第8話 名誉の役割
「……んっ」
頭がぼうっとする。
今まで自分が何をしていたのか思い出せない。
瞼を開くとぼやけた視界が脳へ情報を届ける。なんだか白くてヒラヒラした絹織物みたいなのが見えるよ。
寝起き特有の一時的な記憶喪失。
それに気付いた瞬間に思考は動き出し、漫画喫茶で寝落ちしてしまったことをゆっくり思い出す。
そうだ。眠気覚ましにコーヒーでも持ってこよう。ドリンクバーもパック料金に入っているから無料で飲み放題だし使える物はお世話になっておかないとね。
眠っていたベッドから起き上がると毛布が体からずり落ちる。
後で直そうとぼんやり考えつつ床に立ち、柔らかな絨毯に足を包まれて数歩進む。
「……あれ?」
そこでようやく違和感に気付いた。
さっきよりも速度を上げて晴れていく思考の霧が、今あたしがいる場所の正体を教えてくれる。一度見たことがあるというのも理解を助けてくれた。
立派な内装を見間違えるはずもない。
ここはジリオラさんに招かれたあの部屋だ。あたしが来た時と何も変わっていない。
異世界に来てしまったのは確かにびっくりだけど、一度見た場所だし驚きはそんなに大きくなかった。
帰ろうと思えばいつでも可能だという楽観も少なからずある。
状況はわかった。
でも、どうしてあたしはまた突然ここへ来てしまったのだろう。
夜を待たずに呼ばれるなんて、何か問題でも起こったのかな。
話通りなら、あたしが次に眠った時に飛ばすって言ったもんね。
……あ、もしかして。
確かに言葉通り、あたしが眠ったからジリオラさんは転移魔法を使ったわけだ。
うん、それ以外に原因が思い付かない。
でもさ、あたしは夜に眠った時のつもりで言ったんだよね。一般的な常識に照らし合わせれば当然だと思うけど。
言葉が足りなかったあたしのせいかな、これは。でも少しは融通とか空気を読むとかそういうのがあってもいいと思う。
いや、それとも異世界の人にこっちの常識を押し付けること自体が間違っているのかもしれないけど、でもでも……
やめよう。なんだか不毛なことになりそうだし。
考えてみれば、漫画喫茶のブース内で寝ちゃったのはある意味ラッキーだった。あたしがいなくても、本を探しに行っていると思われるから不自然じゃないし。
これが自宅だったら大変だ。部屋に来た母が不審に思って、現代の神隠しだと大騒ぎに発展していたかもしれない。
まあ、来てしまったものはしょうがないか。どうせすぐに来ようと思っていたわけだし。その時が少しだけ早くなっただけだもんね。
なんて気楽なことを考えられたのも少しだけ。あたしは一番重要な点を見落としていた。
それに気付いた瞬間、すぐに元の世界へ帰らなければと使命感にも似た焦燥に駆られた。
果たして、あたしが眠ってから起きるまでにどれくらいの時間が経過していたのだろうか。
慌てて取り出した携帯電話で時間を確認すると、漫画喫茶にいられるのはあと二十分という残酷な現実がわかった。
それを過ぎれば延長料金が発生する。しかもそれは通常より高い値段設定というおまけ付きだ。
ただでさえパソコンを買って財布が厳しいので余計な出費はしたくない。そもそも延長って響きが好きじゃない。
けれど問題はそこではない。
時間を過ぎてしまったら、あたしがいないことに気付かれてしまう可能性が格段に上がる。店員が調べるだろうし、ほぼ確実とも言えるだろう。
会員情報には電話番号もあるし、あたしが消えたとわかったら家の方に連絡が行って、ついでに警察も呼ばれたりしてあっという間に大事件だ。
「ど、どうしよう。今すぐ戻らないと……ジリオラさーん、早く来てくださーい!」
「呼んだかのう?」
まるで計算し尽くされたかのようなタイミングで扉が開き、ジリオラさんが姿を見せた。
今まであたしが百面相していたのをペンダント越しに監視してたんじゃないだろうか、なんて疑いは置いといて。
「あ、あのっ! 緊急事態なんです!」
