閑話 彼女の転機
チェルシーが村の新入りとなってから数年。
彼女は村民たちにも受け入れられ、すっかり馴染んだ生活を送っていた。
「それではアネさん、行って参ります!」
「ああ、道中気をつけてな」
見習いではあったが元盗賊。身体能力には目を見張るものがあり、その力を活用するためチェルシーは行商役を買って出た。
人里離れた土地であるアラッカの村にとって、物資の不足は避けられない問題であった。以前より専属の行商人が定期的に訪れてはいたものの、突発的な要求に応じられるほどの頻度ではなかった。
その問題解決に一役買ったのがチェルシーである。必要な物を仕入れ、持参した特産物を売って外貨を獲得。急を要する物品も迅速かつ容易に入手できる。利便性の味を知ってしまえば、すぐにそれが村にとって必要不可欠な存在へとなるのも当然の結果であろう。
当然と言えば、最初こそチェルシーに対する不信の声もあった。余所者である上に元は招かれざる襲撃者。疑念を抱かれるのも仕方のないことである。
そんな声もチェルシーが懸命に尽くすうちに消えていき、次第に仲間と認められるようになったのだ。
そしてもう一つ。
チェルシーがここまで受け入れられたのには大きな理由があった。
「よし……それじゃ行こうぜ、ティアナ!」
「ふふっ、チェルシーさんったらはしゃいじゃって」
村長の娘、ティアナの存在である。今日も二人は仲睦まじく手を繋いで村を後にした。
チェルシーを村に勧誘してからというもの、ティアナは常に彼女と行動を共にしてきた。最初こそ責任感によるものであったが、近い距離は心までも近付ける。
いつしかティアナは自分の意思でチェルシーに寄り添うようになった。それはつまりティアナの選択であり、チェルシーが村長の娘に選ばれた存在であるということ。
チェルシーが行商に出ると決まった時も、ティアナは自ら同行を志願した。外の世界を知ることも村の運営に必要だ、と並べられた建前は真実ではあるもののそれがすべてというわけではないだろう。
ティアナの意見に抱きついて喜ぶチェルシーの姿に心を打たれたかは定かでないが、村長も娘の意思を認めた。可愛い子には旅をさせよ、とでも言うべきか。
村長だけに留まらず、村人すべてが基本的にティアナを娘か孫のように可愛がっているため、彼女の行動をすべて認めてしまう傾向にある。それは今回の場合においても例外ではない。
チェルシーが村のために尽力していることは紛れもない事実。ティアナとの関係を少しずつ深めていることも第三者視点で観察すれば明確。
そんな二人を見ていると村民たちの心は温かくなり、いつまでも見守っていたいと思うのであった。
「跡取りの心配もなくなったな」
「最初はどこの馬の骨とも知れねえ奴にと思ったが……ティアナちゃんが選んだ相手だ。間違いないだろ」
「ティアナちゃんが明るくしてるから俺らまで元気をもらえるってもんよ」
「外の世界を見ろって言うけどよ、ありゃもう新婚旅行だよな」
「村長もそろそろ隠居の時期じゃねえか?」
好き勝手に言葉を投げ合う村民たちの声に頬を緩めながら、セレナは小さくなっていく二つの背中を見つめる。
この村で目覚めてからいくつの年月が過ぎていっただろうか。チェルシーの登場という刺激はあったものの、概ね平穏の二文字で表現できる日々であった。
世代が変わるほどの時間が過ぎたわけではないが、ティアナやチェルシーといった若者たちは少女から一人前の女性へと成長しつつある。
それは確かな変化であり、時が未来に進むにつれて起こる不可避の事象。視界の先で見えなくなりつつある二人も未来へと歩いているのだろう。
だが自分はどうだろう、とセレナは自問する。
記憶は未だ戻らず正体の手掛かりも掴めない。村の警備や農作業の手伝いといった役割はあるものの、それ以外の変化があっただろうか。未来へと向かわぬ停滞の日々ではなかったか。
村の生活に馴染み続けるべきか、新たな光明を求めて当てもない一歩を踏み出すべきか……。
答えは出ず、二人の姿も山道の果てへと消えていった。
溜息を零し、迷いを払うように首を振る。長い金髪に軌跡を描かせながら、セレナは与えられた自宅へと足を向けたのだった。
――――――――――
時が進めば変化が起こる。
それが不可避の事実であることは世の摂理であり、転機は唐突に訪れるものである。
「た、大変ですよアネさん!」
騒がしくセレナの自宅を訪れたのはチェルシーであった。隣にはティアナも付き添っており、二人とも息を切らせている。
「どうした、血相を変えて」
「どうしたもこうしたもありませんよ! これを見てください!」
チェルシーが手に持っていた一枚の紙を差し出す。何行かの文章に併せ、人物を写した写真も載っている。
指し示されたその画像を見た瞬間、セレナにも驚愕の表情が伝播した。
「これは……私、なのか?」
写真の人物、それは紛れもなくセレナであった。髪型から顔の輪郭までどこを見ても相違ない。
「やっぱりそうですよね! ティアナとも話して確認したんですけど、そうじゃないかと思ったんですよ! アネさん、これは有力情報じゃないですか!」
「チェルシーさん、落ち着いてください。まずは詳しい話をお伝えしないと」
ティアナの助言により、事の顛末がセレナに語られた。
曰く、いつものように行商として諸国を訪れていた二人であったが、そこで同業者の女性と知り合ったのだと言う。
些細なことから意気投合し、商品や情報のやり取りをしているうちにチェルシーの目に留まった物――それが今注目の的となっている紙であった。
