05:”芸術家”のアラン
薔薇のような娘よ。
月の光のような娘よ。
お前がいなくなってから、どれだけの月日が経つのだろうか。
お前はあの危険で恐ろしい場所で、どんな暮らしをしているのか――。
***
その日、ジャネットが一人、小さな家で標本の整理作業をしていると、男が訪ねて来た。
「やぁ、こんにちは!」
金髪の男は、少女に陽気に自己紹介する。
「君がジャネット?
私はアランという者だ。
画家をしている」
「画家?」
「そうだよ。本業はね。
でも、今は植物画家だ」
「???」
どう違うのか、については、戻ってきたトムが説明する。
「植物画に必要なのは、一も二もなく正確さなんだ」
植物の姿を寸分違わずに書く。
「一目見て、その植物の特徴に分かるように書かなければならない」
季節によって色が変わる植物なら、変る前と後。葉の付き方、葉脈がどう走っているか。花ならば花弁の形、枚数。種の付き方、内部構造……などなど。
「そこに芸術的な誇張も、斬新な構図も必要ない。
本物を見なくても、実物が想像できるように必要な要素を全て描き出す。標本を元にしてね。
アランにはその植物画を描く仕事を依頼している」
「だから、今日は君と一緒に仕事をするんだ」と、トムが説明すると、ジャネットは「なぜ標本があるのに、わざわざ絵を描く必要があるの?」と聞いた。
「標本は脆いし、退色する。それに一つしかない。
けれども絵に描いて印刷すれば、多くの人が手に取って見ることが出来る」
「――”外の世界”を手元に置けるってことね」
「そういうことだ――出来上がったら、君にも贈ろう」
”閉じた世界”に戻るジャネットへの、せめてもの慰めだ。
今日、アランを呼んだ本当の目的は、アランにジャネットの肖像画を描いてもらうことだった。アランは肖像画家として卓越した才能を持っていた。
もっとも彼に言わせれば、肖像画家も植物画家も本意ではない。
「私は芸術を究めたいのだけど、世間がなかなか認めてくれなくてね」
ジャネットの前で彼女の顔を描くわけにいかないので、アランは植物画を描きながら観察することになっていた。
「しかし、私も食べていく為に、働かないといけないのでね。いろいろな副業に手を出しているんだ」
「働く……?」
トムだけでなく、アランという人間まで言う”働く”という行為に対し、未だにピンと来ていないジャネットがいた。彼女はトムに言われて働いていたが、どれも楽しく興味深く、ある種、お遊びのような感覚だったのだ。男二人は、なんだかんだ言って、ジャネットに甘い。
それをアランは軽く無視する。
「植物画もその一つだ……まぁ、芸術とはちょっと違うけど、植物を描くのは基礎として役に立つ」
「植物はそれだけで美しいのに、あなたの求めるその芸術とやらにはならないの?」
ジャネットの純粋な疑問に、アランは膝を打った。
「――! その通り! 植物はそれだけで美しいね。自然は芸術そのものと言えるだろう。
しかし、植物画となると、それは違う。あくまでも、対象を観察した結果だ。職人技であって、芸術家ではない。
勿論、突き詰めれば芸術に昇華される。それがまた面白いね――」
アランの話を聞くうちに、ジャネットは植物画に興味を持ちはじめていた。
「それをやってみたい」と訴えると、アランも「それはいい!」と大いに盛り上がった。
「面白い娘を拾ったね」
様子を見に来たトムに言う。
手には急いで描いたジャネットの肖像画があった。トムは無言でそれを受け取り、何を見ても黙っていようと思った。
アランの肖像画の才能は素晴らしかった。それは対象の内面まで描くと言う、厄介なものだった。そのせいで、多くの顧客を失っていた。美しいと貴婦人の顔に滲み出る醜い表情など、誰も喜ばなかったからだ。
アランの目にはジャネットはどう映ったのだろうか。清らかな娘なのか、それとも、実は醜い娘なのか。どちらであっても、感想を漏らすまいと固く誓ったトムは、ジャネットの肖像画を見て、声を上げた。
「これは本当に、あなたが描いたのですか!?」
「そう……びっくりだろう!」
驚きのあまり昔の顔を覗かせたトムに、アランは嬉しくなった。
対象の内面まで描くと言われた肖像画家が描いたジャネットは、間違いなくジャネットという少女だった。その姿は正しく紙に写し取られていた。正確に。ただ、正確に。それはある意味、植物画と同じだった。見る人間は美しい絵姿だと思うが、その対象物がどんな性格なのか、どんな感情を抱いているかは伝わってこない。
「彼女は面白い娘だね」
アランはもう一度、言った。
彼をしても、ジャネットの内面を見通すことが出来なかったのだ。
