」
「うん!」
さくらは、普段から歌の為に山登りをしているから、この年齢では考えら無い程に体力がある。
前回、オリーブの実を採りに行った時も、ケロッと表情一つ変えずに難無く山登りをこなしてしまったのだ。
だが、今回はそれよりもかなり深いところまで登らなければならない。
(まあ、そうなったら最悪。瓶を置いてでも僕が背負って行けば良いか...)
僕達は、舗装のされていない険しい山道を、僕が先導する形で順調に進んで行く。
すると、登り始めて直ぐ、さくらが陽気に唄い始めた。
どうやら、また今日も違う歌を僕に聞かせてくれるようだ。
「♪♪♪~」
(あれっ?今日も違う歌だ...さくらは、本当に唄う事が好きなんだな)
さくらは、毎回違う歌を口ずさむ。
そして、様々な歌を僕に聞かせてくれるのだ。
僕はそれがとても嬉しい。
それに、この声を聞くと、心がとても落ち着くのだ。
歌の曲調とかテンポは関係無く、さくらの歌声そのものが沁み渡り、心の底から安心すると言う気持ち。
(...やはり、さくらが唄っている時は魔力を纏っているんだな)
さくらは唄っている時限定になるのだが、自然と全身に魔力を纏っている。
これはゲーム時代の能力、魔纏武闘気に近いものだ。
だが、唄う事で全身に魔力を纏う事を成している為、ゲーム時代の魔法やスキルに無かった能力だ。
(これは...唄う事で、身体能力が強化されているのか?)
これもゲーム時代には出来なかった事だ。
唄う事で、身体に魔力を纏って身体能力を強化する。
限定部位だけを強化出来る魔法やスキルとは、また別の能力となる。
正直、この才能には何処か傑出したものを感じている。
僕はこの世界に転生をしてから毎日欠かさずに魔力訓練を行って来た。
しかも、自分自身、ゲーム時代の情報や経験があってこその鍛錬だ。
だと言うのに、さくらは意識せずに身体能力の強化を唄う事だけで成しているのだ。
その行為には末恐ろしさを感じる程の才能を感じてしまう。
(これは...才能によるものなのか?)
きっと、僕達が知らない、この世界で進化した才能があるのだろう。
何故なら此処は、ゲームシステムと言う檻から開放された、魔力が存在する未知の世界になるのだから。
(新しい世界に、新しい能力か...そこで、こうして生きられるなんて、とても楽しい事だし、とても嬉しい事なんだな...それに幾ら才能が開花しようが、道を切り拓くのは努力だ。僕は必ず、この世界で一番になってやる!!)
世界が再構築されてから、どれくらいの時が経ったのかをまだ知らない僕達。
その進化している世界で、能力やスキル、魔法と言ったものがどう変化を遂げているのか楽しみで仕方ない。
そんな風に考察をしながら進んで行くと、徐々に山道の傾斜がきつくなり始めた。
それに合わせるかのように突然。
「きゃっ!?」
「危ない!?」
僕は瞬時に、さくらが転びそうになる前に、その身体を支えた。
この時、僕の方へと身体を無理矢理引き寄せたので、僕の顔とさくらの顔の距離が寸前まで近付く。
転びそうになり慌てているさくらを見る事はこの時が初めてだった。
「さくら、大丈夫?」
「あっ、ありがとう」
突然の事で、さくらの両手には拳が握られていた。
驚きと焦りから声も上擦っていた。
だが、転ばずに済んで安心しているように見える。
「...どうする?この先、もっと山道がきつくなると思うけど、一旦、教会に戻ろうか?」
「...大丈夫。ルシウス、心配掛けてごめんね。でも、ちゃんと次から足下を確認するから、このまま進んでも良いかな?」
確かに、山道の傾斜がきつくなっていたのだが、今の場合、木の枝を踏んでバランスが崩れてしまっただけだ。
それに、だいぶ山を登って来ているのだが、さくらに疲れている様子は全く見えない。
だが、この時僕が思った事は、唄う事で全身に魔力を纏い身体強化をして山道を進めていたと考えれば、唄わずに足元に集中してしまった場合、「進むペースも、疲れも変わって来るのでは無いのか?」だった。
「...うん。解った。じゃあ、それなら僕がさくらの手を引っ張って行くから、さっきみたいに歌を唄って貰っても良いかな?」
「...歌を?」
僕は、さくらの手をとって山道を登る事にする。
これなら、咄嗟の事態が起きる前に対処が出来るし、さくらは唄う事で疲れずに進む事が出来る筈。
それに、さくらの歌を聞けた方が、僕自身のモチベーションも上がる為だ。
「そう。さくらが唄ってくれれば僕も山登りが楽しく出来るからさ!だから、さくらの声を聞かせて欲しいんだけど、ダメかな?」
僕がそう伝えた時、さくらは突然、下を向いてしまった。
両手を太ももの位置で、服の袖をギュッと握り締めていた。
あれっ?
