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07:薔薇の囁き

 その感情を、なんと名付けるか、娘よ。

 甘い香りの如き気持ちをなんと呼ぶ。

 それを知るにはまだ足りぬ。

 ここはとても素敵で楽しい場所。あの人がいる所――。



***



 そんなことがあって以来、トムはもう夜の整理作業をジャネットと共にすることはなくなった。

 自室に標本の箱を持ち込み、仕事をしている……と、言いながらも、芳しい成果はあがらない。ジャネットもまた、夜に標本を扱うのを止めてしまった。わざわざ油を使って灯火をつけて、一人で仕事をする気にはなれなかった。標本整理は国から与えられた正式な仕事ではなく、トムが長い間、採集し、貯め込んできたものを片付ける意味での物だったので、期日がある訳ではない。昼間はジャネットがせっせと手を動かしているので、これまでよりもずっと進んでいるくらいだ。

 

「今日はお休み?」


 今朝もまた、自分の作業をはじめようとしたジャネットに、トムが休暇を与えることを告げた。


「そうだ。

君に休日を作るのを忘れていた」


 ジャネットが指摘した通り、トムにとってはここでの生活が全て仕事に直結しているので、休みなどという概念がなかった。しかし、ジャネットはそうではないだろう。


「”外”に出たい? もし、村に行きたければ父さんに頼んで連れて行ってもらいなさい。

決して一人で出歩いてはいけない。

兵士たちにも気を付けるように」


 思わず最後、そう付け加えてしまった。

 ジャネットの気配は、そろそろ警備の兵士たちの間でも話題になってきた。中を覗き込もうとする輩もいる。

 トムはジャネットを他の男に見せたくないという、自分勝手な気持ちを抱くようになっていた。それではいけない。ジャネットが村に興味を持つような話をしてみる。王都とは比べ物にならないが、それでも村には女の子が好きそうな服飾小物の店や、甘い菓子の店がある。少ないが給金も払うので、それで買い物でもしてくるといい。

 トムが矢継ぎ早にそう言うと、ジャネットの首が傾いていく。


「よく分からないわ。お休みって何をするの?」


「だから君の好きなことをするんだよ」


「じゃあ、植物画を描きたい」


 それはトムと一緒に居たいという申し出と同意義だった。夜の仕事を一緒にしなくなってから、二人が顔を合わせるのは食事の時だけになり、ジャネットはトムの話を聞けなくなっていたからだ。


