第78話 一線の先へ
刺激が強すぎる膝枕は区切りがついた。
でも、それと離れることは同義じゃない。そもそもあたしたちは離れるなんて概念を知らないし、燃え上がった炎の消し方もわからない。
キスしたら一区切り、なんて誰が決めたんだ。あたしたち、少なくともあたしにはそんなルール通用しない。
「テオドラさん……」
なんて囁いたのは通過点。膝枕を終えたあたしは自由に動ける。
「もっとくっついても……いいですか?」
返事を待たず欲望と雰囲気に流されるまま、今度はあたしがテオドラさんの太腿へとお邪魔していた。
ただし、乗せるのは頭じゃなくて下半身。場所は変わらずソファーの上。いつぞやの対面形式だ。
テオドラさんは頭を乗せるのが好きで、あたしは体すべてを預けるのが好き……同じ太腿という部位に対する気持ち、これがフェティシズムってやつだろうか……。
誕生日はまだ終わらない。だからこの空気も消え去らない。
あたしの動きは遮られない。それどころかテオドラさんからも体に手を回して導いてくれる。今度はあたしが甘える番だ。
「……」
言葉はない。あるのは視認できそうだと錯覚するくらいに色付いた吐息だけ。
本当は見つめ合っていたいけど、恥じらいと照れが邪魔をする。ほんの数秒しか視線を絡めていられない。
それでもテオドラさんから目を逸らしたくなくて、せめてもの抵抗として抱き合って密着して目を閉じて、あたしの世界を好きな人で満たす。
さっきの膝枕で顔が近いとかぬかしてた自分のことを小突いてやりたい。今の方が比べものにならないくらい接近してるじゃないか。
頭を撫でながら指の間に通して感触を楽しんでいた髪の毛に、今じゃ頬擦りなんかしちゃってる。耳だってやろうと思えばなんだってできる距離だ。
そう。なんだってできる。
たとえば……さっきまでの再現だって。
「テオドラさん……好き」
「ひゃんっ」
囁きに反応して震える体。言葉と吐息、どちらをくすぐったく感じてくれたのだろう。
答えがわからなくても、抱き合っていることによって伝わってくるその反応は正直で、何よりも嬉しくて、もっとほしくなる。
「好き……好きなんです、とても……」
「わ、私も好きだ、夏海……」
今度は好きと言い返してくれた。それだけで心が幸せの熱に包まれて、思考は薄い霧に覆われる。
テオドラさんの声が至近距離から届く。空気にさえも遮られず、唇から鼓膜へと直接伝わる道筋がはっきりわかる。
言葉が単調になるのは、きっと今は語彙力が重要じゃないことを脳が無意識に判断しているのかもしれない。
必要最低限の言葉で伝わることを知っているから、触れ合う喜びを噛み締めるために脳のリソースを割いているに違いない。
「夏海……好き、好き、好き……」
囁きが甘く耳を焦がす。仕返しのつもりかな……なんて推測もどこかおぼろげで、脳内の霧が一気に濃度を増していく。
「テオドラ、さん……」
思考能力もどんどん落ちていく。理論的な考えなんて無理難題。
できるのは、たった一つ。
テオドラさんのことを欲するだけ。
髪を撫でて撫でられて。ショートヘアのはずなのにテオドラさんの髪はあたしの指を徹底的に絡め取ってくれる。
それでいてサラサラと指の間をくぐり抜ける一本一本の感触は甘美で繊細。ずっと、もっと触っていたいと思うのも当然だ。
テオドラさんもあたしの髪を触ってくれている。頭部から毛先まで独占するように撫でられて、背筋から腰にかけて甘い痺れが走っていつまで我慢できるかわからない。
髪が長いとそれだけテオドラさんが触れる時間が増えるので、あたしはずっとこのロングヘアを維持し続けようと心に誓った。
「夏海の髪は綺麗だな……いつまでもこうしていたくなる」
「……いいですよ。あたしもテオドラさんに触られるの……嫌じゃ、ないので」
密着する体。重なり合う鼓動。何もかもが素直な反応。
熱と鼓動の高まりも、きっとすべてが伝わっている。
至近距離を保ったまま体を調整し、テオドラさんと正面から向き合う。今までで一番ドキドキしてるけど、だからこそ今度は逃げずに見つめ合える気がした。
潤んだ瞳に見え隠れする期待や不安。そのすべてをあたしが独占したいから。
そして、あたしも同じように独占されたい。
他の誰も成り代わることなんてできない、たった一人の特別になりたい。
明確な独占の合図となる行動は何度も交わした。
