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06:彼女の誘惑

 美しい青い薔薇よ。

 ここは素敵で楽しい場所だった。

 私はここで暮らして行こう。

 ここにはあの人がいる、とても素敵で楽しい場所――。



***



 ジャネットは標本の整理の仕事の合間に、植物画の練習もしはじめた。

 トムが「与えられた仕事も満足に出来ない内に、新しいことに手を出すべきものではない」と叱ったが、ジャネットはどこ吹く風だ。

 今日も、決められた量の仕事をこなすと、新たな作業に取り掛かった。植物画は見たまま描けばいい訳ではなく、専門家的見地、ここで言えばトムの助言が必要だったので、彼は度々、手を止める羽目になった。


「私に迷惑を掛けないで欲しい」


「でも、勝手に描いちゃいけないのでしょう?」


「だからと言って、私の仕事を邪魔するのか?」


「トムはそんなに仕事が好きなの?」


 ジャネットには質問に質問を重ねる癖があった。好奇心からであり、心地よい時もあったが、今はトムの気に障った。


「そういう問題じゃない」


「大体、仕事の邪魔って言うけど、トムが仕事をしていない時間はいつなの?」


 いつだって、トムは植物と向き合っている。それが仕事の時と、そうでない時の区別がジャネットには付かない。彼が休憩中だと言えばそうだし、そうでないと言ったらそうでないのだ。


「私の為に時間を作って」


「――なぜ私が君にそんな便宜を図る必要が?」


 この間まで、彼は確かに、ジャネットの為に時間を作り、温室を案内してあげていた。

 しかし、今はその気持ちを後悔していた。彼女の身元は分からず、いつまでもここにいる。それはとても危険なことだった。ジャネットはそのことを知らないのだ。


「アランが言っていたわ。後進を教育するのも仕事の内だって」


 そうして、アランはジャネットに素描の基礎を教え、肝心の植物画の進捗はさっぱりだったと言う訳だ。


「私、上手に植物画を描けるようになりたい」


「なぜ!?」


 ほとんど叫ぶような調子になったトムに、ジャネットは常の様子を崩さず答えた。


「”東の果ての島”の植物を書きたいの。

だって、トムに聞かれても、私、満足な説明が出来なかったでしょう」


 トムが息を呑んだ。

 彼はジャネットに園内を案内している時に、時々、”東の果ての島”の植生について質問していたのだ。ジャネットもジャネットなりの知識は持っていたが、それがトムの望むような表現にならなかった。まるで言語が違う者同士のように、意思疎通が出来ない。植物画はそんな二人を繋ぐ共通語になりうるものだった。

 ジャネットはジャネットなりに、トムと分かり合いたいと望んでいるのだ。

 ジャネットの方に手を伸ばしかけて、トムはグッとそれを握り直した。


「では”東の果ての島”に戻るんだな。送る手筈を整えるから、家に連絡を取りなさい」


「いやよ」


「記憶だけで描く植物画が正確だとでも?」


「そうだ!」


 それは思いつかなかった! と、ジャネットは両手を上げ、大袈裟に天を仰ぎ、椅子に座り直した。


「トムに見せてあげたいのに! 私は帰らないけど、トムは島に行くといいわ。

そして標本をたくさんつくって帰って来て。母に許可をもらってあげる」


「その必要はない」


「なぜ? ――トムはもう、どこにもいかないの? ずっとここに居るの?

