08:彼の過去
ここはひどく熱い場所。
風は凪いで、船は止まる。
微かな揺れが教えてくれる。
ここはまだ、旅の途中――。
***
幼い日、トムは誘拐され、船倉に入れられた。
ようやく船の上に引き出された時には、陸は遠く、家は遥か彼方にあった。
「僕はトーマス。トーマス・リチャード・ストークナー。
父はストークナー公爵だ! お願いだから家に帰して」
そう訴えた彼を、取り囲んだ大勢の船乗りたちは笑った。
「こいつ自分を公爵さまの息子だと言っているぞ」「そんなみすぼらしい服を着た公爵の息子がいるもんか」と、誰も相手にしてくれなかった。
確かに彼はいつのまにか、ボロ衣のような服を着せられていた。
しかし、彼が申し出た素性は本当のことだった。
トムは当時のエンブレア国王の弟、ストークナー公爵の嫡子であり、自身もハートウィル侯爵を拝命している王位継承権第三位の人間であった。
その王位継承権の高さが、彼をこのような非道な目に合わせることになる。
当時のエンブレア王妃が、王位継承権の中でも高位にいるトムを疎んじ、殺すように命じたのだ。ただし、実行犯は子どもを殺す代わりに、悪質な船主に売って双方から二重の代金を受け取ることにしたようだ。腹の立つ話だが、結果的に命だけは助かることになる。誘拐犯はご丁寧に、「この子どもは嘘吐きでずる賢い、性質の悪いガキだから気をつけな」と言い置いて行ったせいで、トムはその通り”嘘吐き伯爵”という、ありがたくない仇名を、早速、付けられることになる。なぜ”伯爵”なのか、彼には分からなかったが、船乗りたちにとっても意味は特になかった。単に”お貴族さま”という揶揄である。
粗野で粗暴な船乗りたちの中で、比較的”親切な”男が彼に教えてくれた。
「坊主。家には帰れない。
海に飛び込んで今すぐ死ぬか、ここで働いて、その内、死ぬか、そのどちらかを選ぶんだ」
まだ九歳の子どもではあったが、トムは賢かった。自身の立場を大体、理解する。
生き延びる可能性がまだ残されている、働く方を選んだ。
公爵家の嫡子として生まれた少年に、船乗りの仕事は過酷だった。
それでも彼は必死で働いた。全ては生きて両親に会う為だ。母恋しい年頃の少年は、何度、ハンモックの中で涙したことか。それすらも、周りの人間にからかわれる始末だ。トムに優しい人間など、誰もいなかった。彼を嘘吐きと呼んでは嘲り、仕事が遅いと食事を与えられず、目つきが気に入らないからと殴られた。
悪夢のような日々のはじまりだった――。
***
そうだ、悪夢を見ている。
トムはぼんやりと思った。
ここは船内ではない。暑くて揺れているが、潮の香りはしない。揺れているのは自分の身体で、それは震えているといった方が正確な表現だ。
「トム!? どうしたの!?」
薔薇の香りに、少女の声がした。また何か質問をしている。
「ジャネット?」
まるで誘拐された時のように、意識が朦朧としていた。
しかし、彼を抱きかかえるのは骨ばった男の手ではなく、華奢ではあるものの、柔らかな肉のついた白い腕だった。
「……私に……触るな……」
そう言ったまま、トムはまた悪夢の中に引きずり込まれ行く。
***
十年間、トムは様々な船に乗り、最終的にはエンブレア王国の海軍士官候補生にまで行きついて、ついに母国に生還を果たした。
彼を謀殺しようとした王妃は失脚し、もうトムを脅かす存在はないと思われた。
ようやく再会した母は、失った十年を取り返すように、トムを手元におき、ひたすら可愛がった。
嬉しい。
嬉しいはずだった――。
母は自分をずっと待っていてくれた。自分の為に、どれだけの心痛をかけたか。
それを思えば、トムはずっと母の側にいるべきである。
だが、彼は十九歳の青年となっていた。”外の世界”を見て、自由を知った。
そんな彼に、窮屈な公爵家の生活は、すでに馴染めないものになっていた。それだけではない。トムは奇妙な居心地の悪さを感じるようになった。誰かに拒絶されているような、憎まれているような、そんな感覚だ。艱難辛苦を乗り越えて帰って来た公爵家の息子を、皆が温かく迎え入れてくれていると言うのに、そんな風に感じてしまう自分が嫌だった。
