十五話
スミカが合掌した。
「いただきます」
メンバーのいただきますが続く。
レイジはどんぶりのふたを開けた。
どんぶりの中はまだ見せないよと言わんばかりに湯気が上がる。それとともに出汁と油の香ばしさが漂い出て鼻腔をくすぐる。
湯気が晴れると、ふわとろっとした絶妙な加減のたまごから、粗いパン粉に包まれたかつが見事なきつね色になって顔を覗かせている。頂点に乗った緑の三つ葉が目においしい。
箸を入れると、その隙間にまだ固まりきらない卵黄がとろりと流れこむ。
かつの一切れを持ち上げる。半熟の卵に飴色の玉ねぎ。それらが衣に絡んでくる。
口に入れ、噛み切る。露出していた衣はさくっとしている。対照的に、たまごに隠れていた部分はふんだんに味のベースとなる汁を吸い、ふわりと柔らかい。肉は適度な歯ごたえを返しながらも、ぷつりと噛み切れる。咀嚼。
甘い。まずは油、そして肉の旨味が舌全体に広がる。その膜を刺激するように塩気、そして汁に含まれる芳純とも言えるだしの深みが口腔内に満ちる。鼻に抜ける。
次に感じるのは玉ねぎの強い甘みだ。それを突出させ過ぎないかのように、たまごのまろやかさが広がっていく。
ご飯だ。ご飯が欲しい。レイジは夢中でどんぶりに箸を入れる。
箸の上で粒の一つひとつが主張している。ご飯は上の方が汁で少し茶色くなり、先ほど流れ込んだ卵黄にまぶれ、きらきらと輝いている。
待ちきれない。
口の中の塩気が待っていたとばかりにご飯を受け入れる。一噛みする度に口の中に新しい甘みが、旨みが広がっていく。全てが混然と一体化し、洗練された楽団のように食材のよさを引き立て合う。しかし、それは単に食材が優れているということではなく、かつ丼という一つの料理としての力量を舌の上で雄弁に物語っているのだった。
それはもはや口の中だけの出来事ではなく、レイジの体全体に伝播していった。レイジは震えた。
「おいしい」
静かにそう言ったが、レイジは心の中では服を脱ぎ去り、絶叫しながら野原を駆け回っていた。人間としての知性や尊厳はどこにいったのだ。
かつ丼に気乗りしない様子だった他のメンバーも、黙々と箸を進めている。タケミに至っては、どんぶりを傾けて箸でかっこみ、もう食べ終わる勢いだ。
「ごちそうさまでした」
スミカが手を合わせる。
「満足、満足」
「朝のどんぶりも悪くないかもしれませんわね」
空のどんぶりを前に、ナプキンで口周りを拭きながらエリナが言う。
「いやー食った食った。かつ丼はやっぱりうまい。久しぶりだとなおさらね」
「でも、こんなにおいしいとついつい食べ過ぎちゃうわー。困ったわねえ」
そんな中、スミカはメモ帳にかりかりと何かを書きこんでいるようだった。
ぴっとページを破ると、それを堀之内に手渡す。
なんだろう。
「それでは、行ってまいります」
丁重に受け取ると、堀之内は食堂の奥へと向かった。かと思うと、すぐに戻って来る。
「お待たせしました。それでは行きましょう」
あのメモが何なのか、レイジは疑問と好奇心を抱いたが、また余計なことを聞いてスミカに問答無用で殴られたり、エリナに小馬鹿にされても面白くない。
気にはなるのだが、ここはぐっと我慢だ。
少しお腹を休めると、スレイ部の面々は席を立ち始めた。
散歩、食事ときて、次はなんだろう?
散歩のときのような失敗を繰り返したくはない。そのためには質問するのが一番だ。
「次はどこに行くんだ?」
「レイジくん、寝ぼけているのですか。一時限目の講義ですよ」
「はっ、そうか」
すっかり奴隷気分で、何をしに鈴ヶ森学園に来ているのか忘れていた。
だが、レイジが講義に出席するのは明日からの予定だ。それに教科書や必要な道具も揃えていない。
「俺の学園生活は明日から本格始動なんだ。今日は準備期間で、教科書やらを買わないといけないんだった。すっかり忘れていたよ」
「そうなのですか。一緒に行きたいところですが、あいにく今日は講義が隙間なく入っていますね。困りました」
堀之内が申し訳なさそうにする。
いや、それ以上だ。なんだか深刻そうだぞ。
「昼休みとか、あるいは放課後でもいいよ」
レイジは気軽に答える。
「六号、まるでわかってませんのね。よくそれで転入が認められたものですわ。仕方なく説明しますと、鈴ヶ森学園は単位制を採用しているのですわ。つまり、学生本人がある程度自由に選択して科目を履修できますのよ」
「へえ、いいじゃない」
「何をのんきな。それは決められた時間割がないということですわ。卒業に必要な単位を計算し、必修科目を漏らさず受講するようにスケジュールを組まないといけませんわ。昼休みの短い時間でそれはできませんし、放課後から始めたのでは購買が閉まる時間になってしまいますのよ」
「……そんなの一人じゃ無理だよ!」
これはまずい。
てきとーにプランを組んでいたら、卒業直前になって「あ、君は単位を満たしてないからもう一年ね」なんてことが本当に起こり得る。
教科書をちゃちゃっと買い求めて、後はゆっくりしようかと考えていたが、ゆっくりどころか時間が足りないよ。
レイジは慌てた。
「ようやくことの深刻さが飲みこめたようですわね」
エリナがため息をつく。
スレイ部の人が手伝ってくれないだろうか。
経験者がいれば、各段にはかどる。今日一日で準備を終えることだってできそうだ。
「申し訳ありません、レイジくん。先ほど言った通り、私は講義があります」
「私もだ」
堀之内とスミカはだめと。なら……。
「わたくしも同じですわ」
「私もだめなのー。今日は講義の準備や会議があってねえ。六号くん、ごめんねー」
「あたしもだめだ。寮の雑多な仕事が溜まってるんだ。それに、あたしが行っても何をしたらいいのかわかんないよ」
全滅である。
レイジの心の原風景を爆撃機が轟音とともに更地にして行った。
レイジは崩れ落ちた。まさかこんな形で学園生活が終わろうとは――。
正確には卒業できない可能性はあっても、突然終わったりはしない。でも、心臓の小さいレイジの中では間違いなく終わっていたんだ。