突然、どうしたんだろう?
「...さくら?」
もう一度、声を掛けた。
すると、さくらが顔を上げて答える。
「歌を...ルシウスに声を聞かせて欲しいと言われた事が嬉しくて」
これは...
見える表情だけで判断するなら照れているのかな?
少し顔が紅くなっているように見える。
「それはそうだよ!こんなにも素敵な歌声なんだから!じゃあ、唄ってくれるのかな?」
さくらは自分に自信が持てないようだ。
それは、前髪で表情を隠している事からも読み取れる。
そんな風に思う必要は無いのに勿体ない。
「うん!」
「ありがとう。じゃあ、行こうか!」
僕は、さくらに手を差し出した。
さくらはその手を取って、再び唄い始めた。
「♪♪♪~」
その歌声は、先程よりも楽しい(嬉しい)感情が乗っていた。
僕もその歌に引っ張られるように陽気な気分となり、疲れを全く感じない。
同じ歌を何度聞いたとしても、その度にすんなりと耳に入って来る、さくらの歌。
もしかしたら、僕の波長と合っているのかも知れない。
(この歌声...本当に、ずっと聞いていたいな)
まるで、遠足のように楽しみながら山を登って行く。
それ以降、僕達は山道を一度も躓く事が無く進む事が出来た。
そうして無事に山の中腹の川へと辿り着いた。
「わあ...綺麗!!」
さくらがその景色を見て、声だけを出して動きが固まってしまう。
此処を流れる川は、勾配のきつい上流から滝を経由して、森の間を緩やかに流れている川。
「水が...空から落ちている?」
「あれは、滝って言うんだよ」
「たき?...雨よりも、全然凄いね!」
「うん。そうだね。本当に...本当に凄いよね!」
人生で初めて目にした滝。
上流から勢い良く音を鳴らしながら水が落ちていた。
その滝には太陽の光が当たり、幻想的な光のカーテンが薄く周囲へと伸びているように見える。
そして、森の間を流れる川へと木漏れ日から光が差して、ところどころ青白く反射をしていた。
今、僕達の目の前に映るものは、誰の手も触れた事が無い自然のままの状態。
流れる水はとても綺麗で、川の底が見える程に透き通っていた。
「ここでしか見られない、自然が作り出した景色...空気が汚れていない事も、人の手が加わっていない事も」
「えっ、ルシウス?」
さくらは突然、僕が口にした言葉に驚いていた。
何を言っているのか解っていない様子だ。
だけど、この自然を目の前にすれば、そう思わずにはいられなかった。
元の世界では、排気ガスなどによる空気汚染。
森林伐採などによる人の手が加わった自然破壊。
何かを壊すのは簡単な事なのだ。
だが、それを元に戻す為には何倍もの労力や時間が必要になるのだから。
「この自然は...守らなきゃ」
文明を進めて生活を向上させる事は今の世界には必要な事だ。
だが、それは自然を守った上での必要最低限。
そうとどめるべきだと、僕が心に思った瞬間だった。
どうやら、僕は周りに聞こえない声でボソボソと独り言を呟いていたらしい。
さくらは、その様子を黙ったまま僕の傍で待っていてくれた。
それに気が付いた僕は、慌ててさくらの方へと向き直す。
「...大丈夫なの?」
さくら曰く、僕が真剣な表情をして遠いところを見ている時。
その場合は何を言っても聞こえていないとの事だ。
どうやら、僕が気が付くまで待つしか無いのだと。
これは申し訳無い事をしているな...
