09:王家の娘
友よ。
我が友よ。
君は今、どの海に。
私の手が届かぬのならば、せめて優しい誰かの手があるように。
***
トムがジャネットの行方を探すように求めた手紙は、王都にいる国王、アルバートの手元に届いた。
「”東の果ての島”の娘とは厄介ですね」
相談を受けたウィステリア伯爵ランスロットが言った。彼はトムの伯母・ニミル公爵夫人オーガスタの息子であった。つまりはアルバート王とも、トムとも従兄弟同士である。
「調べたところ、半年前にヒース伯爵家の娘と角笛岬のホルン伯爵との婚姻許可願いが出ています。
娘の名前はジャネット――」
「その娘が、トムの所にいるのか?」
「おそらく」
「……ホルン伯爵家はなんと? 花嫁が届かなかったのだろう?」
それどころか、親元であるヒース伯爵家すらも沈黙を守っていた。
「あの両家はエンブレア王国が興るずっと前から、この土地に存在していたと伝えられる一族の長の家柄。
古に王家となんらかの約定を交わしていて、エンブレアの爵位を持っていても、我々が深く関知出来ないと聞きます。
ですが、それがどんな内容なのかはもう分かりません。それほど昔の話です」
船は本当の東の果てに辿りつき、そこが果てではないことを知った。自分たちが立つ大地は丸く、太陽の周りを回っている。あらゆる物事が、”科学的”に説明されるようになり、この世に、不思議なことは無くなってきていた。
そんな時代に、エンブレア王国に四つある”妖精伯爵”と呼ばれる彼らとの約束は、軽視され、忘れ去られようとしていた。
アルバートはそれを含めて不安に思った。
「ウィステリア卿。私の手紙を届けるついでに、様子を見てきて欲しい。
私はここで、”妖精伯爵”に関しての情報を集める。ちょうど”良き隣人”にまつわる物語を編纂している所だから、それにかこつけて調べられるだろう」
「畏まりました」
「オーガスタ伯母上のこと、気を付けるように。
そのために、ウィステリア卿を派遣するのだ」
「はい。我が母に、これ以上、好きにはさせません」
ランスロットは紫がかった深い青い瞳に愁いを浮かべ、王の前を辞した。
馬を駆って赴くのは、王立植物園の別園だ。
しかし、辿りつく前に激しい雷雨に阻まれ、足止めを余儀なくされた。
雨宿りするために立ち寄った途中の宿屋に、彼の実家、ニミル公爵家の紋章がついた馬車を見掛け、舌打ちをする。
「さすが我が母上だ。嗅覚が鋭くていらっしゃる」
畏怖と、呆れが混じった賞賛だった。
***
二度、エンブレア王国に生還を果たしたトムを、母親はあらん限りの力で抱きしめた。
「ああ、今度こそ、駄目かと思った。
良かった……」
良かった。本当に良かった。
何度も何度も呪文のように繰り返した。それは意図されずに、息子に掛けられた呪いとなった。
緊張の糸が切れたのか、母親は気を失った。寝台に運ばれるその姿を見て、トムはもう、海に出ることはしないと決めた。
出航した船とは別の商船で帰港し、先触れもせずに公爵家に駆けつけたせいで、トムが戻って来たことを、多くの人間はまだ知らなかった。
にもかかわらず、すぐに彼を訪ねて来た女性がいた。
それが、ニミル公爵夫人である。太王太后であった母親が亡くなった為、喪に服していることを表す、黒いドレスを着ていた。
彼女は言った。
「あなた生きていたの?」
「いけませんでしたか」
「そうね」
「なぜですか?」
トムはかつて自分が感じた居心地をの悪さを思い出した。罪悪感を思い出した。
あれは全て、この目の前の優しげな女性が、彼に与えていたのだと気が付いた。ニミル公爵夫人は相談に親身に乗るふりをして、彼の心に不安や罪の意識を植え付けていたのだ。
「母が亡くなったわ」
「――はい」
「”あの外国の王妃”がね」
愛情の欠片もない口ぶりに、幾多の死線をくぐり抜けた青年が恐怖した。この感覚は経験したことがないものだ。
「なぜそのような……」
「なぜ? なぜ? あなた、なぜ? ばかりね」
少しは自分の頭で考えなさい。
伯母が蔑むように言う。
