金木犀
陽だまりのような金木犀の香りとともに、柔らかく通り過ぎていく風に乗って鼓膜に触れる、あのピアノの旋律が好きだった。
あれは、恋だったに違いない。
五線譜を跳ねまわる音符の列を、包み込むように操る巧手。人懐っこくも優雅、穏やかでありながら芯のあるような、矛盾の先にある神秘的な音色。そして、リズムをつい首の動きで追ってしまうような、隣人感。しかし、触れはしない星の瞬きに似た儚さも持ち合わせた余韻。
全てが、恋だった。
恋は盲目と言うが、目には見えない僕の恋は、言い得て妙なのか、はたまたイレギュラーなのか。少し考えて、ほんの少し、楽しくなった。
あの頃、僕はこの道が通学路だった。部活を引退し、帰宅時間がずれたことで、僕はその音に出会った。運命と名付けてみよう。何ともロマンチックではないか。
学校帰りの、数式やら異国の言語やらで疲弊した僕を、いつも何も言わずにその懐に迎え入れてくれた。金木犀の樹のそば、そこが僕らの待ち合わせ場所だった。
だから僕は、いつも決まってこの道を通った。
そして、今。
僕の二本足で通っていたこの道を、タイヤの四本脚が鈍行で駆ける。
あのピアノの音色は、どこか遠い別の地で、流れているのだろうか。
「おい、ゆっくり走ってどうしたんだよ」
「いや、なに。少し郷愁に駆られたんだよ。ここは……、特別なんだ――」
曲の細部などは忘却の彼方へと旅立ってしまったが、あの時の気持ちは、心に描かれていたあの景色は、色あせることなく思い出せる。
窓を下ろす。やはり、ピアノの音色はそこにはなかった。
しかし、金木犀の香りだけは、あの頃と変わらない。待ち合わせ場所は、あの日の僕の心がここにまだあるように、今でも変わらず息づいている。
それがまた、より一層の物悲しさを生じさせた。
停滞していた訳ではない。何か大きな失敗をした訳でもない。
ただ、何となく。
振り返ったときに、そこにあったはずの何か大事なものを無くしてしまったような、僕の心だけが取り残されてしまっている気がしたのだ。いや、単純に過去の自分に嫉妬しているのかもしれない。
そんなことを考えて、自嘲気味に笑みを漏らした。
「それでは、お聞きください。――さんで、“金木犀”。」
ふと、ラジオの声が、耳に飛び込んできた。
同時に流れ出す。あの頃と同じ、たくさんの色を持った、旋律。
「あぁ、何てことだ……」
温かさがこみ上げてくる。涙腺を叩く。心が騒ぐ。ちくしょう。
こんなこと、運命という言葉以外で表現できる訳が、ないじゃないか。
何も変わらない、恋が、そこにはあった。
アクセルを法定速度に合わせるように、やや強めに押し込む。金木犀の香りは後方へと流されていった。ピアノの音の漏れ出る家屋も、段々とバックミラー越しに小さくなる。
「もういいのか」
「ああ、もう、十分だ。むしろ――」
これ以上は、車内にわずかに残る金木犀の香りの混じる、僕の頬の一筋が代弁してくれている。言葉を重ねるのは無粋だろう。僕らの恋に、言葉などなかったのだから。
鼓膜と心を震わせる、“金木犀”。
金木犀を通して、僕らは繋がっていたのだろうか。
そうだと信じたい。
だってこんなにも、美しい。
眼前の信号機は、車が停止する前に青色へと顔を変えた。
青色は、安全が確認できるなら、進んでも良い。
ラジオには、幻想の溢れる調べ。
きっとこの曲は、どこまでも。
思い出を超えて、どこまでも進んで行ける。