「...うん。待たせてごめんね。じゃあ、川の水を汲みに行こうか!」
「うん!」
僕達は気を取り直して、当初の目的を果たす為に行動をする。
此処からは、川における注意点に気遣いながら。
「川の流れはそんなに速くないけど、一応、川の中には入らないでね?」
「はい!ルシウス!...手で触れるのは大丈夫ですか?」
さくらは、勢い良く上に手を上げて姿勢正しく返事をした。
傍から見れば僕が先生のようで、さくらが生徒のように見えるだろう。
「手で触れるくらいなら大丈夫だよ!」
僕がそう伝えると、さくらは川の水に触れては「わあ、冷たい!」と驚いていた。
今日は石鹸作りがある為、ちゃんとした川遊びが出来無い事が残念だ。
今度は流れのもっと緩い下流で川遊びをするのも良いかもな。
(せっかく川に来ていると言うのに、遊べない事ほど残念な事は無いからね)
そんな風に思いながら、背負っている瓶を下ろして木の蓋を外した。
さくらと二人で瓶の中に川の水を汲んで行く。
そうして瓶の中に水が満杯となると。
うん。
これは、結構な重さだ。
瓶だけでも重いのに、そこに水が加わると、かなりの重量になる。
これは、僕の体重よりも全然重いものだ。
「よし!これで良いかな?」
瓶に水を入れ終わると、さくらが興味深そうに見ていた。
「ねえねえ、ルシウス!私も持ってみたい!」
「えっ、これを!?だって、かなり重たいよ?多分、さくらじゃ持ち上げる事も出来無いよ?」
さくらは、僕が魔力で身体能力を強化している事を知らない。
さくらと身長の変わらない僕が瓶を持っている事からも、自分も持てる物だと考えているようだ。
「...でも、ルシウスは持ち上げているよ?私も、ルシウスのお手伝いしたい!」
何よりも石鹸作りを一から作りたい気持ちから、素材集めや素材運びの段階から手伝いをしたいとの事だ。
その気持ちだけで十分だと言うのに。
でも、それなら好奇心があるものに直接、触れて貰った方が納得出来るだろう。
それが決して出来無い事だとしても。
此処で断って、その事がしこりとして残るのは避けたいし、実際に触れて確認して貰った方が本人の為になるのだから。
それは子供と言えども意思がある為に、本人が納得出来る事が重要なのだ。
「じゃあ...一度、持ってみようか?」
「ありがとう!ルシウス!」
さくらの話す声が明らかに嬉しそうだ。
やはり、この年齢は何でも自分で試してみたい年頃。
僕は、さくらが怪我をしないように全力でサポートし、問題そのものを起こさせないよう注意する。
そうすれば、不測の事態にも対応出来るだろう。
そして、さくらが水の入った瓶に触れてみる。
その大きさから、「えーっと、うーん」と、手を何処に置けば良いのか感覚を掴めていないようだ。
「う~」と無理矢理持ち上げようと試しているが、瓶はビクとも動かなかった。
「駄目だ...動かない。何でルシウスは、そんな簡単に持ち上げているの?」
「それは、ほら、僕が力持ちだから!ねっ?」
僕はそう言って、瓶を軽く持ち上げた。
魔力で強化していない状態では瓶を持ち上げる事も出来無いが、魔力で強化した状態であればこれくらいの重さは難無く持ち上げる事が出来る。
「ルシウス、すごい!!私も出来るようになるかな?」
僕が、簡単に持ち上げたのを見て驚いていた。
やはり、どんな形だろうと褒められる事は嬉しいんだと、僕はその時に思った。
「さくらも?...そうだな。メリル様達みたいに大きくなれば持てるようになるよ!」
「そうなんだ...それなら、早く大きくなりたいね!」
さくらは顔を少し捻って残念がっていたが、すぐに気を取り直していた。
その言葉には希望が詰まったもの。
自身が大人になった姿を思い描いては。
「じゃあ、帰って石鹸作りを始めようか?」
「うん!」
そうして軟水を入れた瓶を背負って、山道を下って行った。
帰りの方が足腰の負担は大きくなるのだが、僕も、さくらも、魔力を纏う事で問題無く進んで行った。
やはり、さくらの歌は凄い。
そうして、教会に戻ると、ようやく石鹸作りだ。
魔力で強化をしているとは言え、瓶を背負ったまま山道を進む事は大変で流石に汗を掻いてしまった。
疲れはさほど感じていないのだが、瓶を背負って動いている為、どうしても暑くなるのだ。
水瓶を降ろして、一息つく。
「ふー。戻って来たね!」
「ルシウス、ごめんね。私がもっと手伝えたら良かったのだけれど...」
さくらが申し訳無さそうに、明らかにトーンダウンをして話す。
そのしょんぼりしている姿が、とても悔しそうだった。
「そんな事無いよ!僕は、さくらが一緒だから楽しく軟水を取りに行けたんだよ?だから一緒に来てくれてありがとう!」
僕は、満面の笑みでお礼を伝えた。
本当に、さくらの歌が無ければ、こんなに楽しく山道を進む事など出来ていなかったのだから。