トムの従兄であり、海軍では上官にあったウィステリア伯爵ランスロットは自らの母親を「あの人は怖い人だ」と評したことがあった。
それはいつのことだろうか。もう思い出せないくらい、何気なく呟かれた言葉だった。
その記憶が一気に甦る。
この人は、怖い人だ。
いつもはそれを隠しているのに、今は明らかにしている。と、言う事は、自分は危険に直面しているに違いない。
「あの女は裏切り者だからよ」
「裏切り者?」
なぜ? と言いかけて、口を噤む。
「あの女は王を裏切ったの」
耳元で、ニミル公爵夫人は囁いた。「他の男と通じて子どもを作ったのよ。そうして生まれたのがあなたの父親、フィリップ。本来ならば、ストークナー公爵を名乗るような身分ではない男」
トムは自らの父の出生の秘密に息を呑んだ。
ニミル公爵夫人オーガスタ、先王、ストークナー公爵フィリップ、三人の姉弟の母親である”あの外国の王妃”は、そのようにエンブレアの民衆に言われるほど、嫁ぎ先に馴染めなかった。
出身地である海を隔てた隣国”花麗国”の言語、文化、習慣をエンブレア王宮に持ち込み、それを押し通した。
夫婦仲は悪くもなく、良くもなかった。ただ、お互いの義務を果たして、二人の子どもを作った。
その後のことだった。”王妃”はある舞踏会で、異国の若い男に心を惹かれてしまった。男がどういう魂胆で、”王妃”という身分の女に言い寄ったのかは分からない。単なる色好みで、身分の高い女を落としてみたかったのかもしれない。何かの謀略だったのかもしれない。男は”王妃”と何度か逢瀬を重ねると、あっさりとエンブレア王国を後にした……らしい。
すべて謎である。
なぜならば当事者である”王妃”の話が、脈絡のないものだったからだ。
男の胤を宿してしまった”王妃”は、夫である”国王”に知られることを恐れ、実家から持って来た毒薬を使って衝動的に殺してしまったらしい。
「自分可愛さに、迷惑な話だわ」
王を失ったエンブレア王国は、まだ三歳の幼い王子を国王としなければならなくなった。
幼い王の後見として宰相となったチェレグド公爵が権力を握り、私利私欲に走った。成人した王は王で、身分の低い男爵令嬢を妻にすると言い張り、その通りにした。
「それについては、良かったと思ったのよ。
愚かな私情に駆られたとはいえ、先王はチェレグド公爵家の娘との婚約を破棄し、恋人と結婚する為に、実権を取り戻した。
とても良いことだったわ」
微笑むニミル公爵夫人は、いつもの彼女のように慈愛に満ちていた。
彼女は国王の長女として生まれ、次世代では最初に王位継承権を得た子どもだった。幼い頃より、エンブレア王国を支えるように教育を与えられた。エンブレア王国は自分の国。自分が守るべき国と教え込まれた。そして、その”守る”という行為の中には、決して国王の長女である彼女が、王座を狙う野心を持たないことも含まれると刷り込まれた。
彼女は男の王位継承者が絶えた時に、緊急避難的に据えられる予備の予備の予備でしかなかないと。彼女が軽視されていたからではない。むしろ優秀で高貴であるが故に、幼王を擁して実質的権力者となったチェレグド公爵に、あらぬ疑いを掛けられないようにする為の、周囲の大人たちの苦肉の策であった。しかし、その教育は、ニミル公爵夫人の元来持っていた性格と、その後の経験が合わさり、彼女にある歪んだ思想を持たせるに至ってしまたのだ。
即ち、自分は王にはならない。なぜならば、それよりも高みにたってエンブレア王家を、国を、”正しい”方向に導く存在だからなのだという考え方である。
そんな彼女にとって、弟の王の不甲斐なさは、苛立たしいものだった。
「ただ、男爵令嬢が王妃になって、その息子が国王になるのはぞっとする話だったわ。
だけど、この国にはまだフィリップがいる。その時は、あの子が希望だった――」
ニミル公爵夫人はストークナー公爵に侯爵家の娘を娶せた。由緒正しい家柄だったが、エンブレア王家とは縁を結んだことがなかったこともあり、喜んで娘を王弟に嫁がせた。
「これでもう安心だと思ったの。
フィリップに男の子が生まれたら、その子を王太子にすればいいでしょう?