どうして?」


 トムの口から語られる話は実に多彩で、彼が子どもの頃から、遠く遠く、遥か世界の果てまで冒険していたことが伺えた。

 それなのに今は、この”外の世界”に満ちた”閉じた世界”にいる。ジャネットもそれを気付いていた。


「全てを見た。もう十分だ――」


 明らかな嘘だった。


「”東の果ての島”には行ったことないのに?」


 ジャネットには相手を思いやるという心遣いが欠けている。対して、トムにはあった。

 君の島に見る価値などないと否定してしまえばいいのに、それが出来ないのだ。


「もしかして、誰かに捕まってしまったの? 私があなたに捕まったように」


「私が君を捕まえた? 君がここに飛び込んで来たんだろう?」


 心外だ、という気持ちを表明した。


「君はいつでもここを出ていける」


「いいえ、それは出来ないわ」


「なぜ!?」


 またも悲痛とも言える疑問がほとばしる。


「薔薇を手折ってしまった。その代償を払うと、あなたは私の血をもって約定を交わした。

私はあなたのものになったの」


 私はあなたのもの。


 若い娘にそう言われて、冷静になれる男がいるだろうか。まして、トムは年老いた父親と二人、昼間に来る中年の女性と”ある女性”以外、異性を見ることのない生活を送ってきていた。

 そんな彼の前に、若く美しいジャネットは現れた。

 高く頑丈に作った塀に囲まれた”呪いの森”に入り込んだように、トムの頑なな心にも忍び込んでくる。

 そんなこと、ありえない。初めから気が付くべきだった。

 トムは唸った。

 

「君は――君は”あの人”の命令でここに来たのだな!

私を誘惑して、約束を破らせる為に!」


「あの人? 誘惑? 約束って何?」


 何を言っているのだろうかとジャネットは首を傾げた。トムにとってはその仕草すらも自分の劣情を煽るものにしか見えない。


「あなたがここで働けと私に命じたのよ。

血の約定をもって……それは守らねばならないものよ」


 もともと変ったところのある娘だが、トムにはジャネットのいうことが分からない。

 ジャネットにもトムの言葉が伝わらない。

 この場合の共通語は何になるのだろうか。

 二人は見つめ合った。


「それに私、ここにいたいわ。自分の意思で、ここにいたくなったの。ここは楽しいもの。

ここならば”閉じた世界”でもいいわ」


 ジャネットはいい意味で欲望に忠実な娘だった。人を騙したりする気持ちも持っていない。

 それなのに、そう見えてしまうのは、トムの側に邪な想いがあるからなのだ。

 彼は自分の欲望をジャネットに明らかにしてしまったも同じとなった。

 ジャネットを追い出さなければ。あの約束を守ることが出来なくなる。何よりも、彼女に対して申し訳ない。


「君はここにいては――」


「やめて!」


 あの時と同じような、切羽詰まった調子でジャネットが制止した。


「私を招き入れたのに、どうして拒絶するの? 約束のせいなの? それはとても強い拘束力を持つ約定なの?」


 またもや質問攻めだ。純粋に疑問なのだ。トムは自分の邪心に気付かれなかったことを喜ぶと同時に、ガッカリもした。

 この娘は自分にそういう点で全く興味がないに違いない。対して自分はそうとは言い切れない。

 今夜ばかりは、そう自制心の残りもなく、彼は逃げることにした。

 かつて乗っていた船が海賊に狙われた時は、それが一番の方法だった。捕まらなければいいのだ。とにかく逃げろ。ひたすら逃げろ。

 海賊にも、この娘からも。


 捕まった時のことは考えないようにして、トムは無言で立ち上がり、標本をそのままにして出て行ていく。


「もう、またぁ?」


 この間もそうだった。

 ジャネットは中途半端に終わった植物画を置き、トムの机を片付けた。


「あんまり進んでないじゃないの! ――だったら手伝ってくれてもいいのに」


 そして同じように、自分の部屋に戻ると、青い薔薇に話しかける。


「ただいま。

トムはどうしてここに閉じこもっているの? 青い薔薇は何か理由を知っている?」


 トムが思っているほど、ジャネットは彼に興味がない訳ではない。むしろ有り余るほど、あった。


「自分から望んでここにいるのと、閉じ込められているのは違うわ――一体、誰がこの森の主を支配しているの?

トムを外に出してあげなくっちゃ」


 青い薔薇は、すっかり青くなっていた。トムが理想とするジャネットの瞳を映したような、空色の薔薇に、あともう一歩まで近づいている

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