第79話 転機の一報
目覚めた瞬間、視界に映るのはテオドラさんの胸元だった。
何物にも隠されていない神々しいほどの輝きに溢れた素肌が、あたしの意識を強制的に覚醒させる。
「起きたか。おはよう、夏海」
頭上からの声で、あたしはテオドラさんに抱き寄せられていることを理解する。お互いに生まれたままの姿でそんなことをされているから色々と密着の主張が激しい。
徐々に昨夜の記憶が蘇る。体を重ねて一つになった甘美な経験。室内に残る熱気に混じる気だるさの意味。
「お、おはようごじゃいまふ」
頬に触れる柔らかいクッションによって言葉が多少ふさがれたけど、それは幸せな接触も意味するので受け入れるべきだ。
もそもそとした動きで顔を上げれば、穏やかに微笑むテオドラさんと目が合った。すべてを受け入れてくれそうな表情にあたしも頬が緩む。実際、昨夜はすべてを受け入れてくれたしなあ……。
って、それしか考えられないのかあたしは。
確かに今一番記憶に残っていることはなんですかと問われたら、一線を超えて大人になったことですと答えるしかないけども。
それにしても、思い返すまでもなく結構なことをしてしまった。
勢いに任せてあれこれしちゃったけど、総合的にはいい感じだった……と思いたい。テオドラさんをちゃんと導けて結果を出せたし、お褒めの言葉もいただけたことだし。
優しく傷つけないように、ってのは注意してたつもりだけど……大丈夫かな。
不安要素があるなら早めに消すべし。
と言うか、単にあたしが無言の時間に耐えられなかったのもある。
「テオドラさん、その……痛くなったりしてませんか?」
「大丈夫、痛くはないさ。とても気持ち良かったから……」
「そ、そうですか」
良かったらしい。
しかしなんだ、この空気は。聞いたこっちが恥ずかしくなってくるじゃないか。
「だが……実感は残っている。まるで夏海がまだ私の中に入っているような」
「わあ!」
思わず跳ね起きた。その勢いで布団がめくれて素肌が丸見えなんだけど今はもう情報を増やしたくないので気にしないことにする。
いやテオドラさん何を言い出すの!
誕生日終わったのにブレーキ壊れたままですけど!
これじゃ無言のまま微妙な空気でいた方が良かったまであるわ!
「あ、朝ごはん作ってきます!」
枕元のネグリジェを引っつかみ、風のように駆けて部屋を後にした。
もう……テオドラさんばっかり余韻に浸っちゃって!
あたしだって「初夜から明けた朝の二人」みたいな空気に浸りたかったのに!
これが「プレゼントはあたしです」をやった代償なんだろうか。いくらなんでも大きすぎない?
そりゃ確かにプレゼントって形なのにあげたというか、もらったというか、奪ったというか……そんな感じだけど。
あたし……テオドラさんにどんな顔で向き合えばいいんだろう。勢いで飛び出しちゃったし。
いいや、とりあえず顔洗って朝食の準備しなきゃ。こんなときは別のことをして気分転換するに限る。
――――――――――
別に顔を作る必要なんてない。前からずっとそうだったじゃないか。
少し遅れてやってきたテオドラさんは、昨日までよりも増してあたしにくっついてきた。密着具合が増えたというよりは、触り方や手つきが色っぽくなった感じがする。
最初こそ少しだけ戸惑ったけど、すぐにあたしにもデレデレオーラが伝染していつもの調子に戻っていった。
結局のところ、何があってもあたしの弱点と世界のすべてがテオドラさんであることに変わりはないのだ。
少しだけ変わったものと、変わらずに定着したものが混ざり合ってあたしたちの関係は形作られている。
「テオドラさん、あーん」
「あむっ、んっ……美味しいよ、夏海」
「次はあたしにも食べさせてくれますか?」
「いいとも。ほら、あーん……」
朝からいちゃついて何か問題でもあるというのだろうか。
あるわけがない。朝食もいちゃつきも一日の原動力となるのだから。
傍から見たら引かれそうだな、とは思う。でもここにはあたしとテオドラさんしかいないわけだし、誰の目も気にする必要なんかない。だから触れ合いが過剰でもいいじゃないか。
それに……こうなってるのって、やっぱり昨夜のことがあったからだろうし。
一線を超えた後に激しくなるテオドラさんからの密着。ひしひしと感じる独占欲の強さが心地良くて、またあたしは惑わされて自由を奪われてしまう。
食事が終わったらすかさずソファーに誘われた。いつものように並んで座る、と思いきや今回は最初から対面形式という攻め具合。
それだけテオドラさんはあたしを求めているし、あたしも嬉しいから応じてしまう。テオドラさんの美しい脚に負担がかからないか心配にはなるけど、鍛えてるから大丈夫だろうということにしておく。