「それかまた温室に行きたい。薔薇園でもいいわ。

……そうだ! 薔薇園に行きたい! 今頃、すっかり見頃になったはずよ」


 ついに薔薇園の存在を思い出されてしまったトムは、渋い顔になる。


「君は休みだけど、私はそうじゃない。

行きたいのなら、一人で行きなさい」


「……一人はつまらないわ。

トムにだって”お休み”があってもいいでしょう?」


「私は必要ない」


「じゃあ、私にだって必要がないわ」


 ジャネットは意地になって、「私、仕事する」といつもの部屋に行こうとする。

 咄嗟に、トムはその手首を掴んでしまった。


「待て」


 ジャネットが振り向くと、銀色の髪の毛が揺れた。彼女は薔薇の香りがする。


「一緒にいたいわ。なぜ、私を避けるの?」


 若い娘が臆面もなく、そのような台詞を言うべきではない。

 だが、ジャネットは普通の若い娘ではないようだ。


「君が私と一緒にいたいのは、君の言う”約定”に縛られているからだろう」


 苦々しい声は、トムこそ、その約定に拘っているからだ。


「違うわ。そう言った。薔薇の代償として働いているけど、それとは別にトムといると楽しいから、一緒に居たいだけよ。

それがなぜ、いけないの?」


「私は……」


 薔薇だ。

 トムにはジャネットの考えていることや感情がさっぱり読めない。それなのに心が揺さぶられるのだ。美しい薔薇を掴んでいるようだ。

 パッと、掴んでいた細い手首を放す。


「トム、青い薔薇が欲しい?」


 唐突に、ジャネットが聞いた。


「なに?」


「青い薔薇があれば、トムはここから解放されるんだって」


 大方、ジョンから聞いたのだろう。


「青い薔薇があれば、ね」


 ジョンに対しては怒りはない。彼はトムのことを本当に心配してくれているからだ。

 それに青い薔薇のことを話したって、それが一体、なんになるのだろう。青い薔薇など、どうあがいても、この世には咲かない花だ。

 昨日も薔薇園には、”悪くなった肉の色”の薔薇が咲いた。


「咲いたわよ」


 それなのに、あっさりとジャネットは言った。


「何が?」


「青い薔薇」


 ジャネットはひらりと身をひるがえすと、彼女の小部屋に入って行った。

 待つ必要なんてなかったのに、トムは動けなかった。彼は期待していたのかもしれない。もしかしたら青い薔薇は本当にあるのかもしれない。

 けれどもジャネットが青い薔薇を手にして戻ってきた時、大きく失望した。

 それはあまりにも青かった。あまりにも理想的な青だった。春の空を映したような真っ青な薔薇。

 そんな薔薇、あるはずがない。


「アランが妙な知識をつけたのか?」


「何を言ってるの?」


「大方、アランの絵の具を使って染めたのだろう!」


 失望は怒りに変わる。

 トムは自分の拳をきつく握った。そうしないと、怒りを収められなかったからだ。

 ジャネットはただ、トムの為に、こんな真似をしたのだ。そう言い聞かせても、やっぱり悲しくてやるせない気持ちになる。


「違うわ!

この子は青くなったの。トムの為に!」


「何を言っているんだ! 青い薔薇なんてないんだ!」


「トムはなぜ信じていないものを作ろうとしているの?

青い薔薇が咲かないのは、トムが信じていないからだわ!」


「そんな問題じゃないのが、君にはなぜ分からないんだ!」


 差し出された青い薔薇を、トムは振り払った。

 憐れな青い薔薇は床の上に落ち、ジャネットの顔が曇る。

 その時、トムにははっきりとジャネットの気持ちが伝わってきた。彼に失望しているのだ。

 そうさせたのは自分のくせに、トムは「もういい。好きにしろ」とジャネットを置いて行った。

 途中でジョンとすれ違うが、声を掛けるどころか、顔を見ることも出来ない。不甲斐ない自分を責めながら、足が向くのはやはり薔薇園だった。



***



 ただならぬ様子を見たジョンは、今度は小さな家の中から飛び出てくるジャネットと行き会う。


「どうしたと言うんだ?」


「トムはどっちに行ったの?」


「薔薇園の方だよ」


「この子のこと、お願い。水に入れてあげて」


 ジャネットは拾い上げて持っていた薔薇をジョンに預けると、薔薇園の方に裸足で駆けて行った。


「何が起きた?」


 ジョンもトムの所に行こうとして、ジャネットに渡された薔薇を見て「あっ!」と声を上げた。

 それは青い薔薇だった。

 はじめはトムが疑ったように、染色したものと思う。しかし、花弁に触れても青い色を塗った様子はなく、道管にも青い色水を吸わせた跡はなかった。

 どこからどう見ても、本物の青い薔薇にしか見えない。

 ジョンは驚きのあまりその場にへたりこんだ。


「奇跡が起きたんだ……」


 その奇跡を起こしたのは――ジョンはジャネットが走って行った方を見た。



***



 ジャネットはトムの薔薇園で彼に追いついた。


「トム!」


「どうして付いてくるんだ!」


「分からないわ!」


 ジャネットも混乱した様子で叫んだ。


「どうしてなのか教えて! トムは何でも知っていて、何でも答えてくれるじゃないの!」


 風が起こって、ジャネットの髪の毛を巻き上げ、咲き誇った薔薇が揺れる。芳しい香りが匂い立つ。「恋よ」「恋なの」「恋をしているの」

 トムは自分が育てた薔薇たちのざわめきから耳を塞いだ。


「分からない!」


「トム……」


「どうすればいいのか、分からないんだ!」


「あなたの好きにすればいいのに!」


 ジャネットの視点が回転した。

 背中に地面を感じる一方、視線の先には青い空が見えて、トムの顔があった。


「トム?」


「好きにすればいいと言った……」


「これがトムのしたいこと?」

 

 自分の置かれている立場が分かっていないジャネットは、そう聞いた。


「そうだ」


 最低だろう?

 トムはただジャネットの上に覆いかぶさっているだけだ。その気になればすぐに抜け出せる。


「そうすればトムと一緒にいられる?」


「――ジャネット……」


 多分、何も知らないのだ。トムはジャネットの上から退いた。


「トム?」


 地面に寝転がったまま、不思議そうな顔をしているジャネットも起き上がらせる。


「今日は一緒に……薔薇の絵でも描こうか……」


「一緒に? じゃあ、紙と絵の具を持ってくるわ!」


 嬉しそうに家へと画材を取りに戻るジャネットを見て、トムは顔を覆った。


「私は人を愛してはいけないのに――」


 どこからか声が聞こえた。「あの娘は人じゃないわ」「人じゃないのに」「人じゃないもの」

 はっとして、トムは薔薇園を見回す。赤い薔薇が、白い薔薇が、そして”青い”薔薇が、何事もなかったように、黙って咲いていた。

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