「あの娘の顔を描いていると、まるで薔薇を描いているのと同じ気持ちになったよ」
「薔薇のような娘?」
薔薇のように美しい娘という、単純な意味ではない。薔薇のように、そこから感じ取れる心はなくても、見る側の人間の感情は揺さぶるような存在だということだ。
「これでお役に立てるかな?」
「ええ……ありがとうございます」
アランの普段の画風とは違うものの、姿形を正しく伝えている。人探しには十分だ。
「しかし、いなくなってもう一週間以上経つそうじゃないか。それなのに、ここに来るまで、娘がいなくなったという話は聞かなかった。
”東の果ての島”から一人で来た訳ではなさそうだ。だって、相当な箱入り娘なのは分かるよ。
ならば、近くまで、誰かが連れて来たはずだ」
当然の疑問だった。トムもそれが気になる。
「あの娘を追ってきた連中がいる。もしかして、かどわかされたのかもしれない」
「君のように?」
かつて人さらいにあい、船に乗せられた男は頷いた。
「あの世慣れぬ様子では、ここに辿りつけず、逃げ出した所で荒野で野たれ死ぬか、狼の餌になったと思われているのかも」
「そうだねぇ」
ならばジャネットの行方を知らせるのは危険かもしれない。捜索は慎重にしなければ。
そう思ったトムに対し、アランは彼らしい発想を披露した。
「それとも妖精だったりして」
ザワリ、と周囲の葉が鳴り、日が陰った。
「”良き隣人”と――」
「ああ、そうだったね。そう言わないといけないんだった。
実は今、エンブレア王国に伝わる、その妖精の話を集めた本を作ることになってね。
その挿絵の仕事を頂いたんだ。だから詳しいよ。彼らを妖精って言うと、怒られるんだよね。
で、その妖精物語なんだけど……」
トムの警告を無視して、アランは”妖精”という単語を使った。呆れたのか、もうなんの変調も起こらない。
さっきの現象こそ、偶然に過ぎなかったのだ。妖精などという存在は、人間が勝手に作り出した物語だ。
突然、親元からいなくなったトムは、妖精に連れ去られた子どもと呼ばれていたが、実際に彼をさらったのは人間だった。人は自分の理解出来ないこと、知らないことを恐れ、自分たちとは違う”何か”を作り出して、理屈を合わせようとする生き物だからだ。もっとも、それはそれで興味深い文学を作ることに繋がった。
「アルバート王の命令で作るから、実入りがいいんだ。
昔から子どもたちを魅了しているお話に、綺麗な絵を付けて本にして出版すれば、字の勉強の助けになるんじゃないかって。
私の愛しい妻のもね、そうやって文字を学んだと、王に進言して受け入れられた。
吟遊詩人たちが口伝えで伝えてきた雑多な話を集めて整理し、まとめ、後世に残すことも出来る。とてもいい考えだ」
妻の提案が認められ、自分の懐は潤う。「また妻から仕事を回してもらったと言われているが、私は気にしない」
「で、この間、上がってきた原稿に、こんな話が載っていたんだ」
人間の男が、妖精の領域に迷い込み、そこで一日、楽しく過ごして帰ると、すでに百年の月日が過ぎていたという。
「妖精の世界での一日が人間の世界の百年ならば、人間の世界の一週間は、妖精の世界でどれくらいの時間なのだろうね」
「つまりまだ、彼女の故郷では、ジャネットがいなくなって、少しの時間も経っていないと?」
相変わらずおかしなことを言う人だと、トムは一笑に付そうとして、出来なかった。
彼は”外の世界”を見て来た。そこでは、エンブレア王国では伝説のように語られていたことが事実として存在していたこともあった。あるいは、もはや想像も出来ないような現実もあった。
妖精の世界がある可能性を否定できるのか。それに、ジャネットがそうであるならば――。
トムはジャネットの姿を思い浮かべる。
夏至の夜に現れた彼女の振る舞いは、妖精めいているかもしれない。銀の髪と空色の瞳を持つジャネットは、たとえるならば、青い薔薇の精――。
「ありえない。彼女は人間だよ。赤い血が流れている」
アランの言葉を、青い薔薇の花言葉でもって否定する。
「まぁ、そうだろうね。
それに、たとえ数秒であろうとも、自分の娘が突然、いなくなったら、親は心配しているはずだ。あちらも必死で探しているのに、見つからないで不安でいるかもしれない。
妖精だろうが、人間だろうが、早く返してあげたいものだね」
この春、子どもが生まれたばかりのアランはそう締めくくった。
トムは今度こそ、黙っていた。手には青い薔薇の肖像画。いつまでも手元で眺めていたいような出来栄えだったが、そうもいかない。彼は王都にいる友に手紙を書いた。かつては従弟と呼んでいたその人物こそ、当代の国王、アルバートだった。