「夏海……ひとつ、わがままを言っていいか?」
「はい。ひとつと言わず、いくつでも」
言葉に嘘はない。今のあたしは何を言われても受け入れたい気分の真っ只中なんだから。ちなみに前からずっとそんな気分だし、今後も永遠に続いていく予定である。
「今日は……ずっと、夏海とこうしていたい。一瞬だって離れたくない。夏海を……独り占めしたい」
あたしはこんなにもテオドラさんに求められている。愛する人に愛をもらえることが幸せすぎて、あたしの幸福ランキングは毎秒更新され続けて天井知らずだ。
「テオドラさん。それ、わがままなんかじゃありませんよ」
自分勝手だと思い込んで眉を下げているテオドラさんの頭を撫でる。わがままというのは他者の意思に反して自分の我を通すことだ。
「あたしも同じこと、テオドラさんに言おうと思ってましたから」
だから、二人の考えが一致すれば成立しない。願いが同じなら叶うに決まってる。抱き締めるのはその意思表示だ。
「ずーっとこうしていましょうね……」
頭が完全にぼんやりする前に考えてみたけど、今日すぐに買わないといけないものは特にない。食材も買い置きがあるし一日くらいは余裕なはず。
よし、大丈夫。このままテオドラさんと存分に愛を確かめ合おう。
堕落生活に片足を突っ込みかけてるのはわかってる。でも今日だけは許してほしい。
初めてを交わし合った翌日というのは今日しかないのだから。
そんな具合で、今日は本当にずっとくっついて過ごした。
対面ばかりを続けたわけじゃなく、いつもの寄り添い座りから膝枕、お風呂でのアレコレまで一通りのことをやってきた。する側ばかりでもなく、される側にもなったりして。
濃密だけど体感時間は長くなく。
あっという間に夜が訪れた。
……で、そんなことを朝から晩までしていたらどうなるかと言えば。
昨日という前例から簡単に予測できるだろう。予測じゃなくて期待の方が大きかったけど。
「夏海……」
ベッドの上に並んで座るあたしたち。状況はまるで昨日の再現だ。
けれど決定的に違う点が二つある。
舞台がテオドラさんの部屋だということと、主導権を握っているのがテオドラさんだということだ。
「テオドラさん……」
わかりやすく言うならば、まさに今あたしは押し倒されようとしていた。
絡められた指が、触れ合う肌が、伝わる鼓動が、潤んだ視線が、欲情した表情が、そもそもの空気が――何もかもがあたしにその事実を突きつけてくる。
「その……今日は、私が夏海を」
あたしをどうしたいのか。テオドラさんの口から直接的な言葉で聞きたい。あたしの運命を決定付けてほしい。
でも……それは求めすぎかな。ほら、テオドラさんってば緊張しすぎて固まっちゃってる。
「……優しくしてくださいね」
テオドラさんを抱き寄せて囁く。あたしを欲しているという事実だけで今は十分だ。
密着すればそれだけ体の動きや力が伝わりやすくなる。一度強く抱き返したテオドラさんは、ゆっくりとあたしをベッドに押し倒していく。
優しくして、なんて言ったけどテオドラさんだったら少しくらい痛くされてもいいかな……。
きっと、それも大切でかけがえのない思い出になるだろうから。
――――――――――
翌日の目覚めは史上最高に爽快だった。疲れもだるさも何もかもが吹き飛んでリセットされた気分。
なぜそうなったかって、昨夜色々あって色々満たされたから。テオドラさんの寝顔が普段の何倍にも増して美しく思える。
感想としては全然痛くなかった。むしろ良すぎてどうにかなるんじゃないかと思った。こんなの無条件でかけがえのない思い出になっちゃうって。
何がどう良かったのか、という質問には答えられない。人間には黙秘権というものが存在する。
起きたばかりで申し訳ないんだけど、今ものすごくテオドラさんに甘えたい。抱擁とキスと微笑みであたしのことを骨抜きにしてほしい。
昨日のテオドラさんもこんな気持ちだったのかな。離れたくなくて、くっついたままでいたくて、押し倒したくなって……。
きっと今日はあたしがそうなる。一日中寄り添って、べったり甘えて、夜は誘って隅々まで味わい尽くすのだろう。
そうすると明日はテオドラさんがあたしに甘えてきて……なんという幸せな無限ループだろう。悲惨な結末を迎えがちなループものに一石を投じたい。
「……んっ」
テオドラさんが目覚めそうな雰囲気になったので、寝顔を正面から見据える位置に移動する。
テオドラさんが今日最初に見るものはあたしでありたいから。
もちろん、今日最後に見るものも。
――――――――――
長かった休暇もそろそろ終わる。本当に色々あったし、充実した日々だった。