もちろん、これからも交わしていく。贈り物は何度でもしていいと言ったのはテオドラさんだ。
「テオドラさん……誕生日の贈り物、もらってくれますか?」
言いながら自分の唇に指を当て、軽く押してみる。こんな誘惑以外の何物でもないこと普段じゃ絶対にできないけど、今は自然と体が動いた。
「夏海……」
わずかに聞こえた生唾を飲み込む音が幻聴じゃないことはあたしが一番知っている。体を密着させていたら嘘なんてどこにも生まれない。
薄く開かれた唇から覗く魅惑の領域へ、あたしの感覚と意識は無制限に吸い寄せられてしまう。
この魔力にはどうしたって勝てないし、きっと勝つ必要もない。
「いいですよ……お好きなだけどうぞ」
すぐに抱き寄せられ、距離がゼロになる。
あたしからではなく、テオドラさんからのキス。プレゼントなんだからあたしは受け止める側。
「ひゃ……んむ」
控えめな啄ばみが心地良くて、けれどもどかしくて。
早く全体にその刺激を与えてほしい。自然に開いてしまう唇は、きっとその先にある刺激さえも待ち侘びている。
唇だけじゃ足りなくて、力加減もわからないままテオドラさんを抱き締める。重なり合う衣擦れの音が意外と大きい。
それだけあたしの欲望が深いことを指摘されているようで、けれど事実だから否定もできず密着を続けるしかない。
もっとしてほしい。あたしを離さないでほしい。
それしか考えられなくなってきた頃、急に唇が寂しくなった。認めたくなくて目を開けば、ゆっくりと離れていくテオドラさんの顔が見えた。
鏡を見なくてもわかる。今のあたしはとろけた瞳を隠さず眉を下げ、物欲しそうな表情をしているに違いない。
でも、あたしから接近してキスの再開を求めたりはしない。
できない、と言った方が正しい。今しがたまでのキスで身も心も骨抜きにされて主導権を完全に奪われてしまったから。テオドラさんに思うところがあって離れたのならば、あたしはそれに従うしかない。
あたしにできる最大限のアプローチは、テオドラさんの上気した頬を撫でること。唇が離れただけで、テオドラさんの顔は近いまま。でもそのわずかな隙間すら埋めたくなる。
鮮やかな色に反して少しだけひんやりしていた頬は、あたしの手から伝わる熱と混ざり合って密着の温度に変わっていく。
「夏海、もっと……」
吐息と間違えるくらいに儚い囁きにあわせ、撫でていた手が握られる。
あたしの想いが届いたらしい。次に来る波を全身で受け止める準備はできている。思うままに、いくらでもあたしを求めてほしい。
そのままテオドラさんは再びあたしを抱き寄せて――こなかった。
代わりにテオドラさんは捕らえたままのあたしの手に熱い視線を向けている。どうしたんだろう、と疑問に思う間もなく指先に温かな柔らかさを感じた。
「あっ」
不意打ちで思わず押し出された声とテオドラさんのリップノイズが重なる。瞬間、中指の先に走る甘い痺れ。
指にキスなんて反則……なのに体も視線も動かせない。食べられちゃう、なんてことを迂闊に考えたせいで本当に食べてほしくなってしまう。
異常な高ぶりや鼓動と一緒に、あたしのそんな考えまで伝わってしまったのだろうか。テオドラさんの攻撃は止まらない。
「ひゃうんっ!」
爪と指の腹が唇に挟まれる。幸せな圧迫で変な声が出たし、ムニムニと動くテオドラさんの唇がとんでもなく艶やかに見えて仕方がない。
ちらりとあたしの目を見たテオドラさんが、何を思ったか口角を上げる。そうやって唇を動かされると敏感な指先はそのすべてを感知して神経を暴走させるのでもっとやってほしい。
だから、テオドラさんが口付けを落としやすいようにあたしの手を動かしても抵抗しない。支配されていることを実感したせいでさっきから呼吸をするたびに肩やお腹が大変なことになっている。
指先に留まることなんてするはずもなく、関節から手の甲まで細かいキスを落としながらテオドラさんの唇が移動していく。その途中たまに上目遣いで視線をぶつけてあたしの意識を削るのも忘れない。
周到すぎる。キスをする場所によって意味が違うとか聞いたことあるけど、真っ最中にそんなことを思い出す余裕なんか一ミリもない。
「テオドラ、さん……」
名前を呼べばあたしを見てくれる。手を掴まれ、視線を絡め取られ。感覚まで掌握されつつあるあたしにできる唯一の行動はテオドラさんを求めることだけ。
「夏海、もっと……」
