根無し草
このお話の時代は明治から大正くらいの設定です。
私の兄は根無し草と呼ばれている。
放浪癖があって飄々としていて掴み所のないふわふわと地に足のついてない浮草のような人だ。周りの人達は皆口を揃えて根無し草と言う。
そんな兄だが私は憧れていた。あんな風に自由気ままに生きてみたい、いつもそう思っていた。
私は母の不貞の末に生まれた子供だ。そんな私に家族はもちろん優しくなかった、産んでくれた母さえもが私を邪魔物扱いした。
泣いていた私に優しく声を掛けてくれたのは兄だった。
「泣くなよ、何がそんなに悲しいんだ?」
「だって……私、要らない子なんでしょう?それなら産んでくれなかったらよかったのに!」
「そんなこと言うなよ」
兄は真剣な目で私を見つめて言った。
「せっかくこの世に産まれてきたんだ。家が嫌なら大人になって出ていけばいい、自分の人生だ、好きなように生きろ」
この言葉が私を救ってくれた。
そうだ、私の人生は私のものなんだ、私の好きなように生きてもいいんだ。そう思うと心がふっと軽くなった。
兄は優しく笑うと頭を撫でてくれた。
「さて、もうそろそろ行こうかな」
「もう行くのですか?」
「うん。じゃあな」
少しの荷物を持って兄は門の外へと向かっている、そんな兄の背中に私は言った。
「私が大きくなったら、一緒に連れて行ってください!」
兄は振り返りもせずに片手を挙げただけでそのまま出ていってしまった。兄の背中が遠のいて行くのを私はいつまでも見ていた。
あれから何回か兄は帰ってきたが長くこの家に留まることは一度もなく、私たちの知らないうちに何処かに行ってしまうのだった。
私の言ったことは覚えていないのだろうか。
きっとそんなこと兄は忘れているだろう。それに約束したわけではない、ただの私の我が儘だ。
いつか私がもう少し大きくなったら家を出て行こう、そして兄の言う通り自分らしく生きよう。あと少しの辛抱だ。
この家という名の牢獄から解放されるのもあともう少しだ。
あれから幾つかの季節を重ねて私は十六才となった。
「カヤ、お前に縁談の話がある」
父が突然そう言った。私はまったく結婚など考えてはいなかったので戸惑った。
「縁談……ですか?」
「うむ、この縁談はお前には勿体ないくらいのものだ。断るなどという選択肢はない」
「分かりました」
結婚すれば嫁入りしなければならない、それは家から離れるということだ、それも悪くないかもしれない。
家の庭にある池へと向かう。ここが私の唯一の居場所だった。
大きい錦鯉が優雅に泳いでいる、それでもこの鯉はこの池から出られない、大きな川には出れられない。
そう思うと可哀想になってきた。
鯉にとってはどちらが幸せなのだろうか、それはきっと鯉にしか分からないだろう。私が判断することではない。
池に浮いている浮草がふと目に入る、それを見て兄を思い出した。
兄は元気にしているのだろうか。
その日の月は満月でやけに辺りが明るかった。
窓の外を眺めながらこんな綺麗な月を外で見たいと思った。私は外へと向かっていった。
「……綺麗」
誰もが寝静まっている真夜中、何かが特別な感じがした。
池に行ってみると水面に満月が映っていた、揺れる月はどこか儚さを持っている。
「こんな真夜中に夜遊びですかな、お嬢さん?」
後ろから声をかれられて驚いて振り向くとそこには兄が立っていた。
「よっ!久しぶりだな」
「兄さん……こんな時間に帰ってきたのですか?」
「まあな、ちょっと事情があって」
兄が私の隣までやって来て二人で並ぶようにして月をしばらく見ていた。
兄の瞳は月に照らされて輝いていてまるで小さな星のようだった。
「カヤ」
「はい?」
「お前、今十六才だろ?」
「そうですが……」
「カヤ、約束通り連れてってやるよ」
「え?」
「俺と一緒に行きたいって言ってたろ?」
「……覚えてたのですか?」
「当たり前だろ」
兄は覚えていたのだ、それだけで私は嬉しかった。
しかし、私は兄と一緒には行けない。
「……ごめんなさい、行けません」
「どうしてだ?」
「私に、縁談が来ました」
そう言うと兄は大きく目を見開いた。
「だから、行けません。でも、覚えていてくれただけで嬉しかったです」
「……お前は本当にそれでいいのか」
いつかの様に私の目を真っ直ぐに見据えて兄は言った。
「良いも何も、お父さんが決めたことですから……」
「言っただろ?お前の人生を生きろって」
その一言に私の決心は大きく揺らぐ。
「お前は、どうしたい?」
言われるまでもない、でも、本当にそれでいいのだろうかーー
「私は……兄さんと一緒に行きたいですっ」
思いきって言うと兄は満足そうに笑った。
「わかった、連れてってやる」
これでいいのか私にはわからない。だけど今の私は兄と一緒に旅をしたい。いつか後悔する日が来るかもしれないし、あるいは来ないかもしれない。
人生は選択の連続である。
間違っていてもいなくてもそれは自分の意思で決めたことだ。
「兄さんはどうして私なんかに優しいんですか?」
「……何でって、おかしな質問するなー」
「だって私は半分はこの家の血を引き継いでいないんですよ?」
ずっと気になっていたことだった。それを今日、初めて聞く。
「それでも半分はこの家の血を引き継いでいるだろ?それに俺たちは同じ母親から産まれてきた、紛れもなく俺たちは兄妹だ」
ああ、私は幸福者だ。
こんなにいい人を兄に貰った、それだけで十分だ。
周りから見れば根無し草の兄、だけど私にとっては誰よりも大切で誇りに思っている兄だ。
「さあ、行くぞ」
「はい!」
家の門を二人並んでくぐる。縁談なんて知るものか、私は私の人生を生きる。
今日から私も根無し草の仲間入りだ、そう思うと心が躍る。
「どこに行くんですか?」
「そうだなぁ……まあ、とりあえず色んな所に連れてってやるよ」
「本当ですか?」
「おう」
兄は私の笑顔を見て同じように笑う。これからが楽しみで仕方がない。
二人の兄妹は浮草のごとく旅に向かって行った。