その紙こそ、テオドラがセレナ捜索のために作ったビラである。二人が出会った行商の女性は、各国を旅するうちにビラと情報を入手していたのだ。
当然、その場で目にした二人は目を見開いた。表情を硬直させたまま緩慢な動作で顔を見合わせて頷くと、女性への質問攻めが始まった。
得られた情報は多くない。ビラに書かれた情報以外は信憑性の薄い噂程度の話しか聞けず、彼女から目ぼしい情報は引き出せなかった。
しかし究明の妨げにもならない。セレナ達が視線を落としている紙にはラクスピリアという国名や捜索者であるテオドラの名に留まらず、セレナという決定的な単語まで記されているのだから。
「――つまり、私はセレナという名前で、テオドラという女性と深い関係にあり、ラクスピリアという国が私の故郷ということか」
セレナは写真の自分を指でなぞる。どれほど昔の姿かはわからないが、今の自分と変わらない顔立ち。
不変の情報によってもたらされた変化。指標もない虚無に道筋と光が作られていく。
「アネさん、このラクスピリアって国に行ってみましょう! それっきゃないっすよ!」
「待って、チェルシーさん。まずは連絡を取るのが先ではないでしょうか。万が一、人違いだったとなれば騒ぎになるだけです」
「だったらアタイがひとっ走りしてくるよ! そんでこのテオドラって奴を引っ張り出して――」
盛り上がる二人を前にして、当事者たるセレナは困惑していた。
ようやく見つけた手掛かり。見逃す手などないことはセレナも理解している。
だが迷いもあった。
記憶は未だ戻らない。ラクスピリアという故郷であろう国名を見ても感じるものはない。自分を捜しているテオドラという女性に心当たりがあるはずもない。
二人を繋ぐ記憶という絆が消えているのに、そんな状況で再会することが一体誰のためになるのだろうか。残酷な結果を生み出すだけではないのか。
「あの、顔色が優れないようですが……」
「すみません、アネさん。アタイたち勝手に盛り上がっちゃって」
いつしか二人の視線はセレナに向けられていた。心配を滲ませた表情は察するまでもなくセレナへと伝わる。
「……すまない。どうするべきか悩んでしまってな」
「どうするって、そんなの行くしかないっすよ!」
「私もそう思いますが……何か思うところがあるのですか?」
話せば何かが変わるかもしれない。そんな期待を心のどこかで抱きつつ、セレナは生まれたばかりの混迷をさらけ出した。
言葉を選んで紡ぐ間、二人は黙したまま頷いてすべてを引き出し――吐露が終わるとすぐに口を開いた。
「――わかりました。でも、それでもですよ。アネさんはテオドラって人に会うべきだと思います」
「私も同意見です」
チェルシーとティアナ、二人の瞳は迷ってなどいなかった。未来を見据えて進んでいる二人には虚無の暗黒を払う光が宿っている。
ならば導けばいい。停滞し続ける者がいればその手を引いて、誰もが歩けるような道の前へと。
「アネさんを捜して、待ち続けて、会いたいと思ってる人がいるんですよ!」
「記憶を失くされている痛みはお察しします。ずっと何も思い出せないままという不安もあるでしょうが……ならば同じだけ、記憶が戻る可能性もあるのではないでしょうか」
「そうっすよ! この機会、逃したら二度とないかもしれないじゃないですか!」
言葉はなんでもよかったのかもしれない。
セレナはただ背中を押してもらいたかったのだから。止まっていた自分の時を動かしていいのだと、誰かに認められたかったのだ。
「……そうか、そうだな。つまらないことを言ってすまなかった」
「じゃあ、アネさん!」
「ああ、ラクスピリアへ向かってくれるか?」
「喜んで!」
チェルシーは満面に、ティアナは端麗に。
二つの笑顔がセレナの背中を押したのだ。
それから三人は村長の家へと向かい、事の経緯を報告した。いくらセレナが村の重要人物であるとはいえ、独断でチェルシーを動かすことなどできない。
しかしそこは柔軟な風潮。理路整然とした説明に村長の理解も速く、正式にチェルシーによるラクスピリア訪問が決定しただけに留まらず、事前の連絡も取り計らうことまで手配をするとのことだった。
「すまない村長、恩に着る」
「何をおっしゃいますか。貴女様に受けた多大なる恩、ようやくお返しできる時が来たのです。万事お任せくだされ」
チェルシーはラクスピリア出発の準備に取り掛かり、ティアナは村に残り連絡の補助や対応などの任に就いた。
元より狭い社会である。この一件は瞬く間に拡散され、村はお祭り騒ぎの様相を呈しつつあった。
渦中の人物であるセレナもまた、その流れに揉まれつつも自身にできることは手伝うようにした。
主役は座して待て、というような声もあったが、セレナは首を縦には振らなかった。停滞から抜け出して動き始めた彼女は、もう未来への歩みを止めたくなかったのである。
だから、チェルシーを見送る時も最前列で見送りを務めた。
「それではアネさん、行って参ります!」
「ああ、道中気をつけてな」
交わされるのは、いつかの繰り返しのようなやり取り。
しかし状況は変わっている。万物は常に移り変わる。永遠に不変であり続けられるものばかりではない。
だからこそ明日という未来が作り出されるのである。
足早に駆けていく背中が消えた山の向こう、広がる空に連なった雲が泳ぐ。ゆっくりと、しかし動いているのがわかる速度。
「……ラクスピリア、か」
遠くにあるであろう、しかし記憶にはない故郷の名を呟き、セレナは青空に目を細めた。