「どうしたのじゃ。すごい慌てようじゃが」
「今すぐにあたしを元の世界に戻してください! そうしないとお財布と神隠しと家族会議で大変なことがっ!」
「と、とにかく落ち着くのじゃ。ほら、深呼吸をして。順序立てて話してみなさい」
ジリオラさんに掴みかかりそうな勢いをなんとか抑え込み、大きく息を吸った。
そうしてゆっくりと吐き出せば、ちょっとだけ体がクールダウンした気がする。
少なくとも、さっき自分が言ったことが支離滅裂でなんだこれって内容だったのはわかるくらいに冷静さを取り戻せた。
さすがのジリオラさんだって困惑するしかないよね。
「すみません、ちょっと慌てちゃってて。えっと、まずあたしは居眠りをしちゃったみたいで……」
急がば回れ。現状どんな問題があるのか自分でも再確認しながら話してみることにした。
「……ふむ。ナツミの話をまとめると、時間がないというのが一番の曲者になるわけじゃな?」
一通り話し終えると、さすがと言うべきかジリオラさんはすぐに理解してくれたようだ。顎をさすりながら、心得たとばかりに深く頷いている。
それなら話が早い。すぐに戻してもらわないと。
「そうなんです。だから早くあたしを」
「案ずるでない。ナツミの心配事はすべて杞憂じゃよ」
「……えっ?」
それはどういうことなんだ、と訊ねる前にジリオラさんが動いた。
まるで授業をする教師のように、その語り口は穏やかな起伏を持っている。
「こちらと向こうでは時の流れを司る概念が違っておってな。簡単に言ってしまえば、ある程度の時間跳躍が可能なのじゃよ」
「えっと……それってつまり、どういうことですか?」
「仮にナツミがこちらで長い年月を過ごしたとしよう。それでも向こうの世界ではせいぜい数分程度しか進んでおらんということじゃ。もちろん逆も同じことでな。最初にナツミをここに招いてから一時間ほどしか経過しておらん」
「じゃあ、何も気にしなくていいんですね?」
「さよう。ナツミが戻る時には、ちゃんと元いた場所と時間に送り届けるからのう。希望とあらば、こちらで過ごしたのと同じだけ時間を進めた向こうの世界へ帰すことも可能じゃ」
なるほど。異世界ならではって感じだけど、それなら焦る必要もなかったね。
一人で慌てていたのが今になって恥ずかしくなってくる。
照れ隠しに視線を逸らすと、窓の外に広がる景色が目に入った。
そういえば前に来た時はこの世界がどんな所なのか観察する余裕なんてなかったもんね。
ここってどんな国なんだろう。
まずわかったのは、あたしは相当な高さの場所にいるということだ。
高層ビルから外を眺めたらこんな景色が拝めるだろうか。それよりもあたしには観光地の展望台が頭に浮かんだ。
とにかく景観がすごい。一番遠くには、小高い丘や草原が地平線に重なっているのが見える。
風に揺れる緑の草花は、地球の一部と言われても違和感がない。
生態系が似ているのかな。意思を持って動く草とかあったら怖いだけだし。
その自然豊かな大地に人工的な高い塀が走り、内側にいくつもの建物が並んでいる。この辺りはいかにも城下町といった様子だ。
あたしがいるこの立派な建物が、きっとこの国をまとめる中枢なんだろう。
そう考えた根拠はちゃんとある。
ここを起点として、いくつもの道が放射状に広がっている。窓から見える風景はほんの一部だけど、どの道も塀までの距離が一定だ。
つまり、塀の内部を円形とすればここが中心となるわけだ。
そこに本拠地を置いて指令塔にするのが一般的な内政ってやつじゃないだろうか。政治のことはよくわからないけど、きっとそうだと思う。
眼下に見える建物は数多く、手前から塀の近くへ行くにつれて低めになっている傾向があった。主要な施設と居住区の違いってやつだろうか。
知った風な解説をしているが、当のあたしは広がる光景に圧倒されていた。
異世界に来たんだ、とこの時は改めてそう強く実感していた。あたしの住む市ではこんな眺めを見ることなんてできない。
