02:不可能の色
”呪いの森”には青い薔薇が咲く。
ありえない不可能の色の薔薇が咲く。
乙女よ。
その青い薔薇を手折ってしまわぬように気をつけろ。
あそこはとても危険で恐ろしい場所なのだ――。
***
「……君は誰?」
「――」
沈黙する少女に、トムは「誰だと聞いている!」と厳しく言い直した。
胸元に掛けてあったお守りと警告用を兼ねた銀製の号笛を見せた。帆船に乗る掌帆長が帆の上げ下げを指示する時に使うものを模したものだったが、少女には見慣れぬものだったようだ。ただ、音を出して人を呼ぶものだということは、形から十分、分かる。
「やめて!」
その声が、切羽詰まっていたせいで、トムの気が削がれる。少女は追っ手を恐れているのだ。
「あの侵入者はここにあるものを狙っていたのではなく、ここに入った君を追っていたようだね」
トムはあの時、脇の茂みが不自然に揺れるのを視認していた。侵入者たちの目がそれを追うのも。
もしも、追う方に大義があるのならば、説明した上で、協力を求めるはずだ。侵入者たちはそれをしなかった。
「一応、助けたつもりだけど」
嫌々と言った風だ。
「……なぜ?」
折ってしまった薔薇をぎゅうっと握り、少女は礼も言わずに不思議そうな顔をした。
「それはこちらの言う台詞だ。なぜ、追われてここに来たのだ?
悪いことをしたのか?」
「違うわ!」
トムが厳しく追及すると、少女は顔を真っ赤にして怒った。
「私は何も悪いことなんてしていない!」
「では、何を?」
さらなる質問に、少女の目玉がぐるりと上を向いた。黙っていれば月の光のように儚げなのに、豊かな表情を持っている。
「その……」
少女の瞳が今度は下を向いた。それに映るのは自分が折ってしまった薔薇だ。
「……!? この薔薇、青いわ!?」
「青い? 君にはこれが青く見えるというのか!?」
トムの口から憎々しげな声が漏れる。
彼女の手にあったのは、ラヴェンダーのような薄紫色……とは聞こえがいいが、ある人に言わせれば”悪くなった肉”のような色の薔薇だった。
ちょうど、今日の……もう昨日になった昼間にそう言われた。「これが青い薔薇ですって? 本気で言っているの? やっぱり、薔薇に青色なんて存在しないのよ。薔薇には青色がないのですもの。それなのに青が生まれたら……それはもう薔薇じゃないのよ」と。
「青くなんてない。青になりきれない、醜い色だ!」
「そんなことない!」
思いもかけず、激しい否定の声が上がる。怒りでもあった。
「色は変わっているかもしれないけど、美しい薔薇だわ。
大きいし、花弁の形は美しく、幾重にも重なっている。
なんと言っても、香りが素晴らしいわ。こんな芳しい薔薇は初めて。
自分の薔薇をなぜ、そんな風に言うの?」
「――私の求める薔薇ではない。
私は青い薔薇が欲しいのだ」
そんな紫色ではなく、君の瞳のような、春の空色の、真っ青な薔薇を――。
言い掛けて、トムは言葉を呑む。
初めて会った、どこの馬の骨とも分からぬ少女に、自分は何を言おうとしているのか。
まるで月のような少女だ。見ていると、心が持っていかれる。
「なぜ青い薔薇が欲しいの?」
純粋な質問に、トムはぶっきらぼうに言い放つ。
「そんなこと、君に言う必要はない」
それから彼女を無視して、懐から切れ味のよい小刀を取り出し、少女が無造作に折ってしまった薔薇の枝を切り直す。
思わずあんな風に言ってしまったが、彼にとっても、どの薔薇も等しく、美しく愛すべきものだった。少女に褒めてもらって、その気持ちを思い出す。薔薇は、植物だけは、自分が惜しみなく愛情を注げるはずのものだったのに……その対象までも”あの女性”に奪われようとしていた。
トムは唇を噛み、望む色が出なかっただけで、ここ二日ほど手入れを怠ってしまっていた詫びと、理想の空色から目を逸らすためにも、丹念に葉を調べ、混み入った枝を整理しはじめた。薔薇は病気になり易い。こまめな手入れが必要なのだ。薔薇の香りを嗅ぎ、触れていると、いつまでも気難しそうな顔など出来ない。自然と笑みが浮かぶ。
はじめは小刀に恐れて身を引いていた少女は、その姿を見て言った。
「”外の世界”を見たかっただけよ」
「外の世界?」
唐突に語られる少女の話に、トムはつい反応してしまう。
「ええ。私は”東の果ての島”から来たの」
それはトムがかつて帆船に乗って、大洋を二つ渡り辿り着いた東の果ての国とは違う。古くから知られているエンブレア王国の端にある小さな島のことで、そこが世界の果てと思われていたほどの昔に、エンブレア王国の一部となっていた。そこを治めているヒース伯爵は、エンブレア王国が興る以前に、その島を支配した者の末裔だと言われている。エンブレア王国に併合される時、ヒース一族の長は時の国王となんらかの約定を交わしたらしい。他の一般的な伯爵家とは違い、特別な自治権を持っていて、島は独自の文化と言語を有し、エンブレア王国本土との往来も必要最低限のものだった。
「そうか。あそこも珍しい植物があると聞いた」
あれほど世界中を旅したのに、トムはエンブレア王国に付随するその小さな島には行ったことがないことに気付いた。行ける人間が制限されているからでもあった。そのおかげで、その島の植生は昔のそれを残していると言う。俄然、興味が沸く。「一度、訪れてみたかった」
