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核の犠牲になるのは、自分ではないと思っているあなた達へ

 随分と昔、まだ私が現役世代だった頃に『なにかを踏んだ』という曲を聴いた。無名の素人が作ったボーカロイドの曲で、正直に言って、拙い曲であることが音楽に疎い私にでもよく分かった。それは生きて行く上で人間が常に何かを犠牲にしているにも拘らず、それを自覚していない点を皮肉った歌、であるように少なくとも私には思えた。

 曲調はラディカルなパンクロックのように思えなくもなかったが、教訓めいた寓話的な歌だったのだ。私はそれをあまり気にしなかった。深いようでそれほど深くはないと思ったからだ。当たり前の事を言っているに過ぎないと、数回聴いて、そう判断した。

 しかし、年老いて爺となり、犠牲となる立場となった今になって、私は、その歌の意味を理解した気がした。もう少しくらいは、じっくりと考えてみる価値が、或いはその歌にはあったのかもしれない。あまりよくは覚えていないのだが、その歌は、終わりで、自身が犠牲になるのだ。

 生きて行く上で、何かを犠牲にするのは仕方がない。それは生物である人の運命だ。逃れようもない。しかし、それでも、それを自覚し、犠牲となった者達に感謝をする心を持つ事には、もしかしたら価値があるのかもしれない。

 その心が、わずかでも犠牲者を少なくする事に繋がったかもしれないからだ。人の足を踏む。踏んだ方は痛みを感じない。感じないからこそ、その痛みが分からない。私はその痛みを今、実感している。私は踏まれる立場、犠牲者になってしまった。

 七十を超えた辺りで、妻が認知症にかかった。断っておくが、そんな事で“犠牲になった”などと言うつもりは私にはない。私は妻を愛しているし、彼女は認知症にかかっても、それほど私を困らせはしなかった。

 彼女は、真面目だけが取柄の収入の少ない私に少しの文句を言いもせず、長年、支え続けてくれたのだ。彼女に恩返しをしなければならない。そう思っていた私には、彼女の世話は苦にはならなかった。

 彼女には、私が、夫なのか父親なのか、よく分からなくなっているらしく、子共のようになり、甘えて来た。私以外にはあまり懐かないことが、一番困った点だった。仕事を休む訳にもいかないからだ。

 しかし、そんなある日、もっと困った事態になった。職を失ったのだ。私も既に七十を超している。戦力にならない者を切るのは、会社としては当然の事だろう。だが、先にも述べた通り、私の収入は少ない。蓄えはそれほど多くはない。2030年代に入り、年金制度は、実質的にほぼ破綻している状態で期待できなかったし、生活保護も財政が危機的状況下の為、認められる可能性はかなり低い。今、収入の手段を失えば、生活はできなくなる。恨み言を言うつもりはなかったが、それでも私は、会社に、次の職の充てを求めてしまった。妻を護らなくてはならない。

 少子化の所為で労働力不足の深刻さは増していた。だから世間では、労働力が求められてはいる。しかしそれでも、私のような爺の再就職は難しいだろうと考えていた私は、会社を頼ってしまったのだ。

 会社の人事担当者は、私の訴えを聞くと、私に職を斡旋してくれる特別な業者を紹介してくれた。そしてその業者は、私に核廃棄物処理の仕事を提案してくれたのだ。もちろん、原子力発電所から出る核のゴミの処理をする仕事である。

 世界各国の発展途上国が原子力発電所を多数建設し、運転するようになってウラン資源が不足すると、原発の採算性は急激に悪化してしまった。特に日本はウラン資源を産出しないから、自国でウランを調達できる中国や北朝鮮などの国との競争に非常に不利になった。

 つまり、数十年前、原発を稼働しなければ、経済的に不利になると訴えた原子力産業の主張は、長期的には完全に誤りであったのだ。いや、或いは、分かっていながら、自分達の利益確保の為に、日本社会を犠牲にするつもりで嘘をついていたのかもしれない。