「えへへっ。なら良かった!」
さくらも嬉しそうだ。
「じゃあ、石鹸作りをしようか!」
「うん!」
石鹸作りに必要な材料は、これで全部揃う事が出来た。
オリーブオイル。
木灰。
軟水。
この三つで作成をするのだ。
この時、火を使う為、水場の近くである教会の井戸がある広場で作業を進める。
「始めは、木灰を軟水で煮込んで灰汁を作るんだ。火が必要になるから、先ずは火起こしからだね!さくらやってみる?」
先ずは広場で、枯れ枝や枯れ葉を集めて焚き火を起こす。
その際、鍋を使用するので、焚き火を起こす場所の周りに石を組んで、鍋をセット出来るように形を作って行く。
此処では、ライターやマッチが無いので火の起こし方がとても原始的だ。
木と木を擦り合わせる摩擦を利用した火起こし方法で、かなりの労力が必要なもの。
だが、これは僕とプロネーシスが事前に木と紐で作った、舞いぎり式の火起こし器を使用する。
僕一人では作れなかったものでも、プロネーシスがいれば乗り越えられる。
本当に頼りになる相棒だ。
(プロネーシスありがとう)
他の誰にも聞こえない頭の中で、「はいマスター。お役に立てて良かったです」と簡単なやり取りをする。
そうして、舞いぎり式の火起こし器を使用して木を擦って行く。
これは十字に組まれた道具で、中心に穴の開いた横の木板を、縦の心棒に紐を捻り合わせたもので、 横の木板を上下に動かす事で心棒が回転する仕組みだ。
「うん!やってみたい!」
「じゃあ、この木の板を下にひいて、この道具を使って火種を作ろうか」
道具の説明をしながら、火種を作る為に、舞いぎり式の火起こし器の下に、木の板をひく。
「横の木板を上下に動かせば、この紐の捩れのおかげで、真ん中の心棒が回転するんだ。じゃあ、さくら。横の木板を動かして貰っても良い?」
「はい!」
さくらは、その道具を慎重に動かし始めた。
「わぁ!凄い!クルクル回って動いている!」
さくらは、その初めて使用する道具を楽しそうに動かしている。
ただ、この心棒が回転している原理を、とても不思議がっているが。
「じゃあ、黒い粉が出て煙が出始めたら、こっちに移そうか?」
木と木を擦り合わせて行くと、茶色い粉が出始める。
この段階では、まだ火種にはならない。
更に擦り合わせる事で茶色い粉は黒い粉へと変わり、中から煙が出始めるのだ。
これで火種の状態としては完成する。
この火種を枯れ葉などの着火材に移して、火を大きくして行くのだ。
慣れれば、ものの五分程度で出来る作業だが、ライターやマッチが無い場合では大変な作業なのだ。
「わあ!煙が出てきた!ルシウス、これで良いの?」
「うん、ばっちりだよ!じゃあ、これをここに移すんだけど、これは火傷したら危ないから僕がやるね」
この作業も、さくらはやりたそうな顔をしていたが、こればかりは危ないので僕がやる事に。
その代わりに、火種を大きくする作業を手伝って貰う。
「じゃあ、ここに空気を入れながら火を大きくするのだけど、さくらは、これで扇いで貰っていい?」
うちわや扇子みたいなものが無いので、代わりとして程良く薄い木の板で扇いで貰う。
「うん!」
こうして焚き火を起こして、灰汁作りの準備が出来た。
僕は空の鍋を持って来て、その焚き火に鍋をセットをする。
「じゃあ、次はこのお鍋に灰と軟水を入れて貰って良いかな?」
さくらが作業をしている間に、僕は木灰と軟水の分量を目分量になるのだが予め用意をしておいた。
「はい!じゃあ、これを混ぜていけば良いの?」
「そうだよ。でも、熱いから気を付けてね?」
鍋の中に、木灰と軟水を入れて熱を加えながら木のヘラで混ぜ合わせて行く。
目安は、灰色でドロドロになるまで。
「これくらいで大丈夫かな?これで灰汁の完成だよ!」
「ふふふっ!出来た!」
此処からは人によってやり方が分岐するが、僕達は初めてなので、そのままオリーブオイルを加えて熱するやり方を試す。
人によっては、灰汁を一日寝かせる場合もあるみたいだ。
「じゃあ、次は灰汁にオリーブオイルを加えて混ぜようか!」
「これを入れれば良いの?」
「うん!それで大丈夫だよ!でも、そうしたら、火は少し弱めようかな」
焚き火だと温度の調整が難しい事が難点だ。
弱くし過ぎると簡単に消えてしまうので、後は火と鍋の位置をズラしたり、放す事で調整する。
「石鹸♪石鹸♪」
さくらは、火の前で泣き言を一切言わずに、汗をかきながら一生懸命に作業をしている。
前髪が汗で濡れ出して、段々とその素顔が見えて来ている。
本人も、今の状態を気にしている余裕は無いみたいだ。
前回に偶然、素顔を見た事はあるが、隠れていたその目は、二重瞼がパッチリしていて、とても綺麗な瞳をしていたのだ。
(綺麗な瞳だ...吸い込まれそうだな...)