もしかしたら、同じ公爵家の、同じ年頃の嫡男二人が、海軍士官として親元を離れて活動していることに、男として恥じているのかもしれないとも思った。
「そんなことはないわ。あなたはようやく帰って来たのだから、しばらくはゆっくりすべきよ。お母さまを安心させてあげることこそ、あなたの大事な仕事。
第一、皆が外に行ってしまったら、誰が国王陛下を支えるの? あなたはハートウィル侯爵として、その責務を負うべきよ。
結婚はしないの? 誰か好きな人はいる? いないのなら私がよい相手を探してあげるわ。孫の顔を見せてあげなくてはね」
伯母、ニミル公爵夫人はいつも彼を気にかけ、不安を取り除いてくれようとした。実の母親だからこそ相談出来ないことも、伯母には出来た。同じ”母親”という立場で、トムに助言をくれる。
けれども、その時は納得するのに、すぐにざわざわと罪悪感とも焦燥ともつかない気持ちが浮き上がってくるのだ。
彼は耐えた。馴染めなくても、我慢出来ない訳ではない。あの劣悪な環境の船上で十年を過ごした彼は、どこでだって我慢出来る。まして夢にまで見た、母親との生活ではないか。
そう夢――悪夢だ――。
自由に生きたいと思う自分と、そうすることで母を裏切ってしまう自分。その狭間で、トムは苦しむことになった。
一年が過ぎた頃、母親は言った。
「ありがとう。これでもう十分よ。好きなところに行きなさい」
「母上……」
微笑む母親の胸の内を、知らない訳ではなかった。
母親は自分の気持ちを押し殺し、息子を”外の世界”へと押し出したのだ。
子どもは親離れしていた。親だって、子離れしないといけない。手離すこともまた、愛情である。
「だけど約束してね。
たまには顔を見せに帰ってきてくれるって」
「――勿論です! 必ず!」
最初の船から逃げ出した港町の市場で、彼は薔薇の花を見た。
ああ、ここにも薔薇が咲くのかと感動したものだ。
彼の家にも素晴らしい薔薇園があった。そこにはジョン・ガーデナーという腕利きの園丁がいた。トムは彼が大好きで、いつも彼の後をついて回っては土いじりをするような子どもだった。ジョンはトムに薔薇の育て方を教えてくれた。
しかし、エンブレア王国一と讃えられたストークナー公爵家の薔薇園は、トムを謀殺しようとした王妃の妬みによって、根こそぎ奪われてしまう。トムの母親は「花は薔薇だけではないわ。これを良い機会に新しい庭園を作りましょう。今度はいろんな花がたくさん咲く、賑やかな庭がいいわね」と前向きに許したのだ。
それを思い出したトムは、いつか母の庭を異国の珍しい植物で飾ることを希望として、新しい土地に行った際には、そこに咲く花を観察したり、時には種をもらったりするようになっていた。
エンブレア王国では珍しい植物を集めるのが国策として推奨されており、世界中の植物が王立植物園で栽培されていた。
植物に対し、独学だったが知識を深めていたトムは、その王立植物園から委託された植物採集人として船に乗ることに決めた。
航海は長くても一年と決めた。一年に一度は、必ず母親の元に戻った。
けれどもある年の航海で、彼の乗る帆船は凪に捕まってしまい、約束を果たせなくなった。延期されるくらいならばいいが、赤道近くの暑い海域で、それは致命的な事態だった。
水は節約されたが、船が動き出すまでもつかどうか分からない。
当然、トムが採集して、小さな鉢に植えていた植物たちへの水やりは中止された。
トムもまた、厳しい制限下で、少ない水の配給で生き延びなければならなくなった。
***
「……水が欲しい……とても喉が渇いた」
「水? 分かった……もってくる!」
あの時とは違う乾きだ。
トムは朦朧とした意識の中で、それが分かった。この焼けるような渇きは、毒性のある植物を誤って口にした時のそれの方に近い。
「喉が渇いた。水が欲しい……」
「ほら! 水を持って来たわ! 飲んで! ねぇ、トム! お願いだから!」
口元に水が流れる。トムは水を呑み込むことが出来なかった。