王妃には子どもは諦めてもらうことにしたの。男爵令嬢如きが王妃になれただけでも幸運なのに、国母だなんて、ずうずうしいものね」
母親が夫を殺すときに使った毒薬を使った。それは”王家の妙薬”と呼ばれ、王家の諸問題を解決する薬と言われているものだった。要は不都合な人間は消してしまえ、という意味での妙薬である。
さらにその”妙薬”の効能には人の命を左右するというものもあった。人が生まれることも制御出来たのだ。
トムは船倉から出された時と同じように、大体を理解した。
ニミル公爵夫人はエンブレア王国に不必要と考える人間の命を奪ってきた。そして、それになんら良心の呵責を感じないという精神構造をしているのだ。
「だからあなたが生まれた時、私はとても喜んだわ。誰かが『王太子殿下ご誕生、万歳!』と祝砲を撃った時、エンブレアの民は自分たちが戴く王が誰であるか、ちゃんと分かっているのだと感動したほどよ」
王妃ではなく、王弟の妻が生んだ男の子を王太子殿下呼びする。
その不敬な事件が、当時の王妃の心を苛んだことは想像に難くない。そして、もう一つ、祝砲を撃った犯人すらも想像できなかった波紋を呼んだ。
「なのに、それを聞いたお母さまは取り乱したの」
娘にすがって”あの外国の王妃”は自分の罪を白状した。「あの子の子どもが王太子ですって! とんでもない! あの子は王の子どもではない! あの子の子どもが王位に就くなんて……!!」
「その時の私の絶望が、あなた分かって?」
その絶望を与えたのはお前だと言わんばかりの視線だった。そうかもしれないが、トムには一切の罪があろうはずがない。勿論、父親のストークナー公爵もだ。しかし、ニミル公爵夫人は二人を責めた。
「おかげで私は、あの男爵令嬢に王子を生ませないといけなくなった。
男爵令嬢が生んだとしても、王家の血を引いている王子の方がよほど貴いわ」
反論したいことはたくさんあったが、トムは彼女に何を言っても伝わらないと思った。
「王子は無事に生まれ、すぐさま立太子させた。
それでも不安だったわ。身体の弱いアルバートがいつ命を失うか。そうしたら、お前を王太子にという声が出るでしょう。
第二、第三の王子がいればともかく、王はもう王妃に見向きもせずに、男爵令嬢よりも始末に負えないような女に手を出すばかり。
いっそ私が生んだランスロットの方がまだましだわ」
まだ、まし。
どころか、ウィステリア伯爵ランスロットは、トムを除けば、理想的な王位継承候補であった。トムを除けば――。
「あなたが王妃に殺されたと聞いて、ああ、エンブレア王国は守られたと感謝したわ」
なのに生きて帰ってくるなんてね――。
トムの死を望んでいたのは、王妃だけでなく、ニミル公爵夫人もそうだった。
***
「私は生まれてきてはいけない存在だった」
「そんなことないわ!」
ジャネットが叫んだ。
「ねぇ、トム。しっかりして。いなくならないで!」
自分の生を望む声を聞いたトムは、涙を流した。その涙を、温かい唇がそっと拭った。
手を伸ばせば、それを握ってくれる手があった。
「まだいたの……か……」
「そうよ! 私は約定から解放され、自由になった!
だから好きにするの。だからここにいるのよ。あなたの側にね!
あなたが生きようとしないと、毒は消えないの。
だから頑張って……」
毒の影響は抜けた気がした。身体が楽になったのが分かった。彼の体液に触れたジャネットも無事のようだ。その彼女の言う通り、後はトム自身の気力が、彼を死地から生還させる。
目を開けると、ジャネットの顔があった。自分を心配してくれる存在。彼女だけでなく、ジョンも、両親も、従兄弟たちも、彼を案じてくれている。
「ジョンは?」
「まだ帰ってこないわ。外は酷い嵐なの。それで帰ってこれないに違いないわ」
そう言えば、今日は月に一度、ジョンが町に買い出しに行く日だった。兵士経由では買えない、自分たちの目で確かめて買いたいものを購入する為だった。
毎月恒例のそれを、ジャネットがいるからといって止めるわけにはいかなかった。逆にあらぬ疑いを掛けられてしまう。
トムはジャネットと二人っきりになるこの日を恐れていた。何か間違いを仕出かすに決まっている。
「嵐はどれくらい続きそう?」
「今夜いっぱいは……」
「ねぇ、ジャネット?」
「なに?」
もう一度、水を飲ませて欲しいと頼んで、トムはジャネットを今度こそ捕まえた。