そんな事を考えていたら、灰汁とオリーブオイルが混ざり合って、掻き混ぜる事で鹸化が始めっていた。
粘度が上昇して、粘り気が出始める。
(ウソ!?一発成功?)
「ルシウス、こんな感じで大丈夫かな?」
「これで...大丈夫そうだね!」
鍋の中の灰色の液体は、良い感じに混ざっている。
此処からは専用の型に入れて形を固めるのだが、此処には木で作った長方形の容器しか無い。
クッキングペーパーで、木と石鹸を剥がし易いように出来れば良いのだが、無い物を考えてもどうしようも無い。
一か八かになるが、直接、木の容器へと入れてみる。
「じゃあ、これが最後の段階になるけど、この容器に液体を移して行こうか?」
「これで石鹸が出来るの?」
「...後はこの液体が固まって、くれればかな?」
容器に移した後は、何日か寝かせて固まるのを待つ。
だが、今回作成している物は軟石鹸と硬石鹸の間。
きっと固形物のようにしっかりと固まる事が無い物だ。
今の状態でも鍋の中が泡立っているので、石鹸としての効果は発揮する。
ただ、保存が出来るかによって石鹸としての価値が変わって来る。
流石に、一日使い捨ての物を、これだけの労力を掛けては作れないからだ。
でも、此処は魔法世界。
材料は、魔力があれば無限に採集が出来る。
人員さえ確保が出来れば、直ぐにでも大量生産が出来そうだ。
僕はそんな事を考えながら、鹸化させた鍋の液体を木の容器へと移して行く。
木は液体を吸って少し滲んでいるが、容器から漏れてはいなかった。
「じゃあ、後は、これを干して待つだけだね!」
「ふふふっ。ちゃんと、石鹸が出来ると嬉しいな!」
石鹸を寝かしている間は何もする事が無いので、僕達は鍋の中の残った液体で手を洗ってみる。
泡立ちは良い物では無いが、ちゃんと洗浄力はありそうだ。
汗をかいた頭もそれで洗ってみる。
元の世界のシャンプーを知っている身としては、なんだか髪の毛がゴワゴワする。
それでも、髪の毛のべた付きは取れてスッキリとした。
「水で流すだけよりもスッキリとする!」と、さくらも気持ち良さそうだ。
何もしない状態よりは、臭いも取れて、スッキリするから良いのかも。
(でも、この石鹸だと、髪の毛が痛んでしまうかな?)
さくらの綺麗な髪の毛を見ていて思わずそう考えた。
これでは勿体無いと。
(シャンプーとリンスが必要だな...)
『でしたら、蜂蜜をベースにした物なら保湿効果があります。これも恵みの森で取れる素材なので、次回あたりに採集は如何でしょうか?』
石鹸と蜂蜜とぬるま湯を混ぜれば、保湿効果を持ったシャンプーが完成するそうだ。
この時、ぬるま湯の代わりにココナッツミルクがあれば、もっと良いのだが。
オリーブオイルは既にあるので、ハーブなどの精油を混ぜれば色々な効果を乗せる事も出来る。
これが出来るなら、髪の毛の艶を引き出せる。
(次の目標は、シャンプーかな?だけど、次に進むのは、この石鹸がちゃんと出来てからだな!)
一つずつ、目標を達成させて行く。
出来ていない状態で、あれもこれも手を出すと中途半端になってしまうからだ。
これが会社のように部署を分けて、チームごとに別々に動けるなら別だが、今は僕とさくらの二人だけ。
逆に成功した喜びも、感動も、失敗した悲しみも、苦難も、二人で共有出来るのは今しかない。
何よりも僕は、二人で物作りをしている事が、とても楽しいのだ。
「石鹸が出来るまで時間が掛かりそうだから、明日は料理の改善をして行こうかな?」




