03:”東の果ての”ジャネット
ああ、憐れな娘よ。
花嫁の衣装を脱ぎ、粗末な服を身に纏う。
これから薔薇の代償を、その身でもって支払うのだ。
ここはとても危険で恐ろしい場所だろう――。
***
王立植物園の別園は、植物を植える場所を確保する為と言わんばかりに、人の住処は最小限だった。しかも、その中にも、植物の標本や種の箱が積み重なっている。
それでトムは階段下にあるちょっとした物置を少女の部屋にすることにした。彼が同じ年の頃は、それでも四方が壁に囲まれた個室は贅沢なものだった。もっと小さい頃は、贅を尽くした広い部屋に置かれた、天蓋付きの寝台で寝ていた。それが境遇が変わるということだと、この少女にも分からせなければならない。嫌ならば、一刻も早く自分の身元を明かし、迎えを頼めばいい。
手際良く、ハンモックを吊るした。余分な寝台もなければ、勿論、それを置く空間もなかったからである。ハンモックは、トムがたまに日光浴をする時に、使う為に持っていたものだ。ずっと船上でハンモックで寝起きしてきた彼に、その揺れは懐かしいものだった。
「とりあえず、今日はここで休め」
「あ……あの……」
「何?」
少女は戸惑ったようにハンモックに手を掛けた。
「これ、どうやって……」
「そうか」
トムは自分も最初は同じだったことを思い出した。懐かしい。辛い日々だったが、あの時には、彼にも希望があった。
「コツがある」
やって見せると、少女は興味津々の様子だ。何もかもが珍しいのだろう。それもまた、昔の自分をを思い出させた。
ついほだされそうになったトムは、自分を戒める。まだ数刻も一緒に過ごしていないのに、もう何度目だろう。助け舟を出すのは仕方がないにしろ、一刻も早く、彼女を追いださなければ。
「そう言えば、君、名前は?」
身元を捜すのに、必要な情報だ。
「ジャネットよ」
もっと躊躇されるかと思いきや、あまりにあっさり言ったので、トムは拍子抜けする。
「どこの家の娘だ? 父親の名前は?」
「父親? いないわ」
「それは……すまない」
「なぜ謝るの?」
ジャネットに悲壮感はなかった。
「あなたは?」
「へ?」
「名前。聞いてなかった」
「――トム」
名乗ると、ジャネットは自ら確認するように、その名を呼んだ。「トム? トム。トムね」
ごく短い名前なのに、彼女が口にすると抒情詩のようだ。
鈴が震えて音が鳴る様に、トムは自分の胸が高鳴るのを感じた。
「もう遅い……早く休め」
必死にそれだけ言うと、急いで扉を閉めた。
どこの家の娘かを聞き逃した。ジャネットというのも、よく考えれば本名ではないかもしれない。
ただし、ジャネットの銀の髪と空色の瞳は特徴的だ。それだけですぐに探し出せるだろう。もっとも”東の果ての島”では一般的な色合いなのかもしれない。念の為、知り合いの肖像画家に頼んで、似顔絵を描いてもらうことにする。
そう決めると、トムは自分の部屋に戻った。
「――寝よう……」
が、結局、彼は一晩、まんじりもせずに過ごすことになる。
昼間に会った女性の顔と声。夜に出会った少女の顔と声。それが次々に浮かび上がり、彼に平穏を与えなかったのだ。
***
一方、残された少女は、ハンモックの中で格闘していた。
「もう、何、これ! どうやって寝るの?」
あのトムと名乗った人間は、簡単で楽しそうに乗り移ったのに、自分といえば、動けば動くほど、ハンモックが暴れる。
耐えきれずに、床に降りた。
「堅いけど、揺れるよりはマシだわ。
それから顔も見たことのない男と結婚して、永遠に閉じ込められるよりもね!」
ジャネットは自分の名前を正直に申告していた。
彼女はジャネット・ヒースという少女であり、”花嫁”だった。
”東の果ての島”の古くから続く家柄、王家と約定を交わしたヒース伯爵家の娘として生まれ、親が決めた相手と結婚することになった。相手はヒース一族と長く親交のある一族の長という話である。
”東の果ての島”から、エンブレア本土を横断し、西の端にある”角笛岬”に住むその一族の屋敷へ。
それは娘から妻にという大きな変化のようでいて、”閉じた世界”から”閉じた世界”への移動に過ぎなかった。
ジャネットはずっと”外の世界”に憧れていたのに、もう叶えられないことを悟った。
移動する馬車の窓には憧れた”外の世界”が過ぎ去っていく。
途中、宿屋で休憩することになった。その時、”呪いの森”の噂を聞いた。
そこには滅多なことでは行くことの出来ないほど遠い”外の世界”が集められていると言う。
馬車が再び出発し、その”呪いの森”を通り過ぎる時、彼女は花嫁姿のまま、そこから飛び出した。追いかけてきたのは、ヒース一族に仕える従者たちだった。彼らは、”東の果ての島”に戻って、ジャネットの母親に報告するだろう。
”呪いの森”の主によって正式にこの場に迎え入れられたジャネットに対し、ヒース一族に仕える従者たちの判断だけでは、勝手な振る舞いは出来ないはずだ。すぐには連れ戻しにはこれない。まずは安心。