だから、テオドラさんから手を伸ばされて最初に芽生えたのは狂おしいほどの歓喜だった。
もっと、とせがまれたらいくらでも差し出すしかない。小さく頷いて目を閉じれば無防備な構え。何をされてもいいという意思表示。
視界が閉ざされてもテオドラさんの動きは感じられる。それでも頬から首へ流れるように触れられたら耐えられるわけがなく、熱い息と共に口が開いて更なる無防備へと導かれてしまう。
鋭敏になった神経が次に感じ取ったのは前髪への接触。掻き分けられたけど何をするのかな……という期待にはすぐに答えが届けられた。
「んっ……!」
前髪という防護壁を失った額に感じる熱で、思わず目を開けてしまう。そこで初めて額へのキスを実感し、捕食される錯覚が再びあたしの心を満たす。
視界いっぱいのテオドラさんの首という見慣れない光景も興奮材料になっているようで、次はどこにされるのか待ち遠しくてたまらない。
あたしの心が焦れるのを待っていたかのようにテオドラさんが動き出す。額から目尻を通り、頬が餌食になっていく。
きっと潤んだ瞳も見透かされている。恥ずかしいけどテオドラさんなら構わない。テオドラさんにしか見せないんだから、穴が開くほど見てほしい。
「夏海……」
「テオドラさん……」
声と視線と呼吸と肌。互いのすべてが互いを求める意思表示をしている。触れ合っていれば伝わらないことなんてない。
当然のように重なった唇は加減なんてものは知らず、すぐに深い繋がりを求めて感情を溢れさせる。
それでも伝えきれない想いがあたしの中でぐるぐると巡る。もっともっと、あたしの全部を伝えたいのに。頭から爪先まで、全身に散らばるあたしという存在を。
「……っは」
キスを終えたテオドラさんの顔を直視してしまい、あたしのトリガーが引かれた。
もう止まるつもりなんかない。
「テオドラさん……手と顔だけで、いいんですか?」
「……えっ?」
きょとん、とした顔も可愛い。テオドラさんの心をもっと揺さぶりたい。
「他のところにも……もっと色々なところにしてもいいんですよ……?」
意味が伝わるまで少しかかったみたいだけど、あたしの首から下に向けられた視線の色が理解を叫ぶのがわかった。
「テオドラさん」
「……なんだ?」
「体、熱くなっちゃいましたし……お風呂、行きませんか?」
「……ん」
それだけで十分だった。既に意思疎通は完了していたんだから。
今のは通過儀礼。これから先は予定調和。
言葉通りの場所へ行き、言葉通りのことをする。
難しいことなどない、単純な話。
ここからは二人だけの時間だ。
――――――――――
入浴で記憶をなくすようなあたしじゃない。やらかしたのは最初だけ。ちゃんと成長してるんだ、と胸を張りたいくらいだ。
それでもやっぱり慣れるにはまだ道のりが遠いようで、素肌を晒した触れ合いで背筋やなんやらがゾクゾクしっぱなしだった。あんな誘い方をしておいて情けないな、と自分で突っ込みを入れたくなる。
だけどちゃんと有言実行というか、言葉に偽りなしというか……相応のことはしてもらえた。キスマークというものがどれくらい残るかは初めてのことだから想像もつかないけど、できるなら長く残ってほしいし消えたらまたつけてほしい。
「……」
「……」
会話がないせいか、余計に最新の記録映像が浮かび上がる。ネグリジェから透ける肌が火照っているのは決してお風呂に入ったからだけじゃない。
あたしの部屋、並んで腰掛けるベッド。昨日までだったらこのままくっついてお休みなさい、と一日を終えていただろう。
今日は違う。誕生日という特別な日を簡単に終わらせてなるものか。眠らなければ終わらない。
もう一つの特別を刻まずには終われない。
雰囲気はずっと甘く、そして淡く色付いている。流されているのかもしれないし、酔っているのかもしれない。
だけど決めるのはあたし自身。これはあたしの意思だ。心が叫ぶ切ない劣情に抗うことなく加速し続けて、スピード違反を起こしたのも全部あたしの自己責任。
「……テオドラさん」
だったら崖が近付こうがオーバーランしようが走り抜けるしかない。
今さら何をどうしたところであたしは止まれないんだから。
「今日、色々ありましたね」
「そ、そうだな」
「なんだか……あっという間に夜になっちゃった気がします」
「そ、そうだな」
テオドラさんが同じことしか言えなくなってる。どうせ繰り返すなら「好きだ」って言ってほしいんだけどな。