「どうして?」
「また質問するのか? ……きっと、毒を盛られたのだろう」
「毒!?」
「なぜ?」
質問には答えてあげたいが、もう口が回らない。
「トム!」
ジャネットが名を呼ぶ。
それからトムの唇に、温かいものが触れ、そこから生ぬるい水が流れ込んでくる。
水のおかげか、それともジャネットの行動に驚いたのか、トムは目を開けた。
「いけない……」
「なぜ? 水が飲みたいのでしょう?」
「君にまで……毒が……」
どんな毒を使われたのかは分からないが、汗や唾液を介して、ジャネットにまで影響を受けるかもしれないと恐れた。
それどころか、”あの人”はジャネットに直接、毒を使うかもしれない。
「平気よ」
事もなげに言う娘に、トムは荒い呼吸の中で叱った。
「だめだ……早くここから出て行くんだ……出て行け!」
「いや……! だって私はトムの……」
「――薔薇の代償は支払われた。ありがとう。もう十分だ。好きなところにいくといい」
彼女がこだわっていた物事を取り除き、「アランを頼れ……」と、なんとかそこまで言うと、トムはまた悪夢の中に戻った。
窓の外を雨が叩きつける音がしはじめた。俄かに雷も鳴り、トムの姿を浮かび上がらせた。日焼けした彼の顔は、今は真っ白になっている。
「お願い。トムを助けて」
ジャネットは誰ともなく言うと、もう一度、自分の口に水を含んでトムに与えた。
***
配給された水は生ぬるく、ヘドロのようで飲めたものではなかったが、トムは必死に飲む込んだ。
ここでは死ねない。母親を二度も悲しませることは出来ないのだ。
水を飲み干すと、彼は自分の船室を見回した。
かつては自然の中で大地に根を張り、天に茎を伸ばし、空に葉を広げて生きていた彼らが、今では小さな鉢の中で窮屈に縮こまって、死を待っていた。
何個も……何十個も……部屋中に、採集してきた植物や、その標本が所狭しと並び、彼を見ているような気がする。
「ああ……」と、トムの口から悔恨の声が漏れた。
自分はなんてことをしてしまったのだろう。
「誘拐犯は私じゃないか」
かつての自分がされたように、故郷から勝手に持ち出してきたのだ。
そして、今、それらを徒に殺そうとしている。
自分は大きな罪を犯した気がした。暑さと脱水状態で、彼は正常な判断を欠いていた。
採集した植物たちに、責められているような脅迫観念に苛まれたのだ。
「すまない……」
すまない。すまない。しかし、自分の水を与えることも出来ない。
呪文のように謝罪の言葉を口にしながら、トムは葉が枯れる前に、全てを標本化しはじめた。
トムの乗った船は、なんとかある南の島に辿りつき、命は助かったが、植物は標本に出来たもの以外は、全て枯れた。
島の植生は豊かだった。トムは性懲りもなくそれに惹かれたが、根こそぎ持ち出すのは止めた。代わりに、葉や実、花を少しばかり摘み取り、絵を描くことにした。
島の住民たちは、やってきた”外の世界”の住民に、警戒したが、次第に互いに交流するようになる。
中には島の娘と恋仲になる者もいたが、彼らを文明の劣る者と見下す者もいた。トムは前者よりの人間だった。島は豊かで、いつも美味しい果物が実り、海からは魚が溢れんばかりに取れた。服を着こまなければいけない程、寒い日などない。文明が無いと言うが、生きる知恵も知識もあった。皆、幸せそうに暮らしている。
トムはそこで生きるのもいいのではないかと思った。
彼に連れ去られた植物が、エンブレア王国の地に根付くように、彼もこの南の島に根を張ることが出来る。
半年後、エンブレア王国に戻る算段がついた。
島の娘と結婚した男は、ここに残ると言った。島の娘を、島から連れ出すことを是としなかったのだ。彼を羨ましいと思い、トムも自分も残ると話した。男は「それは心強い」と嬉しそうに笑った。なのに、トムは寸前で考えを変えてしまった。
やはり、母親のことが気になったのだ。
「すまない……」
すまない。すまない。しかし、自分はここに残ることは出来ない。
島から離れる船の上から、トムは謝罪の言葉を紡ぎ続けた。