第10話『猫の鳴く丘にて【6】』
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
巡を背負ったまま二〇分以上逃げ続け、そして小夏が命懸けで時間稼ぎしてくれている間に全力でその場を離脱した俺の体力はさすがに限界が近づいていた。
「小夏ちゃん……」
巡は泣きそうになっている。
「大丈夫だ。あいつは、そう簡単にやられるようなヤツじゃない。俺たちを逃した後、きっとうまく逃げ延びてるさ」
「うん、そうだね。小夏ちゃんを信じよう」
本当は俺も巡も分かっている。さすがの小夏でも、文字通り俺たちを逃がすので精一杯だと。
だが、今はせめて言葉だけでも否定したい。そうでないと俺たちは前を向けないし、それは小夏の犠牲を無駄にすることになる。
「小夏のおかげでしばらくは安全なはずだから、いったん降ろすぞ」
「うん」
俺は巡を降ろし呼吸を整える。
その間、巡は俺の背中を擦ってくれた。ただそれだけでも、回復速度は三倍になる。
「……あれ? あそこってもしかして」
何も意識せずに裏路地から飛び出してきたから気が付かなかったが、ここは見覚えのある道だった。
「あのシュークリーム屋さんだね」
少し離れた位置に見つけたのは猫耳のシュクリーム屋さんだった。どうやら先程のピーク時間は乗り越えたようで、店内はそれなりに落ち着いているように見える。
そして店の前では、遠目でも分かる桜色の髪が特徴的な例の店員さんが掃き掃除をしてた。
気がつけば俺と巡はシュークリーム屋さんへ向かって歩いていた。助けを求めようと思ったわけでも、シュークリームを食べようと思ったわけでもない。なぜ体が動いたのか、自分でも分からない。
「おや、先程の彼氏さんと彼女さん……どうやら、ただ事ではなさそうですね?」
この店員さんは何者なのだろうか。俺も巡も、特別何かを訴えるような表情はしてなかったはず。この、まるで俺たちの姿を見ただけですべてを察したかのような眼差し、寒気がする。
「ああ、助けてくれ。バケモノに追われてるんだ」
かくいう俺も、頭が軽くパニックになって訳の分からないことを言ってしまった。だが、この店員さんの察しの良さならばしっかりと伝わるという確信もある。
「では、この武器をお二人に授けましょう」
そう言って店員さんは制服のポケットから、武器を取り出す。
「テレレレッテレー、猫じゃらし~」
ご丁寧にどこぞの国民的アニメで聞き覚えのある効果音までつけて取り出されたのは、その名の通りの草。
二本取り出されたそれを、俺と巡に手渡してくる。
「……は?」
「猫さんをあやすには、これが一番ですよ」
そう言って店員さんは猫耳をピコピコと動かしてお辞儀をし、ポカンとしている俺と巡を置いて店内に戻ってしまった。
しかし、俺たちにはこれ以上ポカンとする時間も、あの店員さんを引きずり出しに行く時間も、無いようだ。
「修平くんっ!」
巡の悲鳴のような声に気づいて振り返ると、葵雪がこちらに猛ダッシュしてくるのが見えた。
「逃げるぞっ!」
俺は巡の手を引いて、シュークリーム屋さんの脇にあった裏路地に逃げ込んだ。大通りは人通りが多いものの紛れ込む程の人混みはなく、ただ走りにくいだけなのだ。ましてや巡を連れていては、あの人間離れした機敏さと機動力を持つバケモノから逃げるのは不可能である。なので、走る妨害が無く、なおかつ入り組んでいて追跡者を錯乱させやすい裏路地に逃げ込むほうがいいのだ。
だが、隣町の地形に不慣れな俺は大きな判断ミスをしたことに気付かされる。
「んなっ……」
「どうしよう、行き止まりだよっ……」
俺たちはすぐに、大きな壁の前に立たされてしまった。
すぐに引き返そうと振り返ったところで、絶望を目にする。
「シャァーッ……」
もう逃げられない。変わり果てた姿の葵雪が立っていた。
「クソっ、こんなモノでどうしろって言うんだよっ!?」