 一方、早くから再生可能エネルギーの活用を目指したドイツは、物価が安い時代に行っていた充分な設備投資のお蔭で、順調に利益を上げていた。労働力資源もエネルギー資源も不足し、物価が上がった状態になると、維持費が安価な再生可能エネルギーの利益率は大幅に良くなるからだ。もちろん、既に物価が上がってしまった今は、このチャンスは失われてしまっている。製造コストも高くなってしまっているのだから当たり前だ。労働力が余っている時代に、再生可能エネルギーへの設備投資をやらなくてはいけなかったのに、日本は充分にそれをしなかったのだ。

 この大きな失敗を受け、日本国内では『原発事故の反省が全く活かされなかった』と大きな批判が起こったが、既に遅かった。労働力不足の時代になった今となっては、再生可能エネルギーへの変換も難しい。数十年後には、ウラン資源は枯渇するから、原子力発電所を使い続ける事もできない。危機的状況下に陥っていると言っていいだろう。そして、そんな状態に、更に追い打ちをかけるように、核廃棄物処理の問題が持ち上がって来たのだ。長年、なんとか誤魔化して来たが、遂にどうにもならなくなってしまった訳だ。

 放射性廃棄物の健康被害が懸念される職場に、貴重な若い労働力を投入するのは避けたかった。そこで、国は私のような高齢者を、その為の労働力にする事を基本方針とした。もちろん、働き口のない貧乏な高齢者がその中心となった。私に紹介された仕事は、そのようなものだった。

 私はその仕事を受ける事にした。もちろん、放射能の健康被害は恐ろしかったが、どうせ老い先短い身だ。それに、充分な収入があるようだったし、妻を養う為にはどうしても職は必要だった。

 それに。

 随分と昔から、原子力発電所の数多い問題点は指摘されていたのだ。私は、それにも拘らず、それを放置し続けて来た一人だ。これは自業自得と言えるのではないだろうか。

 その仕事を受けた当初は、そう思っていた。

 職場は遠く離れていたから、妻とは別居という事になる。それが最も辛かった。認知症の所為で、妻は私がいくら言っても、事情を呑み込んではくれなかった。私がいなくなる事を理解できないらしい。私は多少、心配になったが、後の事は介護士に任せて、核廃棄物処理の仕事に就いた。

 核廃棄物処理の現場は、想像以上に酷い状況だった。体力的にも精神的にも衰えた高齢者が職の中心になっている所為で、戦力からは外れているはずの私が主力メンバーの一人になってしまった。仕事の効率は悪く、そして恐らくは、本来ならば立ち入りを禁止されるような危険な場所での仕事も、構わずに行われていた。その証拠に、数ヶ月に何人かは、病気で倒れてほぼ全員が死んでいるという話だった。恐らく、真っ当な検査をすれば、基準値を大幅に上回る放射線が検出されるはずだ。

 もちろん、その因果関係を政府は認めなかったし、発表もしなかった。情報は制限されていた。原発の情報は、特定秘密保護法の対象なのだそうだ。

 だが、私のいた職場は、まだマシな方だったのかもしれない。罪を犯した囚人達に、核廃棄処理をやらせている現場もあるらしいのだが、そこでは更に労働者は非人道的な扱いを受けているらしかった。この点を、国際人権団体から何度か日本は訴えられていたが、政府はそれを「単なる噂」と言って切り捨てていた。

 この仕事に就いて、しばらくして思った。その昔、原子力発電所の稼働に賛成をしていた連中は、自分がこのような立場になるとは夢にも思っていなかったのだろう。

 つまり、他の誰かを犠牲にする前提で、原子力発電に賛成していたのだ。賭けてもいいが、もし、自分がこんな仕事をする事になると思っていたなら、絶対に、原子力発電に反対をしていたはずだ。

 ここに至って、私は冒頭で説明した『なにかを踏んだ』という曲を思い出した。それで、なるほど、こういう事なのだな、とそう思ったのだった。

 もしも、他人の犠牲の上に、それが成り立っていると深く実感をしていたなら、私達は原子力発電以外の手段の可能性を考えていたのではないだろうか?