思い返せば初めて尽くしの日々だった。ようやくの告白といきなりの婚約。何年何ヶ月ってほどじゃない短期間にここまで濃縮された生活を送るなんて予想もしてなかった。
記憶を辿れば、いつどんな日であっても思い出が詰まっている。寝て起きてなんとなく生きてたあの頃には得られなかった宝物。本当に今のあたしは幸せ者だなって思う。
甘えて甘えられての幸せな循環も、次第に落ち着きが出てくるようになった。甘い依存の沼に沈んでいくようなことはない。
もちろんあたしたちの距離は近いまま。線引きというか、メリハリというか……そういった部分はテオドラさんがリードしてくれた印象がある。
徐々に戻りつつある日常。きっとあたしだけだったら夏休み最終日に味わうような重苦しい気分になっていただろう。
でも、そうはならない。テオドラさんがいるから。ずっと一緒だと誓い合ったから。普通の生活に戻ってもあたしたちの愛は変わることなんかない。
「やっほーナツミちゃん」
「お邪魔させてもらうぜ」
そんなある日、バルトロメアとシャンタルさんが訪ねてきた。休み明け前に顔合わせでもしておこう、という集まりだ。サプライズ訪問ってわけじゃないから準備もちゃんとできている。
でも二人がこれ見よがしにお揃いの髪留めをつけてるのは予想外だった。リボンみたいな可愛らしいデザインで仲良くサイドテールにしてる。シャンタルさんは普段からその髪型だけど、バルトロメアがアレンジしてるのは珍しい。
おいおいラブラブアピールですか? あたしたちは負けるつもりありませんけども?
「よおテオドラ、休み続きで寝惚け気分じゃねえか?」
「杞憂だな。忠告の気持ちだけいただいておこう」
張り合う気持ちを表に出したわけじゃないけど、お茶や軽食が置かれたテーブルを囲みながら歓談はおおいに盛り上がった。ずっとテオドラさんと二人きりの毎日だったから、賑やかで騒がしい空気がちょっと懐かしい。
「ナツミちゃん……しばらく見ない間に雰囲気変わった?」
「な、何を言ってるの。しばらくって前に会ってからそんな経ってないでしょ」
「ふぅん……」
相変わらずバルトロメアは鋭い。このままだとボロが出そうなので話題を変えないと。
「それよりバルトロメア、その髪留め似合ってるね」
「あっ、気付いちゃった? これはね……えへへ」
露骨な舵取りだったけど、どうやらうまく刺さったらしい。バルトロメアは髪留めをいじりながらすっかり乙女モードになって体をクネクネさせている。
待てよ。お揃いでこの反応ってことは、もしかして……?
「さて、そろそろ本題に入るか。つっても別にもったいぶることでもねえんだが」
タイミング良く始まるシャンタルさんの答え合わせ。続く内容は予想できるけど、変に緊張した心のドキドキは静まらない。
「私とバルトロメアはこの度、婚約を交わした。だからって何が変わるわけでもねえんだが……けじめってやつかね」
「もう、シャンタル様ったら照れちゃって! そんなところも可愛いんだから!」
「耳元で騒ぐんじゃねえようるせえな……ともかく、そういうわけだ」
やっぱりそうだったんだ……なんだか胸の中がぽかぽかする。身近な人の幸せってこんなにも心地良い。
なんて余韻に浸っていたら、バルトロメアがあからさまな構ってオーラと共にチラチラ見てくるじゃないか。
「おめでとう、バルトロメア」
「ありがと! やっとナツミちゃんに追いついた」
浮かれ気分が伝わってくるけど、今日くらいは大目に見てあげよう。特別な瞬間に舞い上がっちゃう気持ちはよくわかるから。
「めでたいことだな。末永く幸せに暮らせよ」
「おめえもな。愛想つかされて逃げられたら笑いながら一杯奢ってやるよ」
おっとシャンタルさん、そこはご心配なく。
あたしがテオドラさんに愛想つかすことなんてありません。今日も明日もあさっても、あたしたちは最高に仲睦まじい関係なんだから。
絶えない談笑に感じる空気を女子会気分と言うのだろうか。それなら女子会がブームになるのもわかる。こんな平穏で楽しい時間はずっと味わっていたいから。
その時、ピンポーンという音があたしたちの間を走り抜けた。なんてことはない呼び鈴の音なので、用事のある誰かが鳴らしたのだろう。
「誰だ……? 他に来訪の予定はないはずだが」
首を傾げながらも家主であるテオドラさんが玄関へと向かった。荷物の配達を頼んだ記憶もないので、訪問者の正体はあたしも見当がつかない。
残された三人で答えの出ない疑問を投げ合っていると、テオドラさんが戻ってきた。
その後ろに見慣れない男性をつれて。
……えっ、誰この人。
全速力で走ってきたのか額には汗が滲み、肩で息をしている。礼儀正しく頭を下げてきたけれど、状況が飲み込めなくておずおずとした対応しかできない。