「驚いておるようじゃのう。どうじゃ、我が国の景色は」
いつの間にかジリオラさんが隣に立っていた。目を細めて遠くを見るその姿は、あたしが外を眺めていた時とは少し違う雰囲気を出していような気がする。
それはきっと、年長者にしかわからない空気なのだろう。まだ若いあたしにそのすべてが見通せるはずもない。
あたしにわかるのは、目の前に広がる眺望に心を揺さぶられる自分がいることだけだ。
「はい……こんなの実際に見るなんて生まれて初めてです」
「ふぉっふぉ。ワシらには当然のことでも、ナツミには感動を与えられるのじゃな。これだから異文化交流は面白くてやめられんわい」
あたしの素直な感想にジリオラさんは愉快そうに表情を崩した。
今のが異世界人のツボだったのかな。気持ちはわからなくもないけどね。
「あたしがいるここって、もしかしてお城か何かだったりします?」
「ふむ、城か。わかりやすくそう言っても構わんかもしれぬな。あまり細かい説明をして余計な混乱を招いてもいかんからのう」
ジリオラさんは振り返り、部屋の中心へ向かってゆっくりと歩く。
手に持った杖を絨毯に沈め、それから斜め上へと視線を投げた。
「ここは我が国、ラクスピリアの中央庁じゃ。国の運営に関する一切の業務がここへ集約されておってな。ナツミの世界で言えば、役所などと呼ばれる場所じゃよ」
「役所、ですか」
「国の中心という意味では、城というナツミの指摘も間違いではない。政治や外交などもここを拠点としておるからのう」
なるほど。とてもわかりやすい。よくある話と言ってしまえばそれまでだが、効率の良さがあるからこそお決まりのコースになるんだろう。
そして、今あたしが立っている場所で国が動かされているという現実。
下の階ではあたしの生涯賃金じゃ百回くらい転生しないと手が届かないような規模の財政が動いているんだろうか。
考えるとなんだか足がすくむ。
「さて、そろそろ本題に移るとしようかの。ナツミもそのつもりでおるのじゃろう?」
あたしの目を見据えて伝えられた言葉に正気を取り戻す。
瞬きをしている間に、ジリオラさんは部屋の扉に向かって歩き出していた。
「ついてまいれ。ナツミに頼みたいことが何かを説明するでな」
「どこへ行くんですか?」
「仕事の管理をしておる部署じゃ。ここよりも話す場としては適切だし、その方がわかりやすかろう」
「あの、あたしに頼みたいことって一体なんですか?」
ようやく核心を突けた。変なことをしろと言われることはないと思うけど、何が待っているのかわからないと不安は消えない。
あたしの素直な疑問に、ジリオラさんは首だけを振り返らせた。
その顔はかすかに微笑みを滲ませており、なぜかそれだけで騒ぐ心が落ち着いてしまう。
「ナツミにはな、この国の民を癒してほしいと考えておる」
「……癒す?」
あたしは回復魔法なんて使えないはずだけど。
あ、もしかして素質ってそういうことだったりするのかな。
なんてくだらない妄想をしているあたしをよそに、ジリオラさんは真剣な声色で話を続けている。
「いつの世も人は心に空洞を抱えておるものじゃ。その隙間を埋め、寂しさを癒す者たちを我らはこう呼んでおる」
言葉と共に開かれた扉から光が差し込み、ジリオラさんを照らす。首だけでなく全身でこちらに向き直ったみたいだけど、その姿は逆光で黒く染め上げられていた。
だから口の動きも読めず、その声は不意に届けられた。
「リトリエ、とな」
リトリエ。
その言葉はペンダントによって翻訳されず、そのままの発音が耳に届いた。
推測だけど、その言葉と一致する日本語がないのだろう。だから訳しようがないということだ。異世界ならそんな言葉の一つや二つあっても不思議じゃない。
でも。
それならリトリエって一体なんだろう。
「ゆくぞ」
短く告げて部屋を出るジリオラさんの後を追う。
小走りになりながら、あたしは初めて聞く言葉の中身をあれこれと想像していたのだった。