 原子力発電に頼らない方法は、いくらだってあったはずなのだ。いや、ドイツの成功例を観るのなら、それは明確だったのだ。

 しばらく働いて、私は上司の一人から、「どうして、この現場に来たのか?」と尋ねられた。そこで私は、今までの経緯を説明した。妻を養う為には、仕方なかったのだと。するとその上司は、良い人だったらしく、こんな事を教えてくれた。

 『あなたは騙されている。あなたくらい働ければ、街にだって仕事はいくらでもある。核廃棄の現場で、働き手が欲しい国が無理に人手を回しているのだ。悪い事は言わない。この契約が切れたら、街で仕事を探して、奥さんと一緒に暮らしなさい。その方が、絶対に奥さんにとってもあなたにとっても仕合せだから』

 私はそれを聞いて、上司に感謝すると同時に漠然とした社会の悪意のようなものを感じた。犠牲にしている者の存在を忘れるどころではない。積極的に犠牲にして、知らぬ振りをしているのだ。

 私はその上司に感謝をし、この職場から離れる決心をした。しかし、時は既に遅かった。

 妻が倒れたという報告を聞いた。しかも、場所は私の職場の近くだった。彼女は立ち入り禁止となっている放射能が強い場所に入ってしまったのだ。すぐに病院に運ばれたが、手遅れだった。妻はそのまま死んでしまった。

 彼女は私を恋しく思うあまり、老いた頭で必死でこの現場にまで何とか辿り着き、そして迷ってその立ち入り禁止の場所に入ってしまったのだ。杜撰な管理で、そこは施錠も何もされていなかった。妻はもしかしたら、核廃棄の強放射能の現場で私が働いているという話を聞いて、中に私がいると勘違いをしたのかもしれない。

 私は滂沱の涙を流して後悔をした。

 もう少し私が賢明であったなら、こんな事にはならなかったのに。妻は今も生きていたはずなのに。

 それから私は、激しい怒りと殺意を覚えた。過去、原子力発電に賛成をし、協力をし、推進をし、そして社会の弱者を犠牲にする体制を作り出した連中に。今も、原子力産業から得られる利益で、のうのうと暮らしている連中に。

 その罪を分からせてやる。

 連中が妻を殺したようなものだ。もちろん、私にだって罪はある。だからなんだ? 善? 悪? くだらない。

 私はナイフを服の中に忍ばせると、現場を離れた。もちろん、原子力を推進した人間達を殺す為に向かったのだ。

 

 もしかしたら、あなたもそうなのか?

 誰か他人を犠牲にする前提で、原子力発電に賛成をしているのか? 踏んづけた足の裏の微かな悲鳴を、無視したまま歩き続けているのか? その罪を自覚しないまま、生き続けているのか?

 ならば、少しは思い知るがいい。あなたの犠牲になっている人が、この世の中には、たくさんいる事を。踏まれるのは、今度はあなたかもしれない。

作中曲の『なにかを踏んだ』は実際にあります。てか、僕が作ったのですが。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm23045984


ほぼ確実に、労働力不足になった時代の事を、原子力産業の方々は考えていないと思いますよ。正直、犠牲にはなりたくないですね。

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― 新着の感想 ―
[一言] 追記 五年前に書かれた作品だったのですね。 ならAI、GPS回りの技術力が違い過ぎるので、労働者不足の認識は当時としては正しいものだったと思います。 そこまで確認していなくてすみません。
[良い点] 問題提起としては有りな作品だと思います。 [気になる点] 突っ込み所が多すぎてどこから指摘したものか悩む。 たぶんですが、参考にされた資料が原発反対側にずいぶんと偏っているのが原因かと。 …
[一言] 参考文献云々というより 半導体にも種類があるのに半導体はリサイクルできる!キリッ ってどうなんですかね? もしリサイクルできるのはどの半導体でどれくらいのコストと割合できるか書いてないと原子…
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