「珍しい?」
「エンブレア王国本土にはない、あっても種類が違う、もしくは、もう見なくなった植物が残されていると聞いた。
君にとっては、ごく当たり前に生えている植物かもしれないが、知らない人にとってはそうではない。
君は外の世界を見たいと言ったが、外とはなんだろう? 君がいた場所もまた、私にとっては外の世界だ」
どうやら月からやって来たような娘は、ただの家出娘らしい。
トムはやや態度を軟化させ、「だから家に帰れ」「君の両親が心配している」と諭したが、少女は納得しなかった。
「嫌よ。
それは外の世界を見た人の言うことだわ。
私はまだ、何も見ていないの。
聞いたのよ。ここにはとても珍しい生き物がいるって。遠く、遥か遠くの土地に根付いたものたちが、やって来ていると――それを見てみたい」
少女は薔薇を持ったまま、あたりを見回した。”東の果ての島”にも薔薇はあるが、その薔薇ですら、この”呪いの森”では、これまで見たことのないような色や形、大きさをしていた。
「――分かった。
では、しばらくここで働くといい」
トムの提案に、少女は戸惑った。
「働く? 私、働いたこと、ない」
薔薇を持つ手は、そのことを証明するように、白く美しかった。何者かに穢される前の、新雪のようだ。
「そのようだね。
だけど、外の世界を見るということは、そういうことだ。
私も昔、そうだった。私の場合は、外の世界を見たいと望んだ訳ではないが、家を離れ、船に乗った。
外の世界はたくさん見たが、代わりにたくさん働かされた。
働かざるもの、食うべからずと言われた。食べなくては生きていけないのだ」
少女は何を言われているのか分からないようで、トムは呆れた。
世間知らずの子どもだった彼でも、両親の保護下から離れれば、働かないといけないことくらい理解出来たと言うのに。
「お金を持っているか?」と聞けば、「そんなものは持っていない」と言う。
食べるもの着るものが、自然と出てくると思っているのだろうか。
こんな少女が、本当に”外の世界”なんかに行ってしまったら、あっという間に、人さらいにあってしまう。若い娘は、それだけ危険が多いと言うのに、これだけ美しい娘ならばなおの事だ。
トムは少女の身を守る為にも、この別園に留めておこうと考えた。その間に、”東の果ての島”に人を遣って、両親に迎えに来てもらおう。
それくらいなら大丈夫。問題ないはずだ。
そこで少し強めに言う。
「君は私の薔薇を手折ったね。お金を持っていないのならば、代償はその身で払ってもらう」
その腕にしている金の腕輪を要求しても良かったが、それでは意味がない。当の本人は、金の腕輪が金銭の代わりになるということも知らない様子だ。
本当に今までどうやって生きてきたのか、不思議になるほどだ。
トムの申し出に、ジャネットは後ずさりした。
「……あ、痛っ!」
緊張からか、あんまり強く薔薇を握ったせいで、棘が刺さったのだ。赤い血が一筋、流れた。
ザワザワと薔薇の葉が揺れた。今度は「血だ」「血が流れた」「血が……」と聞こえる。今まではなかったことだ。ここは本当に”呪いの森”になってしまったのかもしれない。そう思いつつも、トムは何も気が付いていないフリをした。
「ここでの仕事は重い肥料を運んだり、水を撒いたり……とにかく、身体を酷使する重労働だから、覚悟した方がいい」
それから少女の手を、むりやり握る。青くはならなかったが、予想外に香り高くなった薔薇の官能的な香りが、二人の間に漂った。
「――血が出ている。この園内で怪我をするのは危険だ。きちんと手当てしないといけない。
これはここで働く時、最初に守るべき規則だ」
「ああ……」
「毒性のある植物が育っているし、こちらがまだ把握出来ていない新しい植物がたくさんあるから。
毒性の弱いものから強いもの。中毒性があるもの、笑いが止まらなくなるもの、痺れるもの、いろいろあるからね」
「……あなたがここの”主”なの?」
大事に育てられてきて、怪我もしたことがないのだろうか。自分の指先から血が流れるのを、信じられないという表情で見ていたジャネットが聞いた。
「主?」
「この”呪いの森”の主なの?」
トムは自分を見上げる少女を見つめた。空色の瞳は、真剣だった。
「どういう……」
「この”呪いの森の”主が、私に働くように命じているの? そうでなければ、あなたの言う事なんて、聞かないわ」
この塀に囲まれた”外の世界”で働けば、珍しい物が見られることに、ようやく理解出来たのだろう。少女は働くことに同意したようだが、奇妙な条件を出してきた。
「……それならば問題ない」
要はこの場で一番偉い人物、責任者の許可が欲しいということなのだろうと、トムは理解した。いい家の娘ならば、衣食住のことにはとんと無知でも、社交界に披露された場合に必要な、そういった世の道理は教えられていて当然だ。
彼の恰好は園丁のそれで、重要なことを決める権限はないように見えるが、この王立植物園別園の園長は、実はほかならぬトムだった。そのことを打ち明ける。
「私が許そう」
「――分かったわ」
その言葉を受けた途端、少女は諦めたように大人しくトムの手当てを受けた。