「今日の誕生日、喜んでもらえてたら嬉しいんですけど」
「も、もちろんだとも! 夏海が私のために……間違いなく今までの誕生日の中で一番、だった」
「……本当、ですか?」
なんでだろう。欲しかったはずの言葉なのに、いざ本当にもらえると不安になってしまう。テオドラさんのことは信じているし、信じたいのに。
「本当だ。夏海がいてくれて、祝ってくれて、愛してくれて……今日、私は世界で最高の幸せ者になれた」
空白だった手を繋がれた瞬間、あたしは気付いた。
この不安は疑問からくるものじゃない。欲求が形を変えたものなのだと。
「……まだ、今日は終わってませんよ」
繋がれた手を引き寄せ、テオドラさんの腕に絡みつく。密着度が増していくたびに心が安らぎながらも興奮するのがわかる。
こうして触れ合うことで様々な感情が湧き上がり、伝わっていくことをあたしは知ってしまった。
止まれないし戻れない。一度高めた水準は簡単には戻らない。あの味をもっと知りたいし、その先があることも知っている。
テオドラさんが幸せだというのなら。
あたしにもその証明がほしい。
「な……んっ」
短いキスは宣戦布告と意思表示。
あたしの強さと弱さを受け止めてほしい。
「テオドラさん……もっと、したいです」
それだけで言葉は足りる。行間や意味合いは既に触れ合った肌で交わしたから。
「な、夏海……」
ほら、テオドラさんも理解してくれた。わかりやすいほど目が泳いで慌ててる。さっきまであんなに夢中であたしの体にキスしてくれてたのに……ほんと、可愛いんだから。
「し、しかし……私たちは交際を始めてまだ時間が浅いわけで……」
意気地なし、と切り捨てることはできない。むしろ、それだけあたしのことを大切に想ってくれてる証拠を示してくれて愛おしい。
「時間なんか関係ありませんよ」
言葉は考えることなく生み出されていく。あたしの本心なんだから当然だ。何度となく顔や仕草に出ていたものが、今は言葉になっただけのこと。
「こういうのって、時間だけじゃなくて中身も大切だと思うんです」
「中身……?」
「どれだけ好きか、触れたいか、繋がりたいか……そういう気持ちがどうしようもないくらいお互いに出てきたら、その、いいんじゃないかなと」
あたしはもうその領域まで達している。
つれてきてくれたのは他でもないテオドラさんだ。
「夏海……」
「あたしは……もう、どうしようもないくらいテオドラさんが好きです」
うぐ、という効果音が似合いそうな表情をするテオドラさん。こんな挙動と反応のすべてがあたしに好きだと叫べと命じてくる。
「それに、時間はこれからいっぱいあるじゃないですか。足りないっていうなら……前借り、しちゃいましょう」
理論の合理性なんかいらない。必要なのは二人の気持ちだ。
あたしだけじゃなくて、テオドラさんの気持ちも聞かせてほしい。
「あたしはテオドラさんのことが欲しいって思ってます……テオドラさんは、どうですか?」
答えがわかっている質問をする意味はある。テオドラさんの意思を知って、合意の上でそういうことをしたいから。ここは雰囲気に流されちゃいけないところだとあたしは思う。
「テオドラさんの気持ち……教えてください」
言いたいことは言い切った。あとは返事を待つばかり。あたしの視線はもう泳がない。
テオドラさんの答えを待ち続ける。交際が始まるまでの時間と比べたらこんなの相手にすらならない。
「……私は」
頷いて続きを促す。
絶対に聞き逃したくない言葉を求めて。
「私も……したい。夏海が欲しい」
「はい、あたしの全部、テオドラさんにあげます……」
まずは抱き締めて温もりを分かち合う。抱き返されればそれ以上の温度が伝わってくる。
これでいい。想いは素直に打ち明けなきゃ。
素直ついでに言わせてもらうと今のハグで完全にスイッチが入った。
同意も取れたことだし今度こそ遮るものは何もない。
あたしのすべてを捧げるために突き進む。それだけだ。
「夏海……今日はずっと離したくない……離れないで……」
「あたしはここにいますよ、テオドラさん……」
弱気な言葉を唇で塞ぐ。求めるあまり力加減を間違えたのか、二人でバランスを崩しそうになる。
開幕早々ミスはしてられない。一度踏ん張って、しかし勢いは維持しつつ。あたしはテオドラさんを優しく押し倒した。
……って、あれっ?
これあたしが攻めになるパターン?