ジャネットはそうしてくれたトムが置いていった”青い”薔薇を見た。
もう君のものだと、首の細い瓶にさしていったのだ。殺風景で雑多な部屋が、それだけで華やかになる。
彼が失敗作と言った”青い”薔薇を見つめる。
色は変わっているが、愛情を込めて育てられていることが分かった。薔薇自身も育ててくれた人間に愛情を感じ、青くなれなかったことに申し訳なさを感じているようにすら見えた。
「ねぇ、青い薔薇? あの人間は、悪そうには見えなかったけど、あなたもそう思うでしょう?」
それは働くということの意味も知らないお嬢さまとして育ったジャネットの希望的観測に過ぎなかったが、幸運にも当たっていた。
ジャネットは物置の荷物の間に身体を置き、花嫁衣裳に緑の外套を羽織ったまま座った格好で眠った。
***
朝、起きた時、ジャネットは目の前に白髪の老人がいるのを見て、叫びそうになった。
「お前さんは誰だ!」
「わ……私……」
ジャネットも驚いているが、老人も動揺しているらしい。
「どこから入ったんだ!」
「許可はもらっています」
「誰から!?」
「あの……トムから」
名を呼ぶと、ちょうどそのトムがやって来た。
寝不足だから不機嫌なのか、そうしなければならないと思っているのか、トムはジャネットを煩わしそうに一瞥した。
「ジョン。この子は私が招き入れた」
「トーマスさまが!?」
ジョンが声を上げた。
「そう。名前はジャネット。
今日からここで働いてもらうことにした。
ジャネット、彼はジョン・ガーデナー。
私の父親だ」
「父親?」
それなのに、さっき自分の息子のことを”トーマスさま”と呼んだ。園長だからだろうか? ジャネットはそう納得させた。
ジョンはトムとジャネットを交互に見た。
「本当にこの娘っ子を雇う……のか?」
「父さんも、もういい年じゃないか。重いものを持ったりするのは辛いだろう。ちょうどいい」
「そうは言うが……」
目の前の少女は、見た目ばかり良く、あまりにも儚げだ。あの白く細い手で、一体、何が持てるのだろうか。
「ジャネット、服を持って来た。これに着替えなさい。
そんな服では、仕事にならない」
トムは持っていた服をジャネットに向けて放り投げた。
上手く受け取れなかったそれは、床に散らばった。
どれもトムのお古の服のようだ。
「大きさが合わないかもしれないが、なんとかするように」
「なんとかって……」
戸惑うジャネットの前で、無情にも扉がしまった。
「もう!」
初めてのことばかりなのだから、何でも、もう少し、説明して欲しい。
床にある服を見る。
「お役御免って訳じゃないわよね」
それどころか、これを着て仕事、なるものをしないといけないらしい。
ジャネットは花嫁衣装を脱いで、トムの古着に袖を通した。故郷の祭りで演劇を披露したことがあった。その時に、男の役をしたこともあり、ズボンを履くのは初めてではなかった。
ただ、その時とは違い、服は大きく、だぼだぼだった。
そこでシャツは袖を捲り、裾はズボンに入れた。落ちそうになるズボンを、部屋に置いてあった縄で結ぶ。こちらの裾もやはり何重にも捲ると、ようやく落ち着いた。
最後に編み込まれた髪をほどくと、一つにまとめる。癖のついた長い銀髪が波打った。
「悪くないわ。ねぇ、青い薔薇? 素敵じゃないの」
自身の姿を確かめる術はなかったが、そう思うことにして夜に手折った薔薇に同意を求めた。
ジャネットが男の古着に悪戦苦闘している間、トムはジョンに簡単に事情説明をした。
彼女は無鉄砲にも家出をしてきたらしい。このまま追い出せば、すぐに酷い目に合うだろう。ここで保護をして、親元に返すつもりだと言うと、ジョンは納得した。
彼はトムが本当は心優しい青年であることを知っていた。道を見失った娘を助けるのは当然の行為だ。
同時に、その優しく愛情深い心を封印しなければならない事情があることも知っていた。
若い娘を側に置くことが、トムにとってどのような意味を持つのかも――だ。
それでもトムはジャネットを助けることにした。もしかしたら、ジャネットがトムを助けてくれるかもしれない。
だが、そこまで考えて、ジョンは過度な期待を持たないことにする。
”あの夫人”とやり合うには、ジャネットは幼く、頼りなさそうに見えた。
どうせならば、少々、年をとっていても、それこそトムの仕事を助け、支える気概のあるしっかりとした考えの女性が飛び込んでくれば良かったのに。しかし、そういう女性が、こんな”呪いの森”などに足を踏み入れるような浅慮な真似をするはずがない。逆に言えば、そんな軽はずみな行動をしたジャネットは、どうにもこうにも見所のない娘なだけでなく、トムを中途半端に誘惑し、苦しめる存在になりかねない。
今は無事に、あの少女を親元に帰すことを考えよう。それがトムの望みなのだから。