「テオドラ、これはどういうことだ?」
「私にもわからない。ただ、緊急の要件があるとのことだが」
話によれば、どうやらこの男性は中央庁の役人さんらしい。しかもジリオラさん直下の部署で幹部の地位にあるとか。つまりめちゃくちゃ偉い人ってことだ。
……そんな人が息を切らせてどうしたの? なんだか一波乱ありそうな気がする。
「私がお持ちしたのはテオドラ様への一報です……が、皆様もどうかお聞きください」
身構えたのはあたしだけじゃない。四人全員が事の成り行きを見守っている。
注目を一身に浴びて、役人さんはゆっくりと口を開いた。
「結論から申し上げます……セレナ様の消息が掴めました」
「なっ……!」
絶句したのは全員。でも声を出したのはテオドラさんだけだった。
静寂が満ちる。あたしはテオドラさんと役人さんの間で視線を揺らすことしかできない。
「詳しく話せ」
シャンタルさんが先を促してくれた。テオドラさんは驚きの表情を張り付けたまま。
「四日前のことです。中央庁へ一つの連絡が入りました。発信元は遠方の山中にあるアラッカという小さな村で――内容は、セレナ様がその村で暮らしている、というものでした」
誰も口を挟まない。いや、挟めないと言うべきだろうか。今この場の言葉は役人さんが支配している。
「類似した情報は何度も受けています。そのどれもが目ぼしい成果を得ることはできませんでしたが……情報を精査し、提供された話を照らし合わせ、通話越しではありますがセレナ様と思しき方の声も確認しました。それらの結果、信憑性が極めて高いという判断が出されたのです」
発声だけでなく、呼吸までもが憚られる空気。息苦しいとは少し違うけど、実際あたしは呼吸するのも忘れて聞き入っていた。
「そして昨日、我々はアラッカの村から来た使者と接触しました。赤髪のその女性はテオドラ様との即時面会を望みましたが、まずは中央庁の来賓館へとお招きいたしました」
その後、改めて女性に話を聞いていくうちに確証が固まっていき、ジリオラさんが直接預かるまでになったのだとか。
元々手がかりなんてない捜索。そこに突然飛び込んできた有力情報となれば、食いつかずにはいられない。
状況と情報を踏まえて審議した結果、こうして伝令さんが走らされた――というのが顛末だった。
「――つきましては、テオドラ様。使者の女性とお会いしていただけませんか。セレナ様に最も近しいお方であったテオドラ様に、情報の真偽や今後の動向について意見をお伺いしたいのです」
どう考えても行くしかない。
ずっと捜し続けてきた人が見つかりそうなのだから。情報を持ってきた女性がどんな人なのかを見抜き、詳細を聞き出して判断できるのはテオドラさんしかいない。
「……」
テオドラさんからの返事はない。一体何を迷っているのかと思って目を向ければ、テオドラさんはさっきと変わらず驚愕の表情で唇をわなわなさせていた。
……そっか、そこまで深く強く絶え間なくセレナさんのことを考えていたんですね。
昔のあたしなら、ここで理不尽な嫉妬を練り上げていたことだろう。実際そうなりかけたこともある。
でも今は違う。あたしとテオドラさんは一心同体。テオドラさんの願いはあたしの願いでもある。
こんなところで止まっている場合じゃない。
「テオドラさん!」
「テオドラ!」
あたしとシャンタルさんの声は同時だった。重なった声が功を奏したのか、はっとしたテオドラさんが正気を取り戻す。
「――中央庁に、その女性とやらはいるんだな?」
役人さんの話はちゃんと聞こえていたようで、その瞳はもう見るべきものを見据えていた。
「行きましょう、テオドラさん!」
手を引いて立ち上がる。前を向いているのはあたしも同じだ。
「私も行かせてもらうぜ。他人事じゃねえし、セレナ発見となれば人手も必要になってくるだろう」
「アタシもご一緒させてください! その……何かの役には立ちます!」
その意思が嬉しくて心強い。テオドラさんも同じなのか、同行を断るようなことはしなかった。
「それでは皆様、僭越ながら先導をさせていただきます」
役員さんの後を追い、あたしたちは家を出た。昨日までの空気と違って感じるのは心理的なものだろうか。
進むべき方向を見上げれば、遠くからでもわかる目的地の中央庁。あそこに未来への糸口がある。テオドラさんの悲願を叶えるかもしれない光明が。
逸る気持ちを抑えたくて繋いだ手を握り直し、テオドラさんと視線を交わす。
よし、大丈夫。テオドラさんの瞳はすべてを浄化してくれる。
小さく頷き合えばそれで確認は完了。
あたしたちは中央庁へ向けて一歩を踏み出した。