俺はそう言いつつも猫じゃらしを構え、巡を背後に庇うように立つ。
だが、巡は俺の背後から出てきて震え足で葵雪の方へ向かっていく。
「おい待て巡! 危ない、こっちへ戻れっ!」
俺が叫ぶと巡はゆっくりと振り返り、恐怖に震える身体を無理やり突き動かすほどの強い覚悟と思考を込めた瞳を俺に向けた。
「こうなったらもう、戦うしかないんだよ。それにね、思い出したんだ。……葵雪ちゃんは、首がすっごく敏感なんだよ」
「シャァーッ!」
「巡ぃぃ――――っ!」
俺の方を向いている巡に襲いかかる猛獣の爪。俺は無意味だと分かっていても駆け出していた。
頭に浮かんだ数秒後の結末は、あまりにも恐ろしい未来。そんなのは絶対に認めない、巡は俺が絶対に守る。何が何でも、絶対にっ!」
「ひゃぁんっ!」
「……へ?」
「はにゃぁっ!? んんっ、くふふふ、あはははははは、やだぁ、やめへぇぇぇ」
「…………」
俺は、状況が理解できずにいた。
目の前に広がる光景は、俺が思っていた光景とは全く違うシュールな光景。
「ほらほらー、こしょこしょこしょこしょ~」
「あははっはっはははっはやめてぇっ、おねがいぃぃあはははは」
巡は手にした猫じゃらしで葵雪の首をこしょこしょとくすぐっている。ほんの一〇秒前までバケモノだった葵雪は、涙目になってその場で悶え、陸に打ち上げられた魚のように激しく身を捩り暴れている。しかし、見ているだけでくすぐったい猫じゃらしのフサフサは、的確に葵雪の首や脇や太腿等のくすぐったい部分を無慈悲に撫で続ける。
「……なんだこれは」
俺は困惑したが、とりあえず葵雪を完全に無力化する必要があるので、参戦することにする。
「ひゃわぁっ!? ひゃだ、やめへぇっ、ひぬうぅぅぅあっははっはっはっはっは」
猫耳をつけた可愛らしい葵雪は真っ白な髪を振り乱し、涙目で笑い悶える。確かに猫じゃらしのフサフサはただ握るだけでも手のひらがくすぐったく、そして明らかに葵雪は敏感体質らしい。今葵雪が感じているくすぐったさを想像すると、俺もゾっとする。
「こうさぁんっ! こんしゃんっするってばああっはっはっはっはっはっはっは」
俺と巡の猫じゃらし責めにより葵雪はあっけなく轟沈した。
※
俺と巡と葵雪の三人でデパートに戻ると、ひよりと椛が首を長くして帰りを待っていた。
「もー、遅いですよ!」
「はやくシュークリーム食べたいんだよ~」
葵雪を轟沈させた後、俺たちはすぐにひよりと椛に、『シュークリームがまた食べたくなったから買いに行っている。みんなの分も買う』と連絡を入れたのだ。即席の作り話であり、財布へのダメージが増えたものの、突然デパートから居なくなった言い訳づくりにはなる。
「ほら、これがひよりと椛のぶんだ」
俺は買ってきたシュークリームの箱をそのまま渡した。
ちなみに、俺と巡はシュークリームを食べていない。笑いすぎて乱れた呼吸を整え終わった葵雪の機嫌を取り戻すために、たくさんのシュークリームを貢いだからだ。
なんとか葵雪の機嫌は取り戻せたものの、葵雪の可愛らしすぎる貴重な姿を盗撮した秘蔵ファイルは全削除。もちろん、ひよりと椛に話すこともできるはずがない。今でこそ元通りに戻っている葵雪だが、そのアメジストの瞳の奥には常に、何かよからぬことをすれば即座に俺たちの首を刈り取るぞという警告が込められている。
「あ、お兄ちゃん達。置いていくなんて酷いよー」
小夏もデパートに到着した。俺と小夏は今ここで初めて再会したわけであり、『置いていくなんて』というのは今小夏が即席で考えたセリフである。
あの後すぐに小夏とも連絡が付き、どうやら死んだフリで葵雪をやり過ごして無事だということが分かった。俺たちはデパートに付く前に連絡を取り合って口裏合わせをし、それぞれデパートで合流しようと決めていたのだ。
俺以外のみんなが猫耳を付けた状態という、シュールにして可愛らしすぎる町遊びはまだまだこれから。俺たちはデパートを出て、次なる